とある国の国民
私が自身にある輪っかを認識してから、早一週間が経ちました。
その間に私が何をしていたのかと言いますと…
私はあの時の青年の居場所を調べ、訪問すると同時にその村の者を救済し、そして国教会へ青年と共に行きました。
それからの数時間は、実を言えば少しばかり愉快なものでした。
久しぶりに再会したあの青年は、あの日図書室で呆気に取られていた姿が嘘のように、平穏な朝を享受していましたね。
私が声をかけた時、彼はちょうどコーヒーを淹れ終えたところだったようです。
豆を挽く豊かな香りが部屋に満ちていて、正直に言えば私も一杯いただきたいくらいでしたが…
あいにく、今日の私はやりたい事がありましたので、我慢して彼を連れ出すことにしました。
彼は驚くほど大きな声を出し、暴れ、必死に抵抗していました。
「大丈夫ですよ」と何度声をかけても、彼の耳には届かない。
仕方がありませんので、私は彼を掴んで運びました。
暴れる彼を抱えて歩くのは、元気な子猫をあやすような手応えがあって、悪い気はしませんでしたね。
馬車に揺られている間も、彼は「帰りたぁい!」「絶対やばいことなるぅ!」と熱心に主張を続けていました。
正直に言いますと、ちょっと可愛らしかったです。
国教会の白亜の門が見えてきた際も、彼は衛兵に止められるのを心待ちにしているようでした。
しかしあいにく、私はこれでもあちらではそれなりの立場です。
顔なじみの衛兵が、私の姿を見た瞬間に直立不動で道を開けた時の、青年の「ゑ?」という顔。
私が意味のない嘘をつくとでも思ってたのですか?
「……本当にお前、何者なのぉ……」
馬車から降りるのを拒む彼を適当に引きずり、私たちは教会の回廊を歩きます。
すれ違うかつての同僚たちが、驚愕と恐怖を混ぜ合わせたような視線を向けてきました。
資料を落として泣きそうになっていた新人の子は、国教会に配属されたようです。
皆、私の突然の出勤に戸惑っている様子でしたが、私は私のペースで話を進めました。
しかし、その穏やかな再会を遮ったのは、一人の年配の聖職者でした。
彼は私の「辞職扱いになっていない」という屁理屈を苦々しく受け止めながらも、私と、そして腰が抜けてガタガタと震えている青年を真っ直ぐに見据えて言ったのです。
「……例外的に、裁判が開かれることになった」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を冷たい感覚が通り抜けました。
裁判。
「ほらぁ言ったじゃん!絶対ロクなことにならないってぇ……!」
裁判?
「失礼。確か教義には、例外的な裁判を認める供述が載っていなかったと思うのですが…。」
「それも含めて話をする。そちらの青年を連れてきてくれたのも、都合がいい。」
「え、僕ぅ…?」
「2人とも、少しこちらに来なさい。その他の者は業務に戻るように」
老聖職者の背中を追いながら、私たちは教会の端にある会議室へと来ました。
少人数で話し合いをするときに使われるような、そんな普通の場所。
移動中も私たちの背後で、新しく国教会の配属された職員たちがヒソヒソと囁き合っていました。
「……あの男が……」「例の虐殺の……」「隣の青年は生贄か?」
失礼ですね。彼は立派な私のゲストだというのに。
「あ、あのさ…空気重くない?」
青年が渋々と着いてきながら言います。
私が会議室を見渡すと、そこにいたのは、あの村で私に土下座をした腰抜けでした。
彼は私の顔を見た瞬間、憎しみとも諦めともつかない複雑な表情で、拳を握りしめます。
「……来たか。悪魔の下僕め。」
「お久しぶりですね」
『土下座の跡、まだ額に残っていませんか?』と少し煽りたいような気持ちになりましたが、あまり見苦しい姿を見せるわけにも行けないので本日二度目の我慢をしました。
一触即発の空気を、老聖職者の低い咳払いが切り裂きます。
