第4話

 そして――現在。

 

 覚悟を固めた私は、そっと右足を持ち上げた。ただ足を移しただけなのに、足元がいつもよりずっと空っぽに感じる。

 

 あとは、左足を出すだけ。そうすれば、きっと――楽になれる。

 

 ……なのに。何度目だろう、ここまで来て。 また、メルの顔が浮かんだ。

 

 私は彼に、返しきれないほど多くのものをもらってきた。ここで消えてしまったら――彼に迷惑をかけるんじゃないか。リリのことだって、ちゃんと面倒を見るって約束したのに。

 

 それに。母に陽を頼むと言われたとき、私は確かに頷いたのだ。

 

 その思いに負けて、私は足を引っ込めた。

 

(死ぬ勇気もない、バカ……)

 

 そう自分を罵って、何も言わずにもう一度だけ下を見て――諦めたように背を向けようとした、その瞬間。

 

「あ……れ?」

 

 長く立ちすぎたせいか、足の感覚が鈍っていた。湿った手すりに触れていた素足が、ふっと滑る。

 

 一瞬で視界が反転する。内臓がひっくり返るみたいな、ぞわりとした浮遊感。でも、不思議なくらい――全部が遅く見えた。

 

(あ……死ぬんだ)

 

 そう思った途端、頭の中だけが妙に冷たくなる。

 

 怖くない。むしろ、今まで胸を締めつけていた鎖が、ほどけていくみたいに軽かった。

 

 そして、視界の端で――青い光が散った。星屑ほしくずみたいな小さな青いが、ふわり、ふわりと舞い上がり、腕に抱えたウィスピリーフのぬいぐるみを淡く照らす。その一つひとつが、ぷるん、と青く震えるたびに、闇が少しずつ薄れていく。

 

 光はじわじわ強くなっていき、やがて世界が青に包まれていく。真冬なのに、なぜか温かいとさえ思える光だった。

 

(死ぬ前の幻って、こんな感じなんだ……)

 

 私はそう思い、その光に身を任せるように、静かに目を閉じた。

 

「…………」

 

 いつまで経っても、コンクリートに叩きつけられる衝撃は来なかった。代わりに――ガツン、と強い力で身体ごと引き寄せられた。

 

 硬いのに安心できる感触――何かに、全身を包み込まれているような感覚。ふくらはぎと肩に触れる場所から、柔らかな温もりが伝わってくる。


 鼻をくすぐる、懐かしい日向の匂い。

 

 そして、耳を貫くように――私がいちばん求めていた声。

 

「ホタル!!!」

 

 驚いて目を開けた。

 

 目の前にいたのは、メルだった。見間違えるはずがない。完璧に、私のメル。

 

(……どうして? もしかして、メルも――?)

 

 焦りで思考が跳ねた瞬間、メルが再び叫ぶ。

 

「――この大馬鹿が!! 何してるんだ!!」

 

 初めて見る表情だった。眉間は深く歪み、いつも澄んで丸い瞳はきつく細められている。その目から、宝石みたいなしずくがぽろぽろと落ちていく。荒い呼吸で胸が上下するのが、抱えられている私にまで伝わった。

 

「どうして……メルが……」

 

 状況は何ひとつ理解できない。けれど、胸の奥から一気に熱いものがせり上がってきて、言葉より先に溢れた。

 

 頬を伝う温かい滴。

 

「メル……ほんとに、メル……? うぅ……私、もう……つらかった……つらい……」

 

 しゃくり上げながら、やっとのことで口にする。メルは何も言わず、ただ私を強く抱きしめた。

 

 私はその胸にしがみついて、自分でも聞いたことのないほど大きな声で、しばらく泣き続けた。




「ひっく……で、どうやって来たの……?」

 

 少し落ち着いた私は、白く積もった床に座ったまま、メルを見上げた。メルは答えず、私の向こう側を指さす。

 

 そこには、裂けてしまったウィスピリーフのぬいぐるみが転がっていた。綿の隙間で、見覚えのある青い鉱石が、かすかに揺らめいている。

 

「え……?」

 

 どこかで見たことがある形。青いのに、どこか異質な燐光りんこう

 

 まさか。こんなところに――このぬいぐるみの綿の中に、ずっと隠されていたの? いざという時、すぐに駆けつけられるように……?


 その意味に気づいた瞬間、自分が情けなくて、申し訳なくて、胸が押し潰されそうになった。

 

 私は立ち上がり、青い石を両手でそっと拾い上げた。青く揺らめく光は、少しずつ、少しずつ弱くなっていく。

 

「ごめん……ごめん……私が……」

 

 言葉が崩れて、嗚咽になる。

 

 メルは近づいてきて、私の手から石を丁寧に受け取った。そしてしばらくして、喉元にひやりとした感触。

 

 そっと目を開けると、喉元に――月明かりに浮かぶ白銀の細いネックレスが掛かっていた。小さく丸いケースの中には、さっきの石がきちんと収まっているのが見える。

 

 メルは、涙の跡を残したまま、笑って言った。

 

「遅くなった……ごめんね、ほたる」

 

 その一言で、こらえていたものが一気に決壊した。

 

 私は彼に飛びついた。喉の奥が飴玉でも詰まったみたいに塞がって、言葉が出ない。呼吸さえ勝手に震え、口の中に塩辛い液体が流れ込む。

 

 彼の背中に腕を回し、二度と離さないとでも言うみたいにシャツの布を指が白くなるほど掴んだ。布越しの肩の硬ささえ、今は痛いほど愛おしい。

 

 ――もう、逃げない。

 

 この温もりがある限り、私は何度でも、何度でも踏ん張れる。


 

***



「なにそれ! コスプレ? まじウケる!」

「おいおい、化け物! なんか喋ってみろよ!」

 

 色とりどりの服を着た小柄な子どもたちが、校庭の片隅で輪になって、ひとりの少年を蹴っていた。

 

 少年は痩せ細り、服はあちこち裂け、肌には薄く血が滲む新しい傷から、古いかさぶたまで――数えきれないほどの跡が重なっている。そして、どう見てもここのものじゃない、長い耳。

 

「やめて! 何してるの! いじめないで!」

 

 背後から、水滴みたいに透きとおった少女の声が飛んだ。

 

 緑の上着に緑のズボン。片手には、小さな――インコのぬいぐるみ。少女は息を切らしながら、必死に駆け寄ってくる。

 

「はぁ? ブス虫が口出すなよ!」

「インコのうんこくせーんだよ、近寄んな!」

 

 子どもたちは止まる気配すらなく、逆に少女へ絡みつく。少女は唇を噛み、ぬいぐるみを両手でぎゅっと抱きしめた。細い指先が、かすかに震えている。

 

「……あんたたち! 他の友達をいじめるなって、言ったでしょ!」

 

 さらに背後から、鋭い声が割り込んだ。

 

「うわっ、ゴリラだ! 逃げろ!」

「やべ、来た!」

 

 次の瞬間、さっきまでの勢いが嘘みたいに、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように消えた。

 

「バカみたい……」

 

 少女はうんざりしたように、小さく呟いた。そして、まだ震える息のまま倒れている少年の前にしゃがみ込み、恐る恐る手を差し出す。

 

「へへ……大丈夫?」

 

 少年は、目の前に差し出された手を、ぼんやりと見つめた。泥だらけの自分とは違う、白くて柔らかそうな掌。何を言われているのかも、なぜ――こんな自分に手を伸ばすのかも、少年にはどうしても理解できなかった。

 

 それでも。訳も分からないまま暗闇を彷徨っていた少年にとって、その少女だけが、闇に灯る小さなみたいに揺れていた。

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エルフの心臓が欲しい うめ紫蘇 @umeboshi03

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