とある男の死

会議室から出た瞬間、私の顔から一切の表情が消えました。

先ほどまで民衆を熱狂させていた、あの「救済者」の輝きも、神を嘲笑う不敵な笑みも、今の私には一欠片も残っていません。

廊下を歩く足元は泥のように重く、肺の奥が焼けるように熱い。

「……っ、ぐ……」

私は壁を這うようにして、人目を避け、誰もいない教会の裏手、湿った空気の漂う中庭へと転がり込みました。

かつては美しく手入れされていたであろうその場所も、今は冬枯れの木々が幽霊のように突っ立っているだけです。

「……あ、は……っ、はは……」

膝をついた瞬間、胃の奥が激しく痙攣しました。

私は包帯の巻かれた左手を地面に突き、堪えきれずにその場に嘔吐します。

「……っ! げほっ、ごほっ……!」

喉を焼くような酸っぱい感覚。

胃の中にある、実体のない不快感が全て競り上がってくる。

あの日、忌み子の羽に触れた時と同じ。

いえ、それ以上の拒絶反応が全身を駆け巡ります。

苦しい。吐き気が止まらない。

なのに、私の口の端は、何かに操られているかのように吊り上がっていました。

「……あははっ! 最高ですね、本当に……最悪だ……」

地面を汚しながら、私は声を殺して笑いました。

笑えば笑うほど、喉の奥からまた何かが突き上げてくる。

自分でも何が可笑しいのか分からない。

ただ、この「地獄」が、かつてのあの日と同じ匂いがして、それが滑稽でたまらないのです。

ふと、視界が滲んでいることに気づきました。

地面に落ちる滴が、雨でもないのに私の視界を歪めていく。

悲しくなどない。後悔など、微塵もない。

私は私の正解を貫いただけ。

神がいないことを証明しただけ。

それなのに、頬を伝う熱い液体は止まることを知りませんでした。

「……お兄さん」

背後から、衣擦れの音と共に、鈴の鳴るような静かな声が響きました。

私は弾かれたように顔を上げました。いえ、正確には顔を「背けました」。

そこには、いつの間にか会議室を抜け出してきたのでしょう、あの忌み子の少年が立っていました。

「……なぜ、ここに」

私は汚れた口元を手の甲で拭い、必死に「いつもの私」を繋ぎ止めようとしました。

けれど、声は掠れ、肩は小刻みに震えています。

少年から顔を見られないよう、私は深く首を垂れたまま、冷たく、けれど力なく言い放ちました。

「見苦しいところを……お見せしましたね。早く戻りなさい。ここには、あなたが求める『神様』はいませんよ」

「……お兄さん、今、笑ってるの?」

少年の一歩、近づく足音が聞こえます。

「……それとも、泣いているの?」

その声に少しばかりの憐みを感じ、頭がグニグニと不快を感じました。

「……どちらでも、いいでしょう。そんなことは、私の勝手だ。」

私は地面を掴む指に力を込めました。

包帯の下の掌が、狂ったような熱を放っています。

今の私を構成しているのは、吐瀉物と、止まらない涙だけ。

この少年の清らかな瞳に、そんなものが映ることを、私のプライドが、あるいは私の悪魔が、激しく拒絶していました。

「……帰りなさい。私に構うなと言っている……っ!」

私の拒絶を、夜の空気が静かに飲み込んでいきます。

ですが、少年は立ち去りませんでした。

それどころか、カサリ、と落ち葉を踏む音が近づき、私のすぐ隣で止まったのです。

私は地面に這いつくばったまま、泥のついた左手で自分の顔を覆い隠しました。

不意に、背中に柔らかな温もりを感じました。

少年が、何も言わずに私を後ろから抱きしめようとしたのです。

その瞬間、私の全身を電流のような拒絶反応が突き抜けました。

「……っ、触るなと言ったはずですよ……!」

私はその腕を、振り払うというよりは、這いずるようにして必死に避けました。

穏やかな、けれどどこか空虚に響く私の声が、夜の中庭に震えながら落ちます。

「やめてください。あなたのその、汚れていない温かさが、今の私には…この世の何よりも、吐き気がするほど不快だ。」

「お兄さん……」

「……」

「ふふ、まだ分からないのですか? 私は救われたいわけではない。憐れんでほしいわけでもない。ただ、私を独りにしてくれと言っているのです。」

私は力なく笑い、口元を拭いました。

涙は止まりませんが、私の瞳には、少年に感化されたような色は一欠片もありません。

ただ、限界まで膨れ上がった自己嫌悪と、揺らぐことのない神への呪詛が、ドロドロに混ざり合っているだけ。

「……帰りなさい。会議室の『大人たち』が、あなたを心配していますよ。…早く、あなたの愛する神様が用意してくれた、光り輝く未来へ戻りなさい」

私は一度も少年の顔を見ることなく、ただ闇を見つめて言い放ちました。

少年の指先が、私のコートの裾に触れようとして、ためらい、そして静かに離れていく気配。

「さようなら、お兄さん。……私は、祈り続けます。お兄さんの心が、いつか光でいっぱいになるように」

少年の足音が、ゆっくりと、遠ざかっていく。

その音が完全に消えるまで、私は地面に額を押し当てたままでした。

……ようやく、独りだ。

「……あは、は……。祈り、ですか。……相変わらず、傲慢な子供だ。」

私は一人、中庭の闇の中で呟きました。

外からは、民衆の歓声と破壊の音が、遠い祝祭の調べのように聞こえてくる。

私が作り出した、神のいない世界。

その中心で、私は嘔吐と涙に塗れながら、ただ静かに、次に来るであろう人生の終わりの舞台を夢想していました。

結局のところ、私が何を考え、何を求めているのか。

そんなことは、私にしか分からない。

私は、汚れきった左手の包帯をきつく締め直し、ゆっくりと立ち上がりました。

私が自身にある輪っかを認識してから、どれほどの月日が流れたでしょうか。

一週間だった気もしますし、永遠だった気もします。

ただ確かな事実は、すべてが終わったということです。

あの国教会での騒乱も、ベランダから見下ろした民衆の熱狂も、今となっては遠い昔に読み終えた退屈な物語の一節に過ぎません。

私の死刑は、ごく自然な流れとして決定されました。

そこに劇的な反転も、神による奇跡も、あるいは悪魔による救済もありません。

ただ淡々と、法に沿って、理にかなった終止符が打たれる。

それは私にとって、この上なく心地よい事務処理でした。

執行の直前。

視界の端に映る世界は、驚くほど静止していました。

誰の顔も思い出しませんでした。

あの忌み子の熱すぎるほどの眼差しも。

あの青年の、淹れたてのコーヒーのような日常の温度も。

あの方の、あまりにも普通すぎる言葉も。

それらはすべて、私の内側にある何かに、何の影響も与えなかった。

私は、ただ、私でした。

最後に見た空が、どのような色をしていたかは覚えていません。

首元に、冷たくて鋭い真実が触れた時。

私はようやく、自分が誰の物語にも属さない、ただの一つの事象であったことを理解しました。


神がいない。

そして、私もまた、いなくなる。


それは、私という偽善者が、唯一、神を欺かずに済んだ瞬間だったのかもしれません。

意識が、落ちていきます。

あの忌み子の羽に触れた時の嘔吐感に似た、けれど、ずっと穏やかな暗闇。

あの日、泉に落とされた鉄の斧は。

ついに誰の手にも拾われることなく、深い泥の底で、ただの錆へと還っていきました。



「……と、この物語はこれで終わりです」

男は、膝の上に置いていた古びた手記を静かに閉じた。

そこは、かつての白亜の輝きを失い、今は市民の議論の場へと変わった旧国教会の図書室。

窓から差し込む夕陽が、革表紙のを照らしている。

「へー! ちょっと怖いけど、でも面白かった!」

対面に座る少女が、弾んだ声で言った。

彼女の瞳はまだ幼く、純粋な好奇心に満ちている。

「そうでしょう?」

男は薄く、穏やかに微笑を浮かべた。

その表情は、かつての誰かが持っていた善良な聖職者の仮面にどこか似て、決定的に何かが欠落している。

「でも出来事が似てるね〜。あの事件に。」

「ああ……十数年前に起きた、あの事件のことですか」

男の指先が、手記の縁をなぞる。

あの日、一人の男の死と共に国教会の権威が崩壊し、人々に「自由」という名の混乱が与えられたあの大暴動。

それは今や、歴史を決定的に変えた転換点として語り継がれていた。

「今って、どんな勢力がいるんだっけ?」

「そうですね……。旧来の教義を守り、今もなお沈黙する神を待ち続ける勢力。何も信じず、自らの欲望のみを指針とする無信仰派。そして、あの時現れた忌み子や天使を脅威と見なし、悪魔に対抗すべきだと説く過激な派閥……。他にも数えきれないほどの思想が、この国には蔓延っています。」

男は淡々と、まるで他人の家の家計簿でも読み上げるような平坦な口調で続けた。

「あなたはどうしたいですか?」

その問いに、少女は小首を傾げた。

「んーとね……まだ分かんない!」

「そうですか。ゆっくり考えて決めるといいですよ。今のこの世界には、あなたを縛り、正解を押し付ける神様はもうどこにもいないのですから」

男は穏やかに、慈しむように言った。

だが、少女はふと、手記の最後の一節を思い出したのか、少しだけ表情を曇らせる。

「あの……」

「どうかしましたか?」

「これ読んでると、ちょっと怖くなっちゃったかも……」

「何がです?」

「ほら、最近……。この物語みたいに、大規模な虐殺事件がいっぱいあって……。犯人は、『これは救済なのですよ』って言ってるって……。」

少女の小さな肩が、微かに震えた。

物語の中の狂気が、現実の影として忍び寄っていることに、彼女の生存本能が警鐘を鳴らしたのかもしれない。

男は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

そして、少女の頭に優しく手を置く。

その指先は、体温を感じさせないほどに冷え切っていた。

「……大丈夫ですよ。あなたはきっと。」

「……うん! きっとそうだよね……!」

少女は男の言葉に安心したのか、いつもの無邪気な笑顔を取り戻して大きく頷いた。

男はそんな彼女を一度だけ見つめ、静かに背を向ける。

「それでは、私はこれにて」

「どこかに行くの?」

少女の問いに、男は歩みを止めた。

夕陽が沈み、図書室の隅々にまで夜の影が浸食し始める。

男の頭上。

そこには、少女には決して見えない、音もなく脈動する「黒い輪っか」が、一段と深い闇を湛えて浮かんでいた。



「__ええ。まだ、やるべきことが残っていますしね」



かつて誰かが蒔いた毒は、新しい季節を迎え、再び世界を塗り替えようとしている。

男は、その足音を消しながら消えていった。






記憶は、いくらでも偽れる。

態度も、いくらでも偽れる。

事実も、いくらでも偽れる。


感情も、偽れる?

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【完結】敬虔な信者のフリで、悪魔を信仰し救済を行います! Chinozouki @s_n_tai

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