「……座れ。それと……連れてこい。」
反対側の扉が開きました。
__現れたのは、あの忌み子と、そして、あの天使の羽を持つ者。
少年は私の姿を見ても、怯えるどころか「あ、この前の……」とでも言いたげな、澄んだ瞳を向けてきました。
対して、研究者の方は私の左手の包帯を真っ直ぐに見つめ、一瞬だけ苦い顔を浮かべます。
「さて」
私は椅子に深く腰掛け、両手を組みました。
「裁判、でしたっけ。超常的な概念を持つ御二方を連れてきてまで、一体何をするのです?それと、まずは説明をしてもらわないと。」
「説明、か。よかろう。」
老聖職者は重々しく口を開くと、傍らに控えていた腰抜けに視線を送りました。
腰抜けは忌々しげに私を一瞥してから、一冊の古びた手記を机に置きます。
「貴様が忌み子のいた建物に残した、あの鍵……。あれが全ての始まりだ。我々があの地下室を調査した際、隠し壁の奥からこの記録が見つかった。」
「へぇ……。あんな場所にそんなものが。初耳ですね。」
私は微笑を浮かべました。
実際、あの時私が鍵を渡したのは、単なる気まぐれに過ぎません。
その気まぐれが、こうして舞台を整えたのだと思うと、運命という言葉を信じたくなりますね。
「そこには、数百年前に封印された『例外的な裁判』に関する記録が記されていた」
老聖職者が静かに語り始めます。
「その村の者たちは、悪魔の羽を持つ少年を幽閉しながらも、同時にその命を繋ぎ、神への信仰を説き続けていた。…これは、教義における最大の矛盾だ。邪悪として切り捨てるべき対象を、慈悲をもって育てる。その自己矛盾に耐えかねた当時の先祖たちが、もし自分たちの行いが罪に問われた時のために、教義を再解釈するための『逃げ道』を残していたのだよ。」
「逃げ道、ですか。人間らしくて素晴らしい。」
「そしてその逃げ道の正当性を裏付けたのが……そこの青年だ」
突然名前を呼ばれ、隣でガタガタ震えていた青年が「ひぇっ!?」と変な声を上げました。
「ぼ、僕ぅ!?僕、何もしてないよぉ!ずっとコーヒー飲んでただけだもん!」
「いや、貴様が我々に語った『村の掟』……あの童話が決定打となったのだ」
老聖職者の目が、鋭く私を射抜きます。
「泉に斧を落とした木こりの話だ。神は正直な木こりに金と銀の斧を与えたが……元の『鉄の斧』を返さなかった。青年、お前は以前こう言ったな。神は、木こりの斧を『盗んだ』のではないか、と。」
「あ、いや……それは、この人が捨てたはずの斧を使ってたからなんでだろうと思って…」
「それであの話を読み返してみたら『神様は木こりの斧を持ってなかった』から、気になって調べただけでぇ……」
青年は気まずそうに視線を泳がせます。
なるほど。
私が彼の村を壊滅させたあの日。
彼があの物語を読み直し、その矛盾に気づき、それを国教会に伝えた。
全ての断片が、私を裁くための鎖として繋がっていきます。
「神が罪を犯したという仮説。それが事実ならば、神の言葉を基盤とする教義そのものに揺らぎが生じる。教義が矛盾した際、人は法ではなく、対話によってその正しさを証明せねばならない……。それが、かつて神を無罪とした時に使われた、例外裁判の形式だ。」
「……つまり、私が神を信じず、悪魔を信仰し、教会のシステムを逆手に取って救済を行っていることも、この『対話』の場で教義的に解釈し直せと?」
私はゆっくりと視線を巡らせました。
憎悪を滾らせる腰抜け。
震えながらも、真実の一端を暴いてしまった青年。
静かに私を見つめる、忌み子の少年と、天使の羽を持つ研究者。
「そうですか。いいでしょう。」
私は自分の頭上を仰ぎ見ました。
そこにあるはずの「輪っか」のは、相変わらず見えません。
しかし確かにそこに存在しています。
「……では、最初にお聞きしたいことがあります」
私は椅子に深く腰掛けたまま、一堂を見渡しました。
