3.隣
寮の部屋の薄い扉を開いて、訪問者を迎える。
柔らかそうな生地のベージュのコートを着た小柄な女性は、狭い玄関に立って深く頭を下げる。耳より上の位置で結んだポニーテールがふわりを揺れた。
「
「ああ、この度は……ご愁傷様です」
言いながら頭を下げると、奈桜も律儀にもう一度頭を下げた。
「荷物、まとめてあるんで見てもらってええですか? いらないものとかあったら置いてってもらっていいんで」
「でしたら、
「……ああ、はい」
奈桜は靴をきちんと揃えてから、靴下の足で室内に上がる。
悠斗は壁に寄せていたダンボールを引っ張って、部屋の中央へと移動させる。
「澤さん、左手……どうかされはったんですか?」
「え? ああ」
長めの袖で半ばまで覆い隠した左手に目を落とす。意識するとピクリと震える指先。
「動かんのです。医者に診てもらっても原因わからへんくて……なんか、ストレスだか、気の持ちようがどうとかって。しばらく休みもらってるんで、まあ、様子見ですわ」
「そうですか……不便しますね」
「利き手やないので、まあまあですわ」
段ボールの傍で、奈桜が床に膝をつく。封をしていないダンボール。中には陽太が寮に置いていた私物が詰まっている。どうせ中を見てもらうのだからと、放り込むように積んでしまった。遺族の目には不快に映るかもしれない、と、悠斗は窺う視線を奈桜に向けた。
悠斗の心配を他所に、奈桜は瞳に慈愛を浮かべていた。
ダンボールの中身を上から順に手にとって、重ねることなく床の上に並べていく。ひとつ、ひとつ。
久しぶりにカーテンを全開にした出窓から差し込む陽光。光の柱の中で、ふわり浮き上がった埃が舞う。
「あの」
「はい?」
「陽太の利き手って、どっちやったんですか?」
奈桜の呼吸が止まり、同時に手も止まった。
ポニーテールの影が揺れる。奈桜は茶色が印象的な瞳を瞬いて、やがてゆっくりと細められた。
「うちにも、分かりまへん」
彼女の証言に、フッと肩の力が抜けるように感じた。黙って見つめてしまっている間に、奈桜はフッと微かに噴き出し言葉を継ぐ。
「兄は、隣にいる人によって利き手を変えはるんです」
「隣に、いる人」
「うち、左利きなんです」
奈桜は顔の横の高さに持ち上げた左手をグッパと握ってみせた。その薬指には細いシルバーリングが光っている。
「左利きだと、右利きの人と並ぶ位置間違えると肘が当たらはるでしょう? それで当たってしもた時があって、その時兄はサッと左手に箸持ち換えたんです。俺はどっちでも使えんねん、って、得意そうに言うて。人に合わせるのが俺の特技やて」
「なんやねん、それ」
「そう! なんやねんそれって、笑って」
フフッ、と軽やかな笑い声が鼻先を撫でる。自然と口角が上がる感じが心地よかった。
「こだわりとか信条って人それぞれなので、よう分からんのですけど、兄にはそれが性に合ってたんやと思います。人といることが好きな人でしたから……役に立ちたい、というか、役割というか。その人の隣に立つ理由みたいなのを、いつも大事にしてはった気がするんです」
「隣に立つ理由……ですか」
「あ、あった」
ダンボールの底が見えかけたところで、奈桜が声を上げながら手を伸ばす。
そして、やけに膨らんだ黒い革の手帳を取り出した。
「澤さん、これなんやと思います?」
奈桜は顔の横に手帳を掲げて見せる。悠斗はそっと眉をひそめて首を傾げた。
「……なんですやろ?」
「兄の秘密兵器らしいですわ。うちもちゃんと中身見たことあらへんのやけど……これ、澤さんにあげます。もらってください」
言いながら差し出された手帳を、右手で受け取る。しっとりとした革の感触が指先に馴染む。
冷えた温度が主を失った証のようで、胸が軋んだ。
「俺がもらってええんですか?」
「はい。こういうのって、特に家族には見られたくないものやと思うんです」
「俺やったら、相棒に見られるのも嫌ですわ」
「かもしれまへんね。でも、ええやないですか。いくらなんでも早く逝きすぎですし、澤さんのことこないに凹ませてはるんやから、ちょっとぐらい嫌がらせしたって」
「嫌がらせ……なあ」
耳底で、陽太の笑い声が響いた。タイミングぴったりにうどんを啜ることはあっても、結局座学の時に肘でどつかれることはなかった。彼はいつも悠斗の左側にいたから。
「あいつ……なんで右手使わんかったやろ」
ポツリと呟いた声は、奈桜の鼓膜を揺らした。
奈桜は床に広げたものをダンボールの中へと戻す手つきを止めて、頬にかかる髪をそっと耳に掛ける。
「その答えもたぶん、そこに書いてあるんと違いますか?」
「……ほんまですか?」
「ただの勘です」
奈桜の声は柔らかく、空っぽの胃にじんわりと染みた。
そっと口角を上げるのと同時に、腹の虫がぐぅと鳴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます