春曇りの僕は

色葉充音

春曇りの僕は

 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。もう三年は開けた覚えのない薄墨色のカーテンの向こう側を覗いてみる。ベッドの上で膝立ちになって、外から気づかれないように、そっと。


 木製の窓枠は埃を被っていて、同時にしっとりと冷たかった。空に住んでいるはずの雲が降りてきている。目を凝らしてやっと隣の家の明かりが見えるか見えないか。そんな春曇りの世界をガラス越しに触れた。


 もうそんな時期かとベッドサイドにかけてあるカレンダーに視線を向ける。一日が終わるごとにばつ印をつけてきたそれには、確かに、まっさらな日付がない。


 ああ、また一年が終わったんだと、ようやく悟った。


 一月一日からの一週間、春曇りの街〈カグラーデ〉は濃い霧に包み込まれる。その間は誰一人として外出せず、ただじっと春が来るのを待つだけ。八ヶ月間の長い冬が明けるのを、光と暖かさにあふれるはじまりの季節を、皆一様に望んでいる。


 春が来て、冬を過ごし、春を望む。そうしてカレンダーを変える時期になるとまた春が来る。何をしても何をしなくても春は勝手にやってくる。だけどこの三年間、僕に春は来ていない。


 三年前の十月二十三日、冷たい冬の真っ只中。母さんが死んだあの日から僕の季節は止まったまま。待てど暮らせど、時間を動かすほどの力は春になかった。


 一日数回、トイレに行く時。二日に一回、体を清める時。それ以外はずっとこの部屋に閉じこもっている。食事は昼と夜の分を父さんが扉の横に置いてくれるからそれを食べる。足音がしたら、ベッドの中で毛布を被って息を殺して。僕という存在を気づかれないようやり過ごす。


 誰かと話した記憶なんて遠すぎる。声の出し方も忘れてしまっているかもしれない。でも、それでいい。息をしているだけで死んでいる僕には、それだけが相応しい。


 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。風が吹いているわけはなかった。霧が晴れる七日後まで、春一番が吹くまでは、季節の狭間に囚われたまま。だけどこの時期に窓が揺れるのはもう三年目。


 水を得た魚のように、酸素を思い出した僕の心臓がドクンドクンと動き出す。毛布を頭から被り直して、目を固く瞑って、耳を塞いで。脳裏に映ったのはいつの日かの春だった。




 春曇りが晴れたと同時に咲く桜の花。街の中心を流れる川の河川敷に二十歩の間隔で植えられている木々。その間を柔らかい風が通り過ぎる。暖かさのある上品な花びらが僕らの頬を撫でていく。左に父さん、右に母さんと手を繋いで、見上げる形で話しかけた。


『また冬が来るなんて嫌じゃない?』

『だよなー。父さんも嫌だ。ずっと春のままがいい』

『そう? 私はそうは思わないけどね』


 冬を嫌い、冬を遠ざけたい僕と父さんに、母さんはひだまりのように笑いかけた。僕ら家族の中で一番春が似合う人。どうして春が過ぎ去ることを嘆かないのかという疑問の答えはその視線の先にあるのかもしれない。


 母さんの視線を追いかけると、川辺で黄色い菜の花が揺れたのが見えた。向こう岸には、手を取り合って歩く老人、桜の花びらを捕まえようと奮闘する子ども、僕らみたいに手を繋ぎ合って歩く親子……。


 真上には低く流れる薄い雲とどこまでだって落ちていけそうな空が広がっていた。その色は地上と触れ合う辺りで淡い白と手を取り合う。春空と春曇りの境界線を見た瞬間だった。


 再度吹いた風に桜の花びらが嬉しそうに飛び上がる。暖かいけど、冷たい。柔らかいけど、優しくない。どうやら春は自由気ままな存在らしい。姿の見えない小鳥が囀り、仲間を呼んでいる。春だね、春だよ。遊ぼうよ、何して遊ぶ。僕にはそう話しているように聞こえた。


『春ほど難しいものはない。なぜなら冬がわかりやすいから』

『母さん? 何その言葉?』

『今ちょうど思いついたものかな』

『ふーん?』

『春があるから冬があって、冬があるから春がある。片方がなかったらそれはもう春でも冬でもない、ってね』

『さすが小説家だな。それっぽい』

『伊達にやってませんから』


 父さんの言葉にすかさずそう返した母さん。三人で顔を見合わせたあと、吹き出すように笑った。僕から見たこの景色はどんなに有名な画家だって表せない。


 ……僕ですら、表せない。




 意識の浮上と共にぱちりと瞼を開く。ベッドの反対側の壁に立てかけている時計は午前五時を示していた。針の部分が蓄光になっているおかげで暗い中でもだいたいの時間がわかる優れもの。五年前の誕生日にもらったもの。いつの間にか何もしない一日が終わって、過ぎていく何もしない一日が始まった。


 窓が揺れることはなかった。部屋の中も窓の外も変わらない暗さにゆっくりと目が慣れていく。冷え切っている手と足の先を縮こませる形で体を丸める。部屋の照明をつけるだけでも少しは変わるのかもしれないが、扉の側にある電源にはどうやったって届きそうにない。


 また、僕は目を瞑る。




 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。外を覗こうとして、やめた。一月三日が終わった。




 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。毛布を被っても、目を瞑っても、耳を塞いでも。時々聞こえてくる窓が揺れる音に意識が引っ張られる。一月四日が終わった。




 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。怖かった。気づいてと言われているようで、目を逸らすなと言われているようで。僕は何も知らない、知りたくない。一月五日が終わった。




 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。知っていると言えば放っておいてくれるだろうか。春は必ずやってくる。昨年も一昨年も、今年だってもうすぐそこまで来ているんだって。だけど……。一月六日が終わった。




 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。がたがたと、背伸びする位置の窓が揺れる。びゅうびゅうと、背伸びする位置の窓の外で風が呼んでいる。春一番が吹いている。春曇りが晴れていく。一月七日、この街に春がやってきた。


 僕は毛布を被って息を殺す。静かに、何もないように、最初から存在しないように。このまま本当に殺してしまいたくなった。


 殺すのなら……死ぬのなら、春がいい。冷たくて、暗くて、何も見えなくて、終わりがなくて、ただひたすらに耐えるしかない冬なんて。僕に巣食う冬なんて。冬なんてなくなってしまえばいい。


 ずっと春がいい。

 永遠に春がいい。

 変わらぬ春がいい。

 死ぬのなら春がいい。

 死んだあとも春がいい。

 どこまでも春がいい。

 いつだって春がいい。


 かたりと、背伸びする位置の窓が揺れた。




 本当はわかっていた。今まで一度だってこの窓は揺れなかった。こんなところに窓なんてなかった。僕はそんな部屋になんて閉じこもっていなかった。春曇りの街〈カグラーデ〉なんて存在しなかった。すべて、僕が創り出した空想だった。


 がらがらと、ベランダに続く窓を開けた。保温性がそこそこなアルミでできた窓枠は、ただただ冷たくてすぐに手を離したくなった。アパートの二階に住む僕と同じ目線の桜の木は嬉しそうに咲っている。冷ややかさを残した優しい風が、薄く淡い花びらを投げ込んでくる。


 この部屋に春がやってきた。


 僕は裸足でベランダに出て、大きく深呼吸。花の甘さを乗せたどこか冷たい薫りを胸いっぱいに吸い込む。それなりに青い空には薄らと雲がかかっていて、特筆することもないが、まあ強いて言うなら美術の教科書に出てきた絵画みたいだった。


 なんでもないただの春。どちらかというと冬よりは好きな春。死ぬんだったら春がいいな、くらいのことは思う春。


 ああ、また春が来たんだなと、ようやく悟った。少しだけ、裸足でベランダに出たことを後悔した。

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