灰の中の真実

青羽 イオ

灰の中の真実

※この作品は縦書き表示推奨です。


 第1章 「消毒と焦げ」


 消毒の匂いが先に来る。鼻の奥に貼りつくような、病棟の匂いだ。そこへ焦げが紛れ込んでいて、俺は反射で「換気が弱い」と考えた。そういう処理の仕方が癖になっている。匂いを匂いのまま受け取ると、別のものまで連れてきそうだ。


 椅子に腰を下ろすと、革がきしんだ。机の角に書類の束。端が揃っている。軍医の手元はいつもきれいで、俺はそれに救われる。ここでは物が動かない。手順が崩れない。崩れないものがひとつあるだけで、俺はまだ立っていられる。


「調子はどうだ」


 軍医は目を上げない。質問の形も、間の取り方も、いつも通りだった。


「問題ありません」


 言葉が口から出たあと、舌が乾いているのが分かる。乾きは昨日から続いている。眠りも薄い。だが、その全部をこの部屋に置いていく気はなかった。置いたら、次に持ち帰るのは俺じゃなくなる。


 軍医がペンを走らせる。紙の擦れる音が、耳に心地よい。焦げの匂いはまだ消えないが、消毒が勝っているうちは大丈夫だと、自分に言い聞かせられる。


「眠れているか」

「数時間は」


 数時間という答えが、ちょうど良い。嘘ではないし、正直でもない。俺はこういう返しが上手くなってしまった。軍医もそれを分かっている。分かった上で、追い込むような質問はしない。


 机の上の紙が一枚、風で揺れた。


 風が入るはずのない場所なのに、と思ったところで、揺れは止まる。俺はそのまま呼吸を整えた。確認したい衝動を、飲み込む。見なければ、まだ「無い」ことにできる。


 そのとき、金属が擦れるような旋律が、短く耳をかすめた。


 オルゴールの音に似ている。似ている、で止める。似ていると断定した瞬間に、そこから先へ行ってしまう。行ってはいけない方向があると、俺は知っている。


「今、音が」


 口に出してから、しまったと思った。軍医のペンが一瞬止まり、次の瞬間には何事もなく動き出す。


「気のせいだろう」


 声は平らだ。視線が、俺の首の後ろに落ちる。ほんの一瞬。何を見たのか、聞く気にはなれない。聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えを、俺は抱えたまま部隊へ戻ることになる。


「休め。今日は無理をするな」


 無理をするな、という言葉が、命令に聞こえる。俺は命令なら守れる。守れないのは、命令にならない部分だ。


「いつ復帰できます」

「もう少し様子を見る」


 間があった。軍医の口から出る「間」は、いつもより重い。俺は頷く。頷けるうちは大丈夫だ。


「了解しました」


 立ち上がると、袖口に灰が付いているのが見えた。診察室の中で、と思いかけて、指で払った。ざらつきが指先に残る。焦げと消毒の匂いの中で、そのざらつきだけが妙に現実的だった。


 廊下へ出る。白い照明が灰にくすんで見える。遠くで誰かが咳をした。俺は歩幅を一定にし、靴音を聞いて自分の位置を確かめる。そうやって帰る。


 曲がり角を過ぎたところで、また旋律が入った。今度は短くない。長くもない。だが、消えきらない。


 俺は足を止めずに、頭の中で「換気のファンが鳴っている」と言い換えた。言い換えたまま、個室へ向かった。


 第2章 「個室」


 部屋に戻っても、着替えなかった。


 襟だけ緩めて、袖の灰を払う。指先に残るざらつきが、落ち着けと言ってくる。机の上には任務報告の写しがあり、目を通せば済むはずなのに、紙の上で視線が滑って止まらない。読むことはできる。だが読むと、報告の途中がごっそり抜けている。接触、交戦、離脱までの並びはあるのに、いちばん肝心な数分が行ごと消えていた。足りない箇所を埋めに行けば、今日が終わる。


 ベッドに腰を下ろした。マットレスが沈み、布が擦れる音がする。兵舎の個室は静かで、静かなままなのが腹にくる。静かであるほど、耳が勝手に拾ってしまう。


 軍医の部屋の消毒の匂いが、まだ鼻に残っている。そこへ焦げが混ざる。俺は息を浅くした。匂いは息を止めても入ってくる。それなら、受け取らないほうがいい。


 目を閉じた。


 休むつもりはなかった。目の疲れだけ落として、また立つ。そう決めたはずなのに、意識は簡単に落ちた。落ちる瞬間の記憶が薄い。薄いのに、戻るときだけは妙に鮮明だった。


 焦げの匂いが濃い。


 目を開けると、天井の角が黒い。壁に煤の筋が走っている。火事があったような痕跡が、部屋の中に揃っている。警報は鳴っていない。消火剤の匂いもしない。誰かが走る音もない。


 おかしい、と思う前に手が動いた。壁の煤に触れ、指先で擦る。煤は付く。ざらつきも残る。夢の中の手触りではない。なら、これは現実か。そう決めた瞬間、別の疑問が出る。現実ならなぜ誰も来ない。


 扉を開けて廊下へ出た。


 兵舎が焼けている。手すりが歪み、金属が赤錆びている。床に灰が薄く積もって、足音が軽くなる。燃えているのに、空気が熱くない。熱がないのに、焦げ臭い。焦げ臭さだけが、ここに居座っている。


 火事のあとの匂いは知っている。前線で何度も嗅いだ。だから分かる。これは、火の匂いだけではない。もっと古い。焦げが乾いて、時間が経って戻ってきた匂いだ。


 遠くで声がした。


「隊長——」


 聞き間違いではない。呼び方が現場のそれだった。助けを求める声ではなく、命令を待つ声。俺はその呼び方に反応するように出来ている。出来てしまったものは、直せない。


 走り出す。廊下が長い。長いのに、距離が一定じゃない。足を出した分だけ前に出ない瞬間が混ざる。腹の奥が冷える。冷えを振り切るために、俺は速度を上げた。速度を上げれば、考える時間が減る。減れば、余計なものが入ってこない。


「隊長!」


 また呼ばれた。今度は近い。曲がり角の向こうだ。焦げの匂いが強くなる。俺は手すりを掴んだ。金属が冷たい。冷たさが手に乗った瞬間、まだ大丈夫だと思えた。金属は嘘をつかない。少なくとも、嘘をつくにしても触れた瞬間の冷たさだけは裏切らない。


 まだ呼ばれる。隊長、と。


 俺は角を曲がった。


 第3章 「白い扉」


 そこに扉があった。見慣れた兵舎の扉だ。塗装が剥げ、蝶番が錆び、取っ手が黒くくすんでいる。焼け跡の廊下の中で、扉だけが「ここにある」と言い張っていた。


 向こう側から、もう一度。


「隊長、こっちだ!」


 若い声。ラインガードの声に聞こえた。いつも現場にいる連中の、息が混じる呼び方だ。焦りと苛立ちと、それでも人を押し出す強さがある。


 取っ手を掴んだ。冷たかった。焼けた空気の中で、その冷たさだけが現実だった。手袋越しに、金属が指の形を覚えていく。取っ手の重さ、手首に返ってくる抵抗。蝶番が、鈍い音を立てる。


 扉を押し開けた。

 白い光が、いきなり目の前に立った。

 白帯。


 街の真ん中を貫く一本道が、扉の向こうに続いていた。避難民が流れている。肩と肩が触れ合い、荷を抱え、子どもを引き、押され、止まり、また進む。声が反響して、どこから聞こえるのか分からない。泣き声と怒鳴り声と、名前を呼ぶ声が重なって、空気が厚くなる。


 景色が、二重に見えた。人の輪郭がずれる。歩く足が、半歩遅れて追いつく。白帯の光だけが揺れないせいで、揺れているのが自分なのか周りなのか判断がつかない。遠くで乾いた銃声が鳴った。さらに遠いところで、重い機械の唸りが腹に響く。助けに来たのか、追ってきたのか、その区別すら曖昧だ。


「隊長!」


 白帯の脇で、若いラインガードが腕を振っていた。交通誘導のような、はっきりした動きだった。人を止め、横に流し、隙間を作り、こちらへ道を作る。


「こっちだ! 早く!」


 声は切れているのに、動きは整っていた。焦っているのに、乱れていない。汗が出る前に、手順が先に出ている。大尉はその違和感を掴み損ねた。今は考える余裕がない。呼ばれているなら行く。それが部隊の隊長の反射だった。


 人波に踏み込む。肩が当たる。荷が肘にぶつかる。布の擦れる音と、息と、咳と、祈りの言葉が近すぎる距離で飛び交う。白帯の光が足元を掬い、灰が舞い、視界の端で誰かの顔が一瞬だけ別の誰かに重なる。


 それでも。

 耳の底に、消えない音があった。


 ちいさなオルゴール。どこか遠い机の上で鳴っているはずの、甘い旋律。避難民のざわめきの下に沈まない。踏み鳴らされる足音にも、泣き声にも、銃声にも掻き消されず、ひたひたと寄ってくる。