表情は崩さず、声のトーンも一定に。
自分の中の好奇心に従って、右手をゆっくりと自分の頭上へと掲げました。
「皆様。私の頭の上に、これが見えますか?」
指し示したのは、一週間前から認識できるようになった、あの黒い輪っか。
相変わらず、音もなくそこに浮かんでいるように感じられます。
その問いに対し、最初に反応したのは腰抜けでした。
「……何の話だ。頭の上だと?」
彼は眉間に皺を寄せ、私の頭頂部を凝視しました。
憎しみに満ちたその瞳には、ただの空間以外、何も映っていないようです。
「ふざけているのか。そこには何もない。…いや、貴様の腐った脳髄から漏れ出た妄想でも浮いているのか?」
「面白いことを言うのですね。まあ、あなたが見えないと言うのであれば否定はしません。」
私は淡々と答え、次に老聖職者、そしてあの天使の羽を持つ方へと視線を移しました。
老聖職者は困惑を隠さず、研究者は私の頭上を「物理的」に観察しました。
「……何も見えんな。幻覚か、それとも何かの比喩かね。」
老聖職者が首を振ります。
あの方もまた、手元の羊皮紙に何かを書き留めながら、静かに答えました。
「私の目にも、特筆すべきものは見受けられません。あなたは?」
「……。いいえ、私にも何も見えません」
忌み子の少年は、少しだけ申し訳なさそうに首を振りました。
悪魔の羽を持ち、誰よりも神を信じる彼にすら、これは見えない。
最後に、私は隣に座る青年に目を向けました。
彼は一番近くで私を観察していましたが、顔を引き攣らせながら首を横に振ります。
「ごめん、まじで見えない。お前…疲れてるの? それとも新しいタイプのボケなのぉ? 怖いからやめてよぉ……」
「そうですか。誰にも見えない。」
私は掲げていた手を下ろし、膝の上に置きました。
失望も、安心もありません。
ただの「事実」として、この輪っかは私だけしか認識できないのだと確定した。
それだけのことです。
「……それがどうした。貴様にしか見えない幻を語って、責任能力がないとでも主張するつもりか?」
腰抜けが吐き捨てるように言いました。
私はその言葉を無視し、ただ視線を彼に返します。
「いえ。ただの確認です。…では、どうぞ。今度はあなた方から質問してください。」
沈黙が会議室の空気を重く湿らせていきます。
それを切り裂いたのは、やはりあの腰抜けでした。
彼は苛立ちを隠そうともせず、指で机を叩きながら私を睨みつけます。
「…おい。一つ聞かせろ。貴様、さっきから何だその喋り方は。」
「喋り方、ですか?」
私は首を少しだけ傾けました。
「ああそうだ。最初に国教会で事件を起こした時も、あの村で本性を現した時も、貴様は確かに俺を『腰抜け』と呼び、傲慢なタメ口を叩いていたはずだ。神などいない、自分は悪魔を信じていると…そう宣いながらな。なのに、なぜ今さらまた聖職者のような敬語に戻っている?」
腰抜けの問いに、部屋にいる者たちの視線が私に集まりました。
研究者…あの方は、忌み子の少年から虐殺時の様子を聞いていたのでしょう。
少年に目を向けると、彼は困惑したように私と腰抜けを交互に見ていました。
「……私に会いに来てくれた時も、この方は少し怖い話し方をしていました。でも、今は…。」
忌み子の言葉を引き継ぐように、隣の青年が深く溜息をつきました。
彼は自分の頭を乱暴に掻きむしりながら、吐き捨てるように言います。
「そうだよぉ…僕の村にいた時だって、途中から完全に馬脚を現してたじゃん…。」
「『縋る価値、ある?』なんて、あんな冷たい声でさぁ…」
「なのに、なんで今この場で、わざわざ丁寧な自分を演出し直してんのぉ…?怖いってぇ……。」
「演出、ですか……」
私は指先で自分の顎に触れました。
確かに彼らの言う通り、今の私は丁寧な口調を選んでいます。
かつての同僚たちが知っている、あの「善良な信者」としての私に近い言葉遣いです。
「別にいいでしょう? どのような言葉を選ぼうが、それは個人の自由です。それに、今は裁判の場。公の場に相応しい振る舞いをしているだけですが…何か不都合でも?」
「不都合だらけだ! 貴様がそうやって丁寧に振る舞うたび、俺たちを馬鹿にしているようにしか見えん!」
腰抜けが声を荒らげました。
私はその怒気を軽く受け流します。
「馬鹿になどしていませんよ。ただ……。」
私はそこで言葉を切り、微笑を口元に張り付けました。
「慣れているんです」
「嘘をつくことも、信じるフリをすることも」
「そして何より、あなた方が望む『自分たちが理解できる悪役』を演じてやらないことが、私にとっての誠実さなものですから」
「……何だと?」
「話題を逸らすつもりはありませんが、そんな些細なことが議題ではないはずです。口調がどうあれ、私のしたことは変わりません。そうでしょう?」
私はのらりくらりと、核心を煙に巻き続けました。
本当の理由は、自分でもよく分かっていないのかもしれません。
ただ、敬語を使っている時の方が、自分の内側にある何かを綺麗に隠せている気がする。
そんな自覚だけが、静かに頭の隅に沈んでいました。
私の言葉を聞き流された腰抜けは、忌々しげに舌打ちをして椅子に深く沈み込みました。
代わりに、今まで沈黙を保っていた老聖職者が、組んだ指の上に顎を乗せて私を真っ直ぐに見据えました。
「……口調の是非は後回しにしよう」
「被告人、貴様に問いたいのは、その行動の根底にある思想だ」
「貴様は自らを悪魔の信奉者と呼び、教会で、そして各地の村で凄惨な事件を起こした」
「それは神への反逆か? それとも単なる快楽殺人か?」
「反逆、などと大層なものではありませんよ」
私は背もたれに体を預け、天井で揺らぐ灯りをぼんやりと眺めました。
視界の端で、黒い輪っかがゆらりと揺れます。
「神なんて、最初からいないのですから」
「いないものに反旗を翻すほど、私は暇ではありません」
「……私が信じているのは、もっと実在的なものです」
「悪魔は、最高の絶望を与えるために、まず人々に最高の幸せを与えます」
「希望を見せ、それを踏みにじる」
「その瞬間の輝きこそが、私の求める『救済』です」
私は一堂を見渡しました。
忌み子の少年は悲しげに、研究者は鋭く、そして青年は、なぜか、妙に無表情で私を見ていました。
「人々を苦しみから解放し、あの世へ送ってあげる」
「誰かの死は誰かの絶望になりますから、悪魔もきっとこれを肯定してくれたはずです」
「……ええ、そう……。これこそが私の、揺るぎない正解『でした』ね」
「……」
部屋に、奇妙な空白が生まれました。
私が漏らした、一言。
それを拾い上げたのは、意外にも隣に座る青年でした。
「……ねぇ」
青年の声は、先ほどまでの怯えを含んだ高いトーンではありませんでした。
どこか冷めていて、それでいて引っかかりを隠さない、フラットな声。
「今、過去形で言った?」
「何がでしょうか」
「『正解でした』って言ったじゃん」
「……それ、今は違うってこと? 自分のやってきたこと、もう正解じゃないと思ってるわけ?」
青年の問いに対し、私はのらりくらりと躱すように微笑みました。
「さて、どうでしょうね。言葉の綾かもしれませんし、単なる言い間違いかもしれません。……そんなことより、私の思想がどれほど狂っているか、もっと詳しくお話ししましょうか?」
「いえ、遠慮しておきます」
青年はそう呟くと、椅子の背もたれに力なく体を預けました。
先ほどまで「帰りたぁい!」と喚き散らしていたパニックはどこへやら。
「随分と冷静になりましたね」
「一周回って冷静になりました」
「…最初に出会った時は、ただのヤバい奴だと思ってましたけど…」
「……今は、何て言うか、あなた自身が、自分のゴールを見失ってるみたいに見えます」
