第3話
どれくらい漕いだのか。まだ夜明け前だ。粘土みたいな闇の中で、病院の窓だけが淡い緑の光をにじませ、周囲をぼんやり照らしていた。
中へ入ると、見慣れた若草色の壁。そして、息が詰まるほど鼻を刺すアルコールの匂い。胸の内側を握り潰されるみたいに、じわりと圧がかかった。
そして、人気のないロビーに看護師が一人だけ立っていた。
私と目が合った瞬間、彼女は小さく頷き、無言で歩き出した。 まるで、私が来る秒数まで数えていたかのような動きだった。
(違う……そんなはずない。やだ……)
何も言えず、その背中を追いながら私は〈絶対、そこじゃない〉と心の中で何度も言い聞かせる。
けれど、震える指先とは裏腹に、足だけは残酷なほど冷静で、行くべき順路を迷いなく辿っていた。
タッ、タッ、タッ――足音が、薄暗い廊下に規則正しく反響する。そこにはくすんだ灰色の椅子が、等間隔に並んでいるだけ。腕の上を芋虫が這うみたいに、ぞわりと寒気が走り、全身に鳥肌が立った。
五年前、母を見送ったときと――まったく同じ感覚。
――神様は、私の人生で同じ悲劇を何度でも上演したいらしい。
***
それから、もう一週間が経った。悲しむ暇もないまま、次から次へと用事に押し流されて、瞬きをするたびに一日が消えていった。
「あの……佐々木さん? 聞いていますよね? 理解できましたか?」
「あ……はい、はい……」
私は自分の両手を見下ろしたまま、小さく口を開いた。
足元に見えるのは、艶のある黒い革靴が一足と、擦り切れた茶色の革靴が一足。児童保護所と区役所のケースワーカーたちだった。言葉は丁寧なのに、机の上に積まれた紙の束が、容赦なく現実を突きつけてくる。
「大変なのは承知ですが、弟さんが成人するまでは……そのためには家族裁判所へ……」
「住まわれていた住居は生活補助の対象となっていたため……」
「葬儀費用の処理に必要な書類が……」
耳に届く単語の一つひとつが、聞き慣れない。
何かをしなきゃいけない――それだけは分かるのに、何をすればいいのかが分からない。
胸の奥に、黒いインクが際限なく滲んで広がっていく。
この場から消えてしまえたら、机の上の紙の山も、視界に入れずに済むのに。そう思うのに、体は椅子に縫い付けられたみたいに動かない。
陽は一時保護の施設から出たいと毎日電話口で泣き叫ぶ。けれど私は家族ではあっても、保護者じゃない。できることは限られている。
私に、どうしろっていうのだろう――
それでも嘆く暇すら与えられず、目の前の声が私を現実へ引き戻す。
「理解、できましたね?」
「……はい」
私は喉の奥から、無理やり声を絞り出した。視界が滲む。まぶたの裏が熱い。
今はただ、一刻も早く家に帰りたかった。
***
家に着くなり、私はリリに餌をあげ、そのままベッドに倒れ込んだ。
広すぎる寝台。寝返りを打っても、背中に触れるのは冷え切ったシーツだけ。伸ばした指先が、誰にも触れずに空を切る。
別に別れが初めてなわけじゃない。
それでも、見えない巨大な手で
つらすぎて、メルにも全部話してある。もちろんメルは〈すぐ戻る〉と言った。けれど飛行機は、防疫措置のせいでそう頻繁には飛ばない。最短でも来週。
――来週なんて、遠すぎる。
(もう無理……メルに会いたい……)
そう思った、そのとき。
ピンポーン、ピンポーン
「郵便です」
このまま寝ていたかったのに、ふと――メル宛ての書類かもしれない、という考えが私を無理やり起き上がらせた。
「佐々木ほたるさんで間違いないですか?」
「……はい」
「こちら、サインお願いします」
受け取ったのは、くすんだ木の色みたいな小さな封筒。片隅にある、満面の笑みを浮かべた学生のシルエット――教育省のロゴがやけに目に刺さる。
何気なく封を切り、紙を引き抜いた瞬間――指先から血の気が引いた。
――学業不誠実による給付奨学金
「……え?」
一度、強く瞬きをして、もう一度見る。けれど、文字は変わらない。
心臓が、壊れたみたいに
一週間、学校を休んだから? それだけで? そんな――そんなはずがない。
親を亡くし、その上――私の唯一の
膝が抜けて、私はその場にへたり込んだ。
(どうしよう……どうすればいいの……?)
泣きすぎて、もう涙なんて枯れたはずなのに、目の奥だけが熱く焼ける。唇が小刻みに震えて、言葉にならない息が漏れた。
そのとき、窓の外で日が落ちて、部屋が一瞬で暗くなる。ライトだけが、リリのケージを淡く照らしている。世界から色が抜け落ちて、私もこのまま闇に溶けてしまえばいい――そう思った。そうすれば、痛みも、寂しさも、明日の不安も、全部なくなる。
それ以外、何も考えられなかった。
私は何かを決めたみたいに、ゆっくりと立ち上がった。
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