 大尉は奥歯を噛み、視線を上げた。若いラインガードが、もう一度だけ手を振る。その手のひらが、白帯の光を受けて白く浮いた。


「隊長、こっちだ」


 呼ばれた。だから進む。進みながら、音だけが近づいてくる。


 第4章 「煤と認識票」


 人の波を割って進んだ。肩が触れるたびに誰かの体温が移り、荷の角が肘に当たっても止まれない。白帯の光は足元を掬うように伸びているのに、視界の端だけが遅れて追いつき、輪郭が合わない瞬間が混じる。


 ざわめきの底に、あのオルゴールがいる。泣き声や怒号の隙間を選ぶように旋律がこちらへ寄ってくる。音が近いなら、音の場所も近いはずだ。そうでなければ現場の決まりが壊れる。


 次の一歩で、光が消えた。


 焦げた壁。煤に濡れた床。窓の外は灰色で、白帯の白は一筋もない。兵舎の1室に戻っている。戻った、と言い切るのも癪だった。さっきまでの人波の熱が腕に残っているのに部屋の空気は冷え切っていて、焼けた鉄と乾いた灰が鼻に刺さる。助けに行った先が、ここなら。守る仕事は、どこに置けばいい。


 足元に金属が落ちていた。認識票。首から下げるはずの薄い板が煤の上に伏せている。拾い上げると、ひどく冷たい。皮膚が覚えてしまう冷え方で、確かに"物"だった。回収。隊長の手順が先に来る。紛失物は拾う、記録に残す、持ち帰る。それと同時に掌の中で重みが増した気がして、見たくない、ともう一つの声が膨らむ。名前を確かめる前に息を整えた。手元が乱れると次の判断まで乱れる。


「隊長、こっちだ」


 さっきの若いラインガードの声が壁の向こうに引かれていく。廊下の先に人がいるなら足音がある。息がある。装備の擦れる音が混じる。けれどここは静かで、煤の匂いばかりが厚い。声だけが移動するのは規律への侮辱に近い。守れ、と命じるなら、守れる形で来い。呼ぶなら、呼んだ人間がそこにいろ。


 オルゴールが、さらに近い。


 この部屋の中で鳴っている距離なのに音の場所が掴めない。壁に耳を当てても、床に膝をついても、旋律は一定のまま寄ってくる。ふざけるな、と思った。音は必ず鳴っている場所がある。空気に浮いているだけなら、それは合図で、罠で、現場の言葉にならない。認識票を握り直し、冷たさで自分を繋いだまま旋律の行き先を探す。探して――


 ぷつり、と音が止まった。


 第5章 「墓標」


 掌の中の冷たさが、まだ残っていた。認識票の角が皮越しに当たり、煤の匂いよりも先に現実を押し返してくる。音が止まったあと、部屋は急に広くなった。広くなったのに、逃げ場所がない。壁の焦げ跡も、床に散った灰も、置き忘れた器具の影も、ここが「待つ場所」ではなく「回収される場所」だったことを黙って示している。


 部屋の隅に、小さな盛り土があった。灰を寄せただけの低い山で、板切れが立てかけられている。文字がかすれているのに、名前だけは読めた。妻の名。娘の名。胸の内で呼ぶときの音と同じ形で、そこに刻まれている。倒れるな、と頭の中の訓令が言う。ここで崩れたら終わる、と別の声が続く。足は言うことを聞いているのに、視線がそこから離れない。認識票を握ったまま、指の力だけを増やした。


 墓の脇に、ぬいぐるみが転がっていた。片耳が焼けて、腹の縫い目が開きかけている。綿が灰を吸って黒く沈んでいるのに、抱きしめられていた輪郭だけがまだ柔らかい。隣に、小さな黒板が倒れていた。枠の木が焦げ、チョークの粉が床に散っている。黒板の表面には、子どもの線が残っていた。家。丸い頭が三つ。手をつないだ三人。


 父の手に、銃。


 そこだけが、焼け残ったみたいに目に刺さった。なんで俺だけ武器なんだ。問いが口にならず、胸にも落ちない。理屈の座りどころがないまま、黒板の白い線だけが強くなる。家族の絵なのに、持たされているものが違う。守る道具のはずなのに、見え方が変わっている。


 報告書の文体が、勝手に口の中で組み上がった。白帯沿いの避難列、襲撃。連絡は1週間後。遺体は回収されず。回収物はぬいぐるみと、片足一本。ここまで言って、舌が止まった。だから何だ。言葉が硬すぎて、手から落ちる。任務の文章に収まる形にしてしまった瞬間、自分の中のどこかが怒った。守る仕事をしていた人間の言い方だ。守れなかった側が、そんな書き方をするな。


