――世界がまだ壊れる前の、確かな幸福。
冷えた空気は、凛として青い。凍てつく鋭さで、頬に貼り付いた。
サァと吹き抜ける風が運ぶ温度。漣のように聴覚満たす、人の声。
人混みが怖いということはない。まるで水の中にいるように、頭の天辺までどっぷりと飽和する音に浸る。周囲を取り巻く水泡をイメージしながら、足先を定める。
白石蒼葉は、そうして人ごみの中に存在を紛れさせるのが好きだった。
地面に触れる靴も、心なしか軽くなる。
「蒼葉! ねえ、待って」
満ちる音をスゥと割って、耳に馴染んだ声が呼んだ。吐き出した息の、柔らかい熱を鼻先で撫でる。振り向いた胸にトッと飛び込んでくる華奢な身体を抱きとめて、口角を上げた。
「もう、目を離すとすぐどっか行っちゃうんだから」
プッ、と。窄めた唇の内側に閉じ込められる息の音。頬を膨らませた沖矢望加の表情を想像した蒼葉は、喉を揺らして笑う音を立てた。
頬に溜めた空気を抜いて、望加も柔らかく笑ったようだった。
淡い息が、蒼葉の鼻先に触れる。蒼葉は望加の背中に手を回したまま、息の源へと顔を寄せた。
視覚を持たない蒼葉にとって、息は分かりやすい存在証明。そこに鼻先を寄せれば向き合えるし、吐息を合わせれば――キスになる。
「わっ、ちょ……蒼葉、ダメだよ」
口元へ押し付けられる冷えた掌。蒼葉は彼女に押し返されるままに体を起こして、キョトンと首を傾げる。
「外だから、あんまり近づくのはダメ」
口をあまり開けずにしゃべっているのだろう。望加の声はくぐもって聞こえた。
代わりに、吐き出す息は熱を帯びている。彼女の立てる音は、言葉よりも雄弁だった。
蒼葉は微笑んで頷く。彼女が撒いてくれたマフラーが顎を優しくくすぐった。
「せっかくのクリスマスデートだから、隣にいてね」
望加の手がするりと腕に絡み、コートに包まれた身体が寄り添った。
息遣い以外にも、位置を知る方法がある。そんな当たり前の気づきが、蒼葉には新鮮だった。
何の色も映さないはずの視界が、光を映していた。ボゥと微かに聞こえる電飾の音。
「イルミネーション、すごいよ。一面、光の海みたい――蒼葉の音楽に似てる」
望加の声こそ、音楽だった。彼女の声を聞きながら歩くと、音楽が生まれた。
漆黒に揺れる黄金の光。いくつも集まり、海になる。人々の歓声が波音になり、心地よく冬を彩っていく。
「蒼葉、楽しそうだね――弾きたい?」
悪戯を思いついた子供のような声で、望加が言った。胸の内を言い当てられて、蒼葉は吐息しながら頷いた。
唇から生まれた熱が、鼻頭を掠めて上昇し、冬空に溶ける。
頭に色づく旋律が生まれて、世界を彩っていた。
蒼葉の世界を形作っていた音。そこに加えて、いつの間にか居ついていた――声と色。
(ああ、もう)
堪らない感情。声があれば叫んでいた。だからせめて、音を持たない喉で冷えた空気に触れる。
呑み込んだそれは熱を持つ体内で溶かされて、胃の奥に沈んでいった。
誰かと過ごす、2回目のクリスマスイブ。
ひとりで生きていた頃にはもう、戻れない。
《ラストクリスマス/END》