青年のその言葉は、私の胸の奥にある何かを、針の先で突っついたような微かな感覚を伴いました。
私はただ掲げた手のひらをじっと見つめながら答えます。
「気のせいですよ」
しかし、その場に満ちていた湿った沈黙を切り裂いたのは、あの「天使の羽を持つ者」……研究者でした。
あの方は組んでいた手を解き、冷徹な瞳で私を真っ直ぐに見据えます。
「……あなたの行動には、常々何かしらの大きな動機があるように感じられました」
「私があなたの前で、何か事件を起こしたことがありましたっけ?」
私はあえて皮肉げに首を傾げました。研究者は動じることなく答えます。
「いいえ。しかしこの子や、教会の者から数々の事件の詳細は聞いています。……そして私には、この子の『悪魔の羽』に触れた時のあなたの反応が、どうしても解せなかった。」
研究者の視線が、私の左手の包帯に落ちました。
「彼から聞いています。あなたが悪魔の羽に触れた時、激しく『吐いた』こと。そして、嘔吐しながらも『笑っていた』こと」
「……何が言いたいのですか?」
私は声のトーンを一つ落とし、あからさまに不快感を露わにしました。
あの日。掌から全身に駆け巡った、あの燃えるような拒絶と高揚。
思い出すだけで胃の奥がせり上がるような感覚に、奥歯を噛み締めます。
「不快感と悦楽の同時発生。それは単なる信仰の形ではありません。……完全に私の独断ではありますが、あなたのことについて独自に調査させていただきました」
「こいつのことなんか、調べるだけで時間の無駄だ」
腰抜けが忌々しげに吐き捨てますが、研究者はそれを制するように手を上げました。
「一概にそうとも言い切れません」
「その人を囲う周囲の環境や出来事が、その人と密接に関係することがほとんどですから」
「……そして調査の結果、私はとある事件に辿り着きました」
「……今から十数年前、この国から遠く離れた小さな村で起きた、未解決の虐殺事件」
「当時十歳だった少年が一人だけ生き残り、行方不明になった記録を見つけました」
「……」
「……そこは、あなたの出身地ではありませんか?」
研究者の言葉が、会議室の空気に刺さりました。
一瞬、呼吸の仕方を忘れたかのような錯覚。
隣に座る青年が、椅子を鳴らして身を乗り出しました。
「……え? 虐殺の生き残り? 待ってよ、それって……」
青年は私の顔を覗き込み、戦慄したように声を震わせます。
「お前、僕の村に来た時、あんなに楽しそうに救済とか言ってたじゃん……」
「それが、自分も同じ目に遭ったからだって言うの……?」
「 嘘でしょ、そんなの、ただの八つ当たりじゃん……っ」
「貴様……!」
正面の腰抜けも、憎悪に満ちた瞳を驚愕に見開きました。
「貴様、あの時礼拝堂で俺に言ったな」
「悪魔は最高の幸せを与えてから踏みにじると」
「……それが貴様の、ガキの頃の体験談だというのか? 」
「自分が神に救われなかったから、今度は自分が悪魔の代わりをして他人を壊して回っているのか……!? 」
「吐き気がするな、このガキが!」
怒声が部屋に響き渡ります。
私は椅子に深く腰掛け、両手の指をきつく組みました。
包帯の下の左手が、狂ったように熱い。
「……少年にとっての神は、その日、確かに死んだのでしょう」
研究者の声は、騒がしい室内でも驚くほど冷酷に響きました。
「あなたは神を否定し、悪魔を信仰することで、その日の絶望に『理由』をつけたかったのではないですか? 自分を助けなかった神への、最大級のあてつけ……復讐として」
「復讐……」
忌み子の少年が、悲しげな瞳で私を見つめました。
「お兄さん。あの日、お兄さんが私の羽に触った時……すごく辛そうでした」
「笑ってたけど、泣いてるみたいだった」
「……それは、私の中に、お兄さんを助けなかった神様が見えたからなのですか?」
「黙りなさい」
私は忌み子を、そして研究者を、射殺さんばかりの鋭い視線で睨みつけました。