 息が乱れた。音を立てたくないのに呼吸が勝手に擦れる。墓の前に膝をつく動きすら命令された作業に似てしまうのが嫌で、途中で姿勢を変えた。ぬいぐるみを拾い上げようとして指が止まる。触れたら、軽さが分かる。軽さが分かると、空っぽだと分かる。認識票の冷たさに、また縋った。物だけが、嘘をつかない。


 そのとき、オルゴールが鳴った。


 壁の向こうからではない。部屋の中で鳴っている距離だった。旋律が、ぬいぐるみの腹の綿のように膨らんで空気の隙間を埋めていく。音が近いのに音源は見つからない。見つからないまま近いというのが、たまらなく腹立たしい。音は必ず場所を持つ。場所を持たない音は、命令でも救助でもなく、ただ人をずらす。


 黒板の前で娘の声がした。


「人はみんな白帯を歩くでしょう」


 懐かしい響きなのに、言葉が冷たい。笑っている声ではない。叱っている声でもない。静かに決め事を読み上げる声だった。


「本当は、ずっとぐるぐる回ってるだけなんだって」


 違う。白帯は、人が生きるために歩く道だ。俺は守るために任務へ出た。妻と娘は白帯を歩いていた。だから離れた。離れたせいで隣にいなかった。いなかったから守れなかった。守れなかったのに守る側に立っている。黒板の銃がそれを揺らがせない。家族の絵のはずなのに、俺だけが武器を持っている。


 任務。白帯。守る。離れる。守れない。墓。黒板。銃。


 守る、という言葉を言い直すたびに、絵の銃が重くなる気がする。重いから握ったのか、握ったから重くなったのか、判別がつかない。順番が分からない。それでも結局、戻る。墓と黒板の前へ戻る。


「ねぇ、パパ」


 呼ばれると、返事の前に呼吸が崩れる。呼ばれたくて戦ってきたわけではない、呼ばれないために遠くへ行ったわけでもない。言葉が回る。任務。白帯。守る。離れる。守れない。墓。黒板。銃。


「希望ってなに?」


 声は優しいのに、問いが刃になっていた。大尉は答えを探し、いつもの場所に手を伸ばした。訓練で覚えた言い回し。現場で部下に渡す言葉。家族に向けて言ってはいけない類の硬さ。


 ――生き延びることだ。


 口の中で形にして、そこで止まる。墓の前で言う言葉ではない。白帯を歩けば助かる、と続けようとして、続かない。助かるはずだった道の上で、妻と娘は消えている。黒板の白い線がそのまま残って、父の手に銃が描かれている。守るためだ、と言い直すほど、守るという言葉が空っぽになる。


「ちがう……」


 否定は出た。だが、何を否定したのか自分でも追えない。白帯は道だ。守る仕事だ。任務だ。離れる。守れない。墓。黒板。銃。順番を変えても戻ってくる。戻ってくるたびに、父の手の銃が先に目に入る。そこだけが現場の記号みたいに硬い。


 倒れるな。ここで倒れたら終わる。


 命令の形で自分を立たせようとする。足に力を入れ直し、視線を上げて、墓と黒板とぬいぐるみを“対象物”として並べ替える。名前は読むな。絵は見るな。音源を探せ。回収しろ。次の行動へ移れ。


 だが、移れなかった。


 墓の前に置かれたぬいぐるみが、ただの布に見えない。抱きしめられた痕が残っている。黒板の線が、消えかけているのに消えない。消えないから残ったものの意味だけが膨らむ。大尉は膝を曲げるつもりはなかったのに床が近づき、掌が煤に触れた。冷たさが指先から広がり、握った手が黒くなる。


「……やめろ」


 誰に言ったのか分からない。娘の声に向けた言葉の形でも状況に向けた怒鳴りでもない。自分の中の回り続ける手順に向けて止まれと言っただけだった。止まらない。止まらないから息が擦れて、言葉の端が割れる。


 オルゴールが近い。近いのに場所がない。


 その事実が耐えられない。音は必ずどこかで鳴る。鳴るものには鳴っている理由がある。理由があるなら対処ができる。対処できない音は、命令でも救助でもなく、ただ人を崩す。


