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赤信号だけの時間


 日本人は信号を守る、と良く言われる。
 一方で車が通っていないのに信号を守るのは馬鹿馬鹿しいという「外国人からの批判?」を受けるともっともだと恥ずかしくなる人もいるらしく信号無視して威張っているおバカも少なくない。
 確かに経験上、外国人のなかには信号を無視して通りを横断する人間が少なくはないが、外国人全てがそういうわけではない。順法精神があるかないかは、けっして国民性だけでは決まらない。個人の問題である。
 また、日本と外国は同列に論じ得ないことも多い。外国は概して個人のこうした行動に関して「自己責任」を問う事が多く、「信号を守らない」ことに対して「守らない側の責任」も問われる。信号を守らないことにもそれなりの覚悟をすべきなのだ。
 おそらく間違いないのは、日本人はどうも、人の批判に弱いらしいと言うことであるが、これも人によることは確かで、僕なんかは余り気にしない方である。
 国民性なんて言う物は傾向を示しているだけで決めつけるものではない。血液型などもそうだが、信じる人も信じない人も「傾向」の話を「決めつけ」ることで混乱が生じるのである。国民性も血液型も「傾向として」は多少あるが、決めつけるほどの要素ではないと理解できないのはなぜなのだろう。どちらも度数分布をもう一度勉強しないといけない。算数も数学も、人生を理解するのは必要なものである。

 あ、いや。今回は・・・そんな話をしようと思っていたわけではない。「赤信号だけの時間」というタイトルの話である。
 気づいている人も多いだろうが日本の信号機というか、信号のシステムには「2つのパターン」があるらしい。単純化すると交差する二本の道路において、一つは「片方が赤になると」交差する他方がすぐに緑になるパターン。もう一つは「片方が赤になっても」交差する他方が暫く赤のまま、のパターンである。大都市においては単純に交差する道路だけではないので、何本もの道路が複雑に混じっている交差点も多いが、それを含めて言うと①どこかが必ず通行可能になっているパターン、と②どこも通行可能ではない時間があるパターンの二種類である。ここで言っているのは基本的に車両信号の話だが、赤から青になるタイミングは時差式以外では殆ど同じだろう。
 歩行者用の信号は車の信号が赤になる前に点滅し、赤になるが、それは車の右折、ないし左折のために必要な措置であり合理的だが、車の場合が緑の後に黄色、そして赤という遷移がされているにも関わらず、片方が赤に変わっても、他方が赤のまま、という信号機がかなりあることに気づいている人は多いだろう。
「寝てんじゃねえよ、馬鹿信号」
 と悪態をつくと、ちょうど目覚めたかのように緑に変わるのだが・・・・。いったいどうしてこんな信号機が存在しているのだろうか?
 こういう信号システムが導入された理由は正確には分からないが、一時、「交差する方向の信号が赤になっても、一定時間赤の儘にしておくことによって、交差する方向からの信号切り替え直前の急な侵入に対応するため」要は、ぎりぎり赤信号に変わる前に突入する馬鹿な運転手が起こす事故を回避する、ような目的で一定時間、双方とも「赤」の状態にする、というような話があったような記憶がある。
「おかみ」的な発想で言えば、交通法規において「赤」は「絶対進入禁止」なので、双方とも進入禁止・・・事故が起こるはずもない、という解釈であろうし、「赤」の直後に「緑」が来る、という概念を「行動科学的に」分析したことによって「交通事故の減少に寄与する画期的なシステム」などと思ったのかも知れないが、これは二重・三重の意味で間違えである。
 第1に「例え一時的に両方、赤という状況によって交通事故が減ったとしても、人間というのはどちらとも赤になっている、という時間があるということで行動を変化させる」、というのが行動科学の考えの基本である。
 第2に「どちらとも赤」という状態は実は無法状態を意図的に作り上げている。従って、ここで事故が起きた場合、どちらの責なのかが不明確になる。「おかみ」的な発想でいえば、「どちらも悪い」で済むのだろうが実際はそんな状況を現出させた「法規」のほうに問題があるのではという考えは拭えない。
法規というのは「守ってさえいれば責任を問わない」だけでは済まされず、「守るインセンティブ」を確保する必要があるのだ。第1の行動態様の変化は、どうせ、「向こう側は暫く赤のままだから行っても大丈夫ではないか」とか「向こう側は赤になったのだから、こちらは進んで良いはず」という行為を生み出す可能性が高い。 
 第3の問題として「明確な善悪を放棄する仕組みを作ったために発生するコスト」が生じる。世の中の善悪は全て相対的なものであるが、法というのはその裁量を少なくするために存在しているのだ。「どっちにも非がある」などというぼんやりとした仕組みなら、そんな仕組みを否定する、というのは当然のことなのである。そもそも黄色信号という仕組みがあるのにそれに輪を掛けて「どちらとも赤」を赦せば、「仕組みそのもの」への疑念が生じ、仕組みそのものが壊れる可能性を高めるのである。
 信号の仕組みというのは、実はかなり複雑で、そのくせ結構裁量性が高いために様々な信号機が存在して、それが時折大きな交通事故を起こす引鉄になったりしている。それを使うものたちは「おかしいことはおかしいと声を上げなければいけない」
 かつて僕は警察署に信号機の運用(右折)とその先にある高速乗り口への導入に関して意見を出したことがある。返答も来ず、暫くの間何の変更もなかったが、半年ほどして「何の反応もないまま」意見通りに変更されていた。まあ、日本の警察とか公安委員会なんて言う物はそんなものだが、それでもおかしいことはおかしいと言わないといけないのだ。そうしないと「おかしいことを認めている」ことになるのである。残念ながら社会なんてものはその程度のものであり、そんなものに寄っかかってばかりいると、とんでもないところで高下駄でまろぶことになりかねない。
 正直な所、この「判断保留」みたいな信号機、どうも日本の「あいまいな」文化を体現しているみたいで気持ち悪いのだ。なんとかして欲しいものである。

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