眉間に深い皺が寄り、いつもの穏やかな笑みなど、どこにも残っていません。
「……勝手な推測を。不愉快極まりない。物語の読み過ぎですよ、あなた方は。」
私は吐き捨てるように言い、わざとらしく大きく溜息をつきました。
内側からこみ上げる嘔吐感を必死に抑え、剥き出しになった嫌悪を隠せずに。
「あの日終わらなかった地獄の続きを、今度は自分が主導権を握って再現しているだけに過ぎない……」
「そう結論づけて満足ですか? 随分と安っぽい物語がお好きなようで」
私はのらりくらりと核心を煙に巻きながら、内心で激しく荒れ狂う不快感を必死に押し殺しました。
なぜ、私がこんな連中に。
なぜ、こんな薄っぺらな分析で、私の考えが汚されなければならないのか。
「私が事実どうであったかなど、今の私にとっては何の価値もありません」
「私が救済を行ったことも、神がいなかったことも、揺るぎない事実」
「それ以上に何が必要なのです? 」
「……いい加減、その下らない身辺調査は終わりにしましょう」
私は椅子の肘掛けを指先で乱暴に叩き、立ち上がるきっかけを探すように周囲を冷たく見渡しました。
__その時でした。
会議室の重厚な石壁を抜けて、遠くから地鳴りのような「音」が響いてきたのは。
「……何の音だ?」
老聖職者が怪訝そうに眉を寄せました。
怒声に満ちていた会議室が、一瞬で静まり返ります。
「おや。ようやく届きましたか。」
私は叩いていた指を止め、ふっと口元を緩めました。
先ほどまでの、射殺さんばかりの鋭い視線はどこへやら。
私の顔には、いつもの貼り付けたような穏やかな微笑が戻っていました。
けれど、その目元には隠しきれない隈が浮かび、声には微かな、けれど確かな「重み」……深い疲労の色が混じっています。
「せっかくの裁判です。ここでお話しするのも良いですが、もっと相応しい場所へ移動しませんか?」
「何を言って……」
腰抜けが言いかけるのを無視し、私は椅子を引いて立ち上がりました。
そのまま迷いのない足取りで、会議室の奥にある、教会の広場を見下ろせる大きなベランダへと歩を進めます。
「おい、待て! 被告人!」
聖職者たちの制止を背中で受け流しながら、私は観音開きの扉を勢いよく放ちました。
「皆様。ご覧ください。これが私という存在に対する、この国が出した答えの一つです。」
ベランダへなだれ込んできた裁判メンバーたちが、一様に息を呑みました。
白亜の国教会の門前。そこには、数えきれないほどの民衆が押し寄せていました。
『神に救いはなかった!』
『教義の矛盾を認めろ!』
『あの男を、私たちの前に出せ!』
怒号と松明の火が、夕闇に沈みかけた国教会を赤く染め上げています。
その光景を、私はベランダの手すりに寄りかかりながら、どこか遠い目をして眺めました。
かつてない規模のデモ。
私がこの教会に来る数日前、各地に私という神の反逆者の存在を、周到に、丁寧に、毒を回すように流しておいた成果です。
「……あ、あはは。なにこれ、すごいことになってんじゃん……。」
隣で青年が引き攣った笑いを漏らしています。
「信じられん……。これほどの民衆を、貴様一人が動かしたというのか?」
腰抜けの震える声に、私は首を横に振りました。
「いいえ。私はただ、彼らが自分でも気づかずに抱えていた『神への不信』という火種に、ほんの少し油を注いだだけですよ。」
「……皆様、よく見てください。この裁判所にいる私という一人の悪人を裁くために、外ではこれほどの人々が、自分たちの神を呪っている。」
私は一堂を振り返り、優雅に、けれど疲れ切った動作で両手を広げました。
「私がここにいる。ただそれだけで、この教会の権威は崩れ、民衆は暴徒と化す。……これこそが、皆様が求めた『対話』の、今の形ではないですか?」
私は研究者……あの方を真っ直ぐに見据えました。
「私の過去がどうあれ、動機がどうあれ。現実に起きているのはこれです。」
