4.利き手



 引き取ってもらう荷物を提げ、寮の前まで奈桜なおを送る。

 荷物を運び出す段になって、ダンボールが持てないことに気づき、結局紙袋に中身を移して運ぶことになった。


 敷地のすぐそばに赤いコンパクトカーが停まっている。助手席の窓から覗くと、運転席には新婚だという奈桜の夫が座っていた。悠斗ゆうとは彼に断りを入れて、トランクに荷物を収める。


 去っていく車を見送り、空腹を訴えて鳴く腹をひとつ撫でた。


 寮の部屋に戻った悠斗は、買い置きしてあったインスタントのきつねうどんの蓋を開けた。

 ポットから湯を落とす。フリーズドライの油揚げが飛沫を弾き、粉末スープが溶けて黄金色のスープが染みていく。

 蓋を閉じて、3分。待つ間、悠斗は胡坐をかいた膝の上に載せた手帳の表紙を開いた。


 日記のような、メモのような。

 最初のページは、日付がずいぶんと古い。意外と綺麗な陽太ようたの手蹟を目線で辿っていく。


 読むともなしに視線を這わせる間に、ふと、動かない左手が視界の隅に引っかかった。

 血は通っている。感覚もある。けれども、どこかで回線が途切れているように、動かすことができない。今も視線を向けるのを合図にするように、ヒクンとわずかに跳ねるだけ。


――陽太が死んだ日。


 撃たれた陽太を抱きとめた左半身の感覚を思い出す。

 犯人が銃を構えるのを見て、飛び出そうとした体が押し留められた。それは、陽太の右手だった。


「あの反応速度あるなら、死なんでもよかったやろ……」


 撃たれる一瞬、目が合った。ほっとしたように笑った陽太の顔が脳裡に閃いて、悠斗は思わず瞼を閉じる。

 視界を遮断したせいか、鼻腔を出汁の香りがふうわり掠める。

 ぐぅぅとやかましく鳴く音に急き立てられて、悠斗は蓋を押さえていた割り箸を手に取り、2つに割る。


「いただきます」


 手を合わせて言って、蓋を剥がした。ふっくらとした油揚げと黄金色のスープ。薄くて平たい麺。まず油揚げを一口齧ってから、余韻が消えない内に麺を啜った。


 ズズズ、と鳴る音は、当然ながらひとつきり。


 鼻の奥を重い痛みが突き上げた。ほんの少しだけ咽て、咀嚼した麺を呑み込む。

 左利きなら、使い慣れた側へと避けたらよかったのに。わざわざ右側に飛び込んで、銃弾の標的になるような真似をして。


ちゃう)


 陽太は気づいていた。悠斗が、反射で犯人に飛びかかろうとしていたことに。


(あいつは、犯人を見てへんかった)


(俺を庇うために、真っ先に動いた)


「……なんでやねん……」


 箸を止めて、手帳のページをめくる。そこにふと、三上みかみの名前を見つけた。

 筆跡が震えている。殴り書くような、乱暴な字体――『覚えておけ!』と、叫ぶように書かれている。


「――『相棒を庇えるのは、利き手側だ』……」


 それは三上の言葉らしかった。そのあとに、三上の怪我の具合と、陽太自身の反省が数ページに渡って綴られていた。


 三上は、陽太はいつも「右側にいた」と言った。

 三上の利き手がどちらかは分からない。ただ、飛び出す癖のあった陽太を押さえるために、彼の左側にいたのだとしたら。


 煙草を吸う左手の手つきと、麻痺が残りながらも悠斗の袖を器用に掴んだ右手の指先。三上の闇色をした瞳の理由が過ぎって、悠斗は深く項垂れる――あれは、深い後悔の色だったのかもしれない。


 濃く香る出汁の香りに、満たされない腹の音が幾度も抗議を続ける。

 それでも「生きろ」と、「生かせ」と、鳴いている。


「なんやねん、お前……ほんま……ヘマしすぎやろが……ど阿呆が……」


 悠斗は鼻水を啜って、食べかけの器を手に取る。

 麺を掬い上げ、出汁に浸して、食らいつく。ズズズと音を立てて啜って、噛んで、呑み込んだ。


「お前……三上さん、ブチ切れとったで? ほんまに、アホやろ……俺が怒られたんはとばっちりやけど……えらいもん背負わせてくれたなあ、もう……」


 麺が尽きて、油揚げを一気に口に入れて咀嚼する。じゅわじゅわしみ出す出汁を喉の奥へと押し込んで、残った汁も呑み干した。


「はーあ……、くっそ……」


 涙と鼻水で、甘いはずの出汁が塩辛い。左手が動かないせいで、拭うこともできない。

 悠斗は箸を置いた右手でティッシュを掴み、顔面を雑に拭った。喉の奥が痙攣したように震えている。吐き出す息は喉の力とは裏腹に、気が抜けたような淡さだった。

 息を吐ききって、ページをめくる。

 日付は、悠斗とバディを組んだ日。

『もう間違えない』『あいつとなら上手くやれる』『俺の利き手を空けておける』

『だから』


――『あいつは、俺が絶対に死なせへん』


「なにを誓ってんねん……ど阿呆」


 歪む視界の中で、はっきりと記された『利き手』という文字を撫でた。


「妹さんですら知らないってなあ……お前の利き手」


 天井に向かって言葉を吐き、動かない左手を握りしめて引き上げる。

 守るために動けなかった、役立たずの左手。守られた意味を思って、視界が揺れた。


「右手やないかい」


 握った指の右手の中で、一瞬。指先がピクンと力強く跳ねた。



《END》

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相棒の利き手 依近 @ichika115

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