華陽の影、夢魔への屈服


 カピラヴァストゥを灰燼に帰した九尾の狐きゅうびのきつねは、その妖雲を東ではなく、西へとたなびかせた。辿り着いたのは、紀元前六世紀、十六大国の一つとして北インドに君臨した強国、コーサラ国であった。


 この国は、肥沃なガンジス川中流域を支配し、隣接するカシー国やマガダ国と覇を競う軍事大国であった。首都シュラーヴァスティーは、聖なるサラユー川の恵みを受け、黄金の尖塔が立ち並び、商人の隊商が絶え間なく行き交う栄華の極みにあった。


 この国の主、ブラフマダッタ王は、勇猛果敢な戦士であり、法を重んずる君主として知られていた。しかし、ある酷暑の夕暮れ、森での狩猟中に霧の中から現れた絶世の美女に心を射抜かれたその日から、王の英明さは霧散した。彼女こそ、カピラヴァストゥを滅ぼし、更なる血と情欲を求めて現れた華陽夫人かようふじんその人であった。


 王宮の最深部、白檀とジャスミンの香煙が重く立ち込める寝所では、ブラフマダッタ王が華陽かようの虜となっていた。彼女の肌は、磨き上げられた象牙のように白く、触れるたびに吸い付くような湿り気を帯びて、王の指を迷わせる。華陽かようが纏う透き通った極上の絹布は、一呼吸ごとに豊かな双丘を露骨に波打たせ、その頂は興奮に赤く色づいている。


 彼女の内に秘めた獣の熱量は、男の精気を吸い上げては、その頬に不浄な赤みを差していく。華陽かようが王の逞しい胸に爪を立て、耳元で濡れた声を漏らすたび、王の理性は泥のように崩れた。交合の最中、華陽かようの瞳は怪しく黄金色に明滅し、彼女の滑らかな肌の下では、王から奪ったばかりの命の輝きが、うごめく光の脈となって流れるのが見て取れた。


 王が絶頂の果てに虚脱し、その生命力が細い糸のように彼女の体内へと引き込まれるたび、華陽かようの頬には、死人の血を吸った薔薇のような、どす黒くも鮮やかな赤みが差していく。それは生命の躍動ではなく、他者の魂を食らう捕食者だけが帯びる不浄な色香であった。吸い上げられた精気は彼女の双丘をより豊かに膨らませ、その肌は触れるだけで火傷しそうなほどの熱を放ち、さらなる犠牲を求めて疼き始める。


「王よ、私のために更なる祭壇を。千人の民の悲鳴こそが、私の肌をより美しく輝かせ、あなたの夜をより熱く焦がすのです」


 華陽かようが王の首筋に舌を這わせ、心臓の鼓動を数えるように微笑む。王はその妖艶な魔力に操られ、かつて慈しんだ民に過酷な重税を課し、不服を唱える者を次々と「炮烙ほうらく」に似た、真っ赤に熱した銅柱を歩かせる酷刑に処した。


 シュラーヴァスティーの街には死臭が漂い、黄金の尖塔は血の色に染まって見える。狐は、王国が熟した果実のように腐り落ち、人々の絶望が極致に達する瞬間を、下腹部を疼かせながら愉悦に震えて待っていた。


 しかし、その「死の饗宴」を阻む者がいた。月光さえ届かぬ深夜、王宮の回廊に、この世のものならぬ甘美な香気が漂い始める。それは華陽かようの纏う獣のムスクとは異なる、ジャングルの湿った土と、滴る蜜の匂い――。


 現れたのは、実体を持たぬ幻影の夢魔、スナーヤミラーだ。そしてその傍らには、半透明の肢体を妖しく光らせるマイトリーイが控えていた。


 マイトリーイはかつて、厳格な婆羅門の女性修行者であった。しかし、スナーヤミラーが仕掛けた「九度の誘惑」に抗えず、肉体の禁欲を完膚なきまでに破壊された末、法悦の中で修行を捨て、夢魔の使者へと堕天した存在である。彼女の琥珀色の瞳は、もはや聖典を追うことはなく、ただ溢れ出す情欲の雫を見つめている。


 スナーヤミラーは、華陽かようが王から吸い上げる「生命の精気」を、自らの餌場を荒らす侵入者の振る舞いと見なした。


「九尾の獣よ。汝の貪欲は、夢の世界の調和を乱している。人間を壊すのは妾たちの仕事……汝のような食い荒らすだけの獣に、この国は渡さぬ」


 スナーヤミラーの声が、実体のない吐息となって寝所に浸透する。華陽かようは即座に反応し、王の腕の中から跳ね起きた。その背後で、九本の尾が怒り狂った大蛇のようにうねり、黄金の毛皮が逆立つ。


「下劣な夢魔が、私の邪魔をするか!私は王朝を喰らい、千年生きた神獣なり!」


 華陽かようの瞳が獣の赤に染まり、口から凄まじい業火を吐き出した。炎は寝所の天蓋を焼き、周囲を地獄へと変える。しかし、スナーヤミラーは男の姿態へと変じ、濡れた筋肉を月光に光らせながら、炎の中を優雅に歩んだ。その足元からは、マイトリーイが放つ半透明の蜜が溢れ出し、狐の放つ火炎を冷たく鎮め、蒸発させていく。


 マイトリーイは宙を舞い、華陽かようの死角から背後に回り込む。彼女の手から伸びた半透明の蔓が、狐の九本の尾を絡め取り、その動きを封じた。


「汝の力は肉の欲望に基づいている。ならば、その欲望を以て汝を縛らん」


 マイトリーイが華陽かようの耳元で甘く囁き、半透明の指先で狐の白い首筋をなぞった。その瞬間、華陽かようは絶叫した。これまで自らが数多の男たちに与え、破滅させてきたはずの「底なしの情欲」が、自分自身の奥底へ向かって、恐ろしい勢いで逆流し始めたからだ。


 スナーヤミラーは男の姿で華陽かようの正面に立ち、彼女の豊かな双丘を、指がめり込むほどに強く掴んだ。実体を持たぬはずの夢魔の指先が、狐の急所という急所を的確に蹂躙していく。華陽かようの体内を、これまで王から奪い溜め込んできた精気が、制御不能な熱流となって暴れ回る。


(何をする!……この熱さは何だ!私が、私が操られるというのか……!?)


 華陽かようのプライドは激しく軋んだ。数千の王朝を弄んできた神獣である自分が、名もなき夢魔の愛撫一つで、ただの悶える牝へと堕とされていく。その屈辱に唇を噛み締め、怒りに瞳を燃やそうとするが、マイトリーイが彼女の熱い中心部へと半透明の舌を滑らせた瞬間、その決意は音を立てて砕け散った。


 夢魔が与えるのは、肉体的な接触ではない。魂を直接掻き乱す、夢の世界の純粋な法悦である。華陽かようの九本の尾は快感のあまり、一本一本が独立した生き物のように激しく打ち震え、弓なりにしなった。


「おやめなさい……!私は……ああ、っ、壊されてしまう……!」


 拒絶の言葉は、裏返った喘ぎ声となって霧散した。自分を犯しているのが、憎むべき敵であるという「屈辱」が、皮肉にも彼女の魔性的な感度を極限まで高めていく。汚されることに、狂おしいほどの喜びを見出してしまう己の肉体に、華陽かようはさらなる絶望を覚えた。


 スナーヤミラーは容赦なく、男の熱量を華陽かようの最深部へと叩き込んだ。物理的な次元を超えた絶頂が、狐の魂を直接焼き、彼女が千年の時をかけて築き上げた自尊心を、ドロドロの液体へと熔解させていく。彼女の白い肌はひび割れ、そこから眩いばかりの情欲の光が、王から奪った精気とともに、白い滴となってとめどなく溢れ出した。


 華陽かようの瞳は、もはや誰を呪うこともできず、白目を剥いて悦楽の深淵をさまよう。支配者としての「誇り」が、被支配者としての「絶頂」に塗り潰されていくその瞬間、彼女は自分自身が、ただの情欲の器に過ぎないことを突きつけられたのである。


「この地は、汝が住まうには少々、夢が深すぎたようだな」


 スナーヤミラーが冷たく囁き、最後の一突きのごとく、マイトリーイと共に濃厚な甘露を華陽かようの全身に浴びせた。もはや一滴の精気も保てぬほどに搾り取られ、絶頂の衝撃に華陽かようの精神は完全に崩壊した。彼女は醜態を晒し、黄金の狐の姿で失禁と無様な喘ぎを撒き散らしながら、王宮の窓から夜闇へと逃げ去った。


 翌朝、正気に戻ったブラフマダッタ王は自らの罪を悔い、王位を捨てて隠者となった。コーサラ国は救われたが、九尾の狐きゅうびのきつねの執念は消えなかった。


 狐は傷ついた体を引きずり、再び東へと向かった。紀元前十一世紀、殷王朝末期。彼女は妲己だっきとして再び現れ、酒池肉林の極致を築こうとする。だが、その背後には常に、琥珀色の瞳で見守る二人の影があった。


 スナーヤミラーとマイトリーイは、狐が蒔く欲望の種を、自分たちの糧とするために追跡を始めた。狐が豪華な宴を開けば、夢魔はその宴をさらに淫らな幻覚で支配し、狐が男を誘惑すれば、夢魔はその男の夢の中で狐を凌辱して悦楽を横取りした。


 漢の時代、高祖の皇后である呂雉りょちが、政敵を「人豚」として残虐に葬った影にも、狐の囁きと、それを冷笑する夢魔の吐息があった。


 さらに時代は下り、日本の平安朝。玉藻前たまものまえとして鳥羽上皇を惑わした際も、夢魔たちは京の闇に潜んでいた。


 九尾の狐きゅうびのきつねが国を傾けようとするたび、夢魔たちはその「情熱」を燃料として、狐を絶頂という名の地獄に突き落とす。神獣として振る舞いながらも、その実、夢魔たちの愛玩動物(ペット)へと成り下がっていくのだった。


 コーサラ国に伝わる古い経典『夢魔の祭時記むまのさいじき』の末尾には、新たな一節が書き加えられた。


「東の果てまで、影は追う。愛欲の獣が、夢の主を越える日は来じ。神獣の皮を剥げば、そこにはただ、蜜に溺れる獣が横たわるのみなり」


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 中国の古典に息づく九尾の狐きゅうびのきつねの伝説は、古代の神秘と人間の根源的な欲望が交錯する、血と蜜の物語である。最初にその姿が歴史の表舞台に現れたのは、戦国時代から漢代にかけて編纂された、怪異の百科全書『山海経せんがいきょう』である。


 この奇書において、九尾の狐きゅうびのきつねは「南山経なんざんきょう」に記されている。青丘という名の山に棲み、その鳴き声は嬰児の泣き声のように響き、人を食らう凶暴な獣として描写された。しかし同時に、その肉を食せば「蠱毒」を退け、邪気を払うという神聖な効能も併せ持っていた。つまり、古来よりこの狐は「破滅」と「瑞祥」という、背中合わせの両義性を備えた存在だったのだ。


 また、「海外東経かいがいとうきょう」では平和の象徴としての一面も記されている。実際、夏王朝の始祖・塗山氏とざんしの娘と結ばれる際、白い九尾の狐きゅうびのきつねが現れたという伝説があり、当初は子孫繁栄や王権の正統性を保証する霊獣として崇められていた。


 例えば、『呉越春秋ごえつしゅんじゅう』では、夏王朝の始祖・が30歳で未婚だった頃、九尾の狐きゅうびのきつねを見て塗山氏とざんしの娘を娶り、子孫を繁栄させたという逸話がある。こうした初期のイメージは、九尾の狐きゅうびのきつねを単なる怪物ではなく、生命力や徳の高い神獣として位置づけていた。


 しかし、封建社会が成熟するにつれ、この狐のイメージは恐るべき「傾国の美女」へと変貌を遂げていく。


 明代の怪奇小説『封神演義ほうしんえんぎ』は、その決定打となった。物語の舞台は、紀元前十一世紀の殷王朝。暴君・紂王ちゅうおうの寵愛を一身に受けた妲己だっきこそ、女媧じょかの命を受けた「千年狐精」の変装した姿であった。


 妲己だっきの美しさは、見る者の魂を灼き、凍らせた。彼女は紂王ちゅうおうを惑わし、酒池肉林という言葉の語源となった、狂気じみた宴を繰り返した。酒を湛えた池に舟を浮かべ、肉を木に吊るして林とし、全裸の男女を奔走させる。さらには、罪人を真っ赤に熱した銅柱の上を歩かせ、焼け死ぬ様を肴に酒を飲む「炮烙の刑」を考案するなど、その残虐性は極致に達した。彼女にとって、王国の崩壊と人々の悲鳴こそが、最高の媚薬だったのである。