「私は一人の悪役として、この国の信仰を終わらせに来ました。」
「……さて、ここにいる皆様方。これでもまだ、私の『思想』なんていう下らないものの解説を続けますか?」
眼下の民衆は、ベランダに現れた私の影を見つけ、地を揺らすような歓声を上げました。
それは救世主への期待か、あるいは、すべてを壊す破壊神への賛美か。
私は一度だけ、重く、長い溜息をつきました。
認識しているはずの黒い輪っかが、一段と強く脈動しているような気がして。
「……いいでしょう。最後に、私から皆様(国民)へ、ご挨拶をさせていただかなければなりませんね。」
私はベランダの最前面へと進み、荒れ狂う国民の波に向かって、ゆっくりと口を開きました。
押し寄せる歓声と怒号。
それを全身で浴びた瞬間、私のスイッチが切り替わります。
顔に張り付いたのは、これ以上ないほど晴れやかで、眩しいほどの笑顔。
「__国民の皆様! 本日はお日柄も良く、絶好の『神殺し』日和ですね!」
拡声の術を乗せた私の声は、広場の隅々まで、まるで祝祭の鐘のように明るく、高らかに響き渡りました。
後ろで聖職者たちが「何を、何を言っているんだ貴様は……!」と絶句していますが、構うものですか。
「聞こえていますよ、皆様の声が!」
「 『神なんていなかった』『救済なんて嘘だった』」
「……ええ、正解です!大正解!」
「皆様はついに、この退屈な教会の嘘を見破った賢い羊たちだ!」
私は手すりに身を乗り出し、まるでお気に入りの観客を指さすように、広場を指差して軽やかに笑いました。
煽るように、歌うように、言葉を投げかけます。
「見てください、この立派な国教会を! 」
「神様を閉じ込めておくには、少しばかり豪華すぎると思いませんか?」
「なにせ、中身は空っぽだというのに!」
「それらしい立派な言葉を並べただけの神様に、皆様の大切な祈りを捧げるなんて……ああ、なんて勿体ない、なんて滑稽な喜劇でしょう!」
広場から、地響きのような『そうだ!』という叫びが上がります。
私はその熱狂を煽り立てるように、さらに声を張り上げました。
「今日、私はここで裁判にかけられています!」
「彼らは私を『悪魔の信奉者』と呼び、裁こうとしている!」
「ですが、皆様!」
「私を裁く前に、まず自分たちに問いかけてみてください!」
「絶望の淵で手を差し伸べなかった神と、皆様に『真実』を突きつけ、この退屈な信仰から解き放ってあげた私……」
「__さあ、どちらがより『慈悲深い』と思いますか!?」
群衆が狂乱し、門を叩く音が太鼓のように鳴り響きます。
私は背後の裁判メンバーの方を向き、最高に嫌味を含んだ瞳でウィンクを一つ。
「皆様の愛した神様は、今夜、私の手によって最高のエンディングを迎えました!」
「おめでとうございます!」
「皆様は今日、自由になったんです!」
万雷の拍手と、教会の解体を望む咆哮。
私の頭の中では、不快な熱が渦を巻き、視界がチカチカと明滅しています。
認識上の「輪っか」が、私の首を絞めるように重くのしかかる。
「……ふふ、あははっ!」
「さあ、存分に反抗しましょう!」
「私という悪役が用意した、最高の舞台で!」
私は溢れんばかりの笑顔のまま、最後の一滴まで精力を使い果たすように叫びきりました。
そして、熱狂の渦を背に、ふらつく足取りでベランダの奥へと引き返します。
「……あとの『対話』は、彼らと直接どうぞ……」
そう言い残し、私は扉の音を響かせて会議室から出ました。
人は、何かを疑問に思っても、大抵はそれを表に出さない。
それは同調圧力……または、嫌われるなどといった罰を恐れるからだろう。
人々が真の意味で結託できるのは、救いようのない事態になってからなのだ。
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