「希望ってなに?」


 もう一度、同じ問いが落ちてくる。優しさの顔で逃げ道を塞いでくる。大尉は答えを出せないまま答えようとして、また失敗した。守るために離れた。離れたせいで守れなかった。守れなかったのに守る側にいる。だから銃を持っている。銃を持っているから守る側だと思い込める。思い込める間はまだ崩れない。崩れないために思い込む。思い込むほど黒板の銃がこちらへ向く。


 音が重なる。旋律が二重になり言葉の上に被さる。


 大尉は墓の前でとうとう頭を下げた。土を掴むほどではない。掴んだらここが本物になってしまう。だから掌を開いたまま床に置く。置くことで支えにする。支えにしているのに肩書きの重さは落ちない。隊長であることが嗚咽の邪魔をする。邪魔をしながら嗚咽が漏れる。


 認識票も冷たさを失った。物が嘘をつかないなら涙だけが本物だった。泣くより先に呼吸が乱れた。


 その切れ目に乾いた銃声が入った。


 第6章 「薬と血」


 乾いた銃声がした瞬間、思考より先に姿勢が決まった。銃口が音のほうへ向き、足元の床が一枚だけずれて見える。空間が二重になる感覚に、慣れを当ててはいけないと分かっているのに、身体はもう現場の手順で動いている。


 廊下の突き当たりに、小さなドアがあった。子どもが通れる幅で、取っ手は低い。向こうから、重いものを引きずる音がする。床を擦る、布ではない擦れ方だ。次いで匂いが来た。火薬でも煤でもない。戦場で嗅いだ、人が人の形を保てなくなったあとの匂い。喉の奥が反射で拒む前に、胃のほうが先に重くなる。


 ドアを押し開ける。銃はすぐ撃てる位置に残したまま、隙間から室内を覗く。


 古い絨毯が敷かれたリビングだった。薄汚れたソファ。低いテーブル。食べかけのパンが皿に残り、粉が指で払われた跡まで見える。生活の匂いが一拍だけ鼻を通り、その直後に血の匂いが重なった。視線を奥へ走らせると、もう一枚ドアが開きかけていて、そこへ女の脚が引きずられていく。白いパンプス。つま先に血がこびりついて、乾きかけた赤が革の白を汚していた。


 その奥から声がした。ドア一枚隔てた距離なのに生活の湿り気が混じっている。妻の声だった。相手の男の声も聞き覚えがある。自分の声だと分かるのに耳の中で他人の音に変わっていた。


「……もうこれ以上飲ませたくない」

「医者が処方したんだろ」

「処方したからって正しいわけじゃない。副作用よ。あの絵を見て。壁中に貼って毎晩毎晩描いて……」

「だから薬が必要なんだ」

「薬のせいかもしれないって言ってるの! あの子おかしくなってる」


 男の声が黙る。黙ったまま次の言葉を選んでいる。選び方が部下に指示を出すときと同じだった。


「じゃあどうする。薬をやめてもっと悪化したら」

「悪化って何よ。あなたあの子のこと見てないでしょ」

「任務がある」


 その言葉が会話を止めた。任務。たったそれだけで反論が遮られる。現場では正しい。正しいから家でも通ってしまう。


「あなたに何かをしてほしいんじゃない!」


 妻の声が跳ねた。跳ねた直後に低く落ちる。


「ただそばにいて。あの子のそばに。私ひとりで抱えるのもう無理なの」


 男の声が返らない。返らないまま沈黙が逃げ道になっている。やがて怒鳴り合いになった。内容は崩れて音だけがぶつかる。どちらも正しいふりをやめられず正しさを盾にして相手を押し返す。


 大尉はそれを聞きながら第三者のように整理していた。軍人は替えが利く。隊長が倒れれば次が出る。だから任務は回る。家族は替えが利かない。


 分かっているのにこの男は替えが利く場所へ戻ろうとしている。そこへ戻れば誰かが「助かった」と言う。助かったと言われるほうへ歩いてしまう。そういう手順を自分が知っているのがいちばん腹立たしい。


 そのとき家の匂いに焦げが混じった。まだ火は見えないのに匂いだけが先に来る。


 ぷつりと声が切れた。


 大尉は取っ手に触れる。冷たい金属が会話を現実に戻した。ドアを押し開ける。


 娘の部屋だった。壁が埋まっている。紙が貼られ紙の上にまた紙が重なり床にも散っている。描かれているのは家族だ。いつも三人。丸い頭が三つ。手をつないでいたり並んで立っていたりする。だが父親だけが毎回おかしい。遠い。小さい。端に寄っている。地面に倒れている。絵の中で父だけが外側に追い出されている。