 歴史書『史記しき』に記された実在の妲己だっきは、単なる悪女であったかもしれない。しかし、文学の世界は彼女に「九本の尾」という超自然の力を与えることで、女性の美が国家という巨大なシステムさえも容易に破壊しうるという、男性社会の潜在的な恐怖を具現化したのである。


 ただ、狐の化身という超自然的な要素は後世の創作だ。似た話は周王朝の褒姒ほうじや、インドの班足太子はんそくたいしの妃・華陽夫人かようふじんにも見られ、九尾の狐きゅうびのきつねは王朝の転覆を繰り返す「妖婦」として恐れられた。


 こうした伝説は、権力者の堕落を象徴し、女性の美がもたらす破壊力を警告する教訓を含んでいる。史書では幸運の象徴だった狐が、文学では悪の権化に変わる過程は、中国文化の多層性を示す興味深い例だ。




 九尾の狐きゅうびのきつねの怨念は、波濤を越えて日出ずる国へと辿り着いた。平安時代末期、雅と退廃が同居する京の都に、「玉藻前たまものまえ」という名の絶世の美少女が現れる。


 彼女はわずか十六歳にして、あらゆる学問に精通し、古今東西の歌を詠み、その美貌は御簾越しにさえ周囲の空気を熱く狂わせたという。鳥羽上皇とばじょうこうは彼女に心酔し、夜な夜な彼女の寝所へと通い詰めた。ある秋の夜、突然の嵐に灯火が消えた暗闇の中で、玉藻前たまものまえの体から神々しくも禍々しい光が放たれたという逸話は、彼女の正体が人間を超越していたことを示唆している。


 だが、上皇が原因不明の病に臥せると、名門・安倍晴明あべのせいめいの血を引く陰陽師・安倍泰成あべのやすなりがその正体を見破る。泰成やすなりが幣を振り、真言を激しく唱えると、優雅な美女の皮が剥がれ落ち、巨大な金毛九尾の狐きゅうびのきつねが姿を現した。狐は雷鳴とともに夜空へ消え、那須野が原へと逃亡した。


 ここからが、日本独自の討伐記の幕開けである。上皇は八万余の軍勢を送り込み、上総介広常かずさのすけひろつね三浦介義純みうらのすけよしずみといった剛の者たちが、狐を追い詰める。熾烈な戦いの末に放たれた矢が狐の心臓を貫いたが、その断末魔は終わりの始まりに過ぎなかった。


 狐の死体は巨大な石へと変化し、周囲に猛毒の瘴気を振りまき、触れるものすべてを死に至らしめる「殺生石せっしょうせき」となったのである。その石は、後世に源翁和尚げんのうおしょうという高僧が鉄槌を下すまで、数百年間にわたって人々の恐怖であり続けた。


 現在も那須の地に鎮座する「殺生石せっしょうせき」の周囲には、硫黄の匂いが立ち込め、草木も生えぬ異様な光景が広がっている。2022年にこの石が自然に割れたというニュースは、単なる地質学的現象を超えて、封印された古の妖異が目覚めたのではないかという戦慄を日本中に与えた。


 能楽『殺生石せっしょうせき』や、江戸時代の物語『玉藻記たまもき』に見られるように、日本の九尾の狐きゅうびのきつねは、中国の悪女像を引き継ぎつつ、消えることのない怨念の象徴として語り継がれている。


 日本版の九尾の狐きゅうびのきつねは、中国の悪女像を引き継ぎつつ、怨霊として永遠の呪いを象徴する。


 狐は元来、稲荷神の使いとして神聖視されるが、この伝説では妖怪の側面が強調され、早婚や王朝の乱れを戒める教訓を含んでいる。那須の地を訪れれば、古代の神話が現代に息づく不思議な余韻を感じられるだろう。

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「💞霊視する女子大生の禁忌録外伝」華陽の影、九尾の呪い。古代インドから日出ずる国へ、時空を超えて連鎖する絶世の美女と人食い妖狐の血塗られた性愛 ⚓フランク ✥ ロイド⚓ @betaas864

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