 ベッドに目が行った。枕が黒く染まっていた。布の繊維が固まり色が沈んでいる。汚れかと思ったが鼻が答えを出す。鉄の匂いが混じっている。


 血だった。


 枕のすぐ上の壁に文字だけの紙があった。絵の線よりそこだけが妙に目に刺さる。


「ごめんなさい。ありがとう。たすけて」


 誰に向けた言葉だ。


 何に向けた言葉だ。


 分からない。分からないのに分かる気がしてしまう。助けを求める相手がひとりに定まっていないから言葉が三つに割れている。そんな読み方を勝手にしてしまう。


 大尉は思考を予定に落とそうとした。任務を終えて休暇を取って家に戻る。妻と娘に会う。取り戻す。順番だけは整う。書類の段取りみたいに整っていま目の前にある黒い枕と噛み合わない。そうやって予定を立てている自分がまるで他人事のように遠い。


 焦げの匂いが濃くなった。


 紙の端が黒くなり丸まり音を立てずに火が移る。ひとつ燃えればその隣へ。壁を這うように広がり父が小さく描かれた紙も三人が並んだ紙も関係なく等しく舐めていく。部屋の空気が熱を持ち焦げが支配する。


 大尉はその場に留まりかけて留まらなかった。


 血で染まった白いパンプスを追う。音を立てないように歩幅を削り、呼吸を浅くする。奥のドアは半開きで、すでに人の気配は薄い。匂いだけが濃い。戦場では、回収に人手を割けないまま残ることがある。灰に呑まれていくときの匂い。時間をかけて形が崩れていくときの匂い。ここで嗅ぐものではない。


 踏み込みは一瞬。制圧の角度で中へ入って、そこで止まる。部屋ではなく、バスルームだった。簡素な作りで、掃除はされている。清潔と言い切れるほどではないが、不潔でもない。その均一さが、逆に気持ち悪い。鏡が割れていた。残った破片に自分の顔が欠けて映り、目も口も揃わない。いま自分がどんな表情をしているのか、確認する手段が壊れている。


 洗面台の端に、小さな銀のケースが置かれていた。開けると錠剤が2個。色。形。刻印。知ってる。戦場で出回る類の薬だ。ろくなものじゃない。


 指が、言うことを聞かなくなった。握ったつもりの銃が軽く外れ、金属の冷たさが掌の外側へ逃げていく。首の後ろ、埋め込まれている場所が急に熱を持ち、そこから熱い糸が頭の中心へ走った。視界の端が白く滲み、タイルの目地が遠近を失う。吐き気が来る。身体が勝手に前へ折れそうになり、膝で止める。怖いのは痛みではなく、操作ができないことだった。動くな、と命じても動き、動け、と命じても動かない。


 ドアへ戻ったはずなのに、足元の匂いが変わった。血と灰の奥に、薬品の匂いが混ざる。消毒の甘さと、ゴムの焼けるような臭い。室内の明かりが白く硬くなり、遠くで金属が触れ合う音がする。オルゴールが鳴った。さっきより近いのに、音程が狂っている。旋律が歪み、重なり、逃げ道を塞ぐ。


 そして、ぷつりと止まった。


 第7章 「灰の太陽」


 音が消えた。代わりに、消毒の甘い匂いが鼻へ戻ってきて、ゴムと金属の擦れが遠くで鳴る。白い灯りがまぶたの裏に張りつき、床は硬く、足元の感覚が曖昧なまま、次の瞬間にはそれが全部ほどけた。


 灰の風が吹いていた。

 焦げた大地に転がる死体。半壊したRFが、関節を折ったまま斜めに沈んでいる。砕けた装甲の隙間から配線が垂れ、灰を吸って黒く濡れていた。叫び声が聞こえるのに、どこから来るのか定まらない。耳に入っているのに輪郭が立たず、現場の距離感だけが剥がれていく。


 無線が割り込んだ。


『隊長! 隊長!』


 ロバート軍曹の声だった。声の芯が一本通っただけで、視界が締まる。助かった、ではない。仕事へ戻れた。呼吸が整う前に、判断の箱が戻ってくる。


『命令を! 線が……保てません!』


 大尉は口を開き、言葉を命令の形にして押し出した。そこへ逃げれば、まだ持つ。


「現時点をもって本防衛線を放棄する。各小隊、後退。負傷者を優先しろ。散開は維持、白帯へ寄せるな。繰り返す――」


 自分の声が、機体の内側で反響した。正しい。正しいはずだ。部隊が動く。無線の向こうで復唱が返り、足音と金属音が遠ざかっていく。命令は通った。まだ、言葉は働く。自分も働く。そう思った瞬間、コクピットに灰が入ってきた。


 密閉が破れている。いつからかは分からない。細い粒が息に混じり、舌がざらつく。血の匂いが重なって、そこへ人の腐りかけた匂いが混ざる。戦場の匂いは、記憶より先に身体を動かす。だが今日は逆で、身体がついてこない。指が、指の位置にいない。操縦桿を握った感触が遅れて届き、握り直す動作が空を切る。


「……っ」


 声にならない息が漏れた。手順が崩れる。姿勢制御のつもりが遅れ、機体が傾いた。補正を入れようとして、入らない。入っても、反応が過剰で戻りすぎる。左右の世界がずれ、計器の文字が二重に滲む。


 倒れる。


 重いものが地面へ沈む衝撃が腹へ来て、視界が灰で白く塗りつぶされた。無線が一瞬遠のき、次に怒鳴り声が戻る。


『隊長! 隊長! 応答を!』


 返したいのに、口が動く順番まで奪われている。命令は出せる。次が出ない。悔しさは怒りにもならず、ただ手元の操作を邪魔する。


 非常脱出の手順を思い出し、身体にやらせた。レバー。ロック。解除。外の灰が扉の隙間から一気に流れ込む。地面へ降りると足が沈んだ。靴底の下で灰が鳴き、掌をついた瞬間に冷たさが骨へ移る。起き上がろうとして膝が言うことを聞かない。這うしかない。隊長の姿勢ではないのに、前へだけは進める。


 その先で、温度が変わった。


 灰の空が割れて太陽があった。白ではない。黄色でもない。子どもの頃に見た、名前のつけようのない色で熱があった。熱があるのに、周囲の灰は燃えない。こんな温度があるはずがない。疑うのが先なのに、掌の冷えがほどけていき、皮膚が生き物のように戻る。温かさが嘘でもいいと思わせるのが腹立たしい。


 オルゴールが鳴った。


 戦場に似合わないほど澄んだ音で、旋律が一本の道になって伸びる。さっきまで歪んでいたはずの音程が整い、遠近も正しくなる。音が正しいだけで世界まで正しく見えそうになる。


 妻と娘が歩いてきた。娘は小さな箱を抱えている。妻の手が背中を支えていて、二人とも灰を踏んでいるのに汚れていない。大尉は立ち上がることにこだわらなかった。這ってでも近づく。近づいて、抱き上げる。


 確認するために抱いた。生きているかを。生きていると信じるために。


 その温度に触れた途端、さっき聞いた怒鳴り声が、別の形でほどけた。


 妻の声だと思ったのは、あの家の声ではなかった。宿舎の薄いテレビから流れてきた、古い映画の台詞だ。切れが良すぎた。言い回しが整いすぎていた。なのにあのときの俺は「会話」だと決めてしまった。決めたほうが楽だったからだ。


 あのとき妻は隣で笑って「こんな芝居くさい喧嘩する夫婦いる?」と茶化した。

 俺は画面の向こうの男に腹を立てた。怒鳴るくらいなら、先に抱けよ。先に帰れよ。声の強さで済ますな。そう思って、思っただけで終えた。


 腕の中の娘は、薬の匂いなど一つもさせない。汗と石けんの匂いだ。走ったあとの匂い。髪が乾ききらずに首筋に張りついて、肩のあたりがぬるい。膝に貼った絆創膏の端が浮いている。転んだのだろう。転んで泣いて、泣き止んで、また走る。そういう子だった。病気の子の静けさではない。息の荒さと、次へ行く勢いがある。


 どこかでオルゴールが鳴っていた。


 妻も同じ匂いだ。洗濯物を抱えて、庭に出て、干して、取り込んで、娘の汗を笑って拭く。あの家は、それで回っていた。問題があるとしたら、それは外にあった。任務、白帯、撤退線、命令。家の中へ持ち込んだのは、いつも俺だ。


 それなのに俺は、台詞を借りてまで家を壊した。借り物の喧嘩で、娘を弱い子に仕立てた。現場の手順で、記憶まで整列させた。その冷たさが、いまになって腹に来る。自分がいちばん許せない。


 抱きしめる腕に力が入った。確かめ直す。ここにいる。走る子の重み。笑う母の重み。俺の手の中にある。


 だからこそ――。


 ちゃんと重い。髪が指に絡み肌の匂いがする。生きている。掌で分かる。


 次の瞬間ぬくもりが消えた。


 腕の中が空になる。残ったのは一丁の銃と握りしめたままの認識票だった。

 視界が戻る。


 顔を上げると死体の輪があった。


 名前を確かめる気にはなれない。銃は握り込む形で手に収まり、金属の冷えが戻る。理解が先に来る。そうか。ここまで来ても、俺は持たされる側か。


 若いラインガードが倒れている。ロバート軍曹もいる。部下たちが、転がるように散っている。その中に妻と娘がいた。二人とも頭を撃ち抜かれていて血が灰へ吸われ赤が黒へ変わりかけている。オルゴールの旋律だけがまだ降ってくる。


 大尉は銃口をこめかみに当てた。言い訳は挟まなかった。指が動くかどうかだけを確かめるように、引き金へ触れる。


 そのとき、オルゴールが唐突に止まった。


 第8章 「蓋」


 オルゴールが止まった瞬間、世界が硬くなった。灰の風も太陽も消え、目の前に白い灯りが戻る。消毒の匂いが鼻に刺さり、ゴムと金属の混ざった臭いが喉の奥に残る。戻った、という言い方は甘い。戻された、と言うほうが正しいのに、その差を口にすると自分が壊れそうで、唇を閉じたまま息を吐いた。


 診察室だった。


 机。椅子。白いカーテン。壁には注意書きが貼られているが、軍のものと似ていて、似ていない。書式の角が揃いすぎている。部屋の隅に立つ警備員が、立っているのに敬礼をしない。軍医は白衣を着ている。軍医に見える。だが視線がこちらに乗らない。


「調子はどうだ。眠れているか」


 同じ質問だった。さっきも聞いた。さっき、と呼べる時間の手触りはもうないが、言葉の形だけが一致している。大尉は頷き、同じ返答を返した。返せてしまうのが怖い。


「大丈夫です」


 軍医はペンを動かす。紙に走る音が、無駄に整っている。問診票の上部に印刷された記号が一瞬目に入る。部隊名でも医療隊の番号でもない。何かの管理番号に見えたが、読み取ろうとしたところで視線を逸らした。読むと、次の段階に進んでしまう気がした。


 首の後ろが熱い。無意識に手が伸びかけ、途中で止めた。伸ばしていいのは確認のときだけだ。そう決めないと手が勝手にいじる。皮膚の下に埋まっているものの形を指腹が思い出してしまう。代わりに掌を見た。指の付け根。引き金に触れる位置。そこに残った感触を消すように、親指でなぞる。癖の動きだった。癖が残るほどのことを、さっき自分は――と考えかけて、考えを切ろうとした。


 いや、さっきではない。いつだ。いつ、誰を。


 机の端に、小さなオルゴールが置かれていた。


 木の箱で、角が擦れている。蓋が半分開いていて、金属の櫛が覗く。止まったはずだ。止まったから、俺は――。そこまでで喉が固くなる。呼吸が変わったのを隠したくて、息を浅くして視線を机の上から外した。外しても、音の形が残っている。鳴っていないのに、近い。


 扉が開いた。


 入ってきたのは若いラインガードに見えた。歩幅。角度。人の前を横切るときの、邪魔にならない身体の抜き方。現場で見た動きだった。反射でその手を追った。白帯で「こっちだ」と呼んだ手。腕を振って、人波を割って、道を作った手。


 だが服が違う。袖の端に、薄いクリップが付いている。腕に小さな端末。色のない腕章。軍の階級章ではない。敬礼もしない。こちらを見ない。代わりに、机へ一直線に歩き、オルゴールの横に立った。


 若い手が伸びる。迷いがない。


 同じ手つきで、蓋を閉じた。


 ぱちり、と小さな音がして、世界から旋律が消えた。救われたのか切られたのか、判断が間に合わない。止められた、という感覚だけが残る。止められる側にいる。いつからか、ずっと。


 軍医が低く言った。


「刺激が強い」


 若いスタッフが短く返す。


「次は、もう少し弱くします」


 言葉が出ない。出す前に、焦げの匂いと消毒の匂いが喉の中で混ざり、どちらも飲み込めないまま残る。さっき白帯で呼んだ手が、いま同じ所作で音を消している。


 ここは軍じゃない。


 俺は、兵舎にいない。



(了)




 灰の降る世界。

 白帯を守る者たちの物語。


 任務の果てに、彼らが見出すものとは。


 ▼本編はこちら

『灰の傭兵と光の園~人型巨大兵器が灰の戦場を駆ける。生きるために戦い、守るために殺す』

 https://kakuyomu.jp/works/822139840392255235

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灰の中の真実 青羽 イオ @io_aobane

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