二人のささやかな祝祭

京野 薫

僕と君の祝祭

 僕は戦争から帰ってきた。

 友達は命を奪われた。

 僕は羨ましい。

 だって、それで終われたから。


 僕は命より大事なピアノを弾くための右腕を失った。

 そして……僕自身を終われていない。

 そして、学生時代を過ごしたこの屋敷で毎日ゴロゴロしている。

 ピアノもとっとと処分したい。

 それかホコリまみれになって、見るも無残になればいい。


 僕にはそれが相応しい。

 価値のない存在。

 汚れてしまえばいい存在。

 誰からも祝福されない存在。


 でも……そうなっていない。

 忌々しいことに。

 なぜか?

 それは……


「坊ちゃま。お部屋を掃除するので出て下さいませ」


 忌々しいこのメイドの橘鈴子たちばなすずこ

 ぼくが出征した時は近所の無愛想なガキだった。

 

 僕が「すず」と呼んで相手してやっててもブスッとした表情で「はい」「ありがとう」「食べます」程度。

 それが今はなぜかこの屋敷でメイドとして働いてて、無愛想かつ鬱陶しいお節介焼きメイドに変化した。

 

 戦後の混乱で行き場を失った娘を、父が「住み込みの手伝い」として置いたらしい。

 ちなみにみんなは女中と呼んでいるが、僕はメイドと呼んでいる。

 その方がハイカラだ。

 女中と言うのは古臭くてカッコ悪い。


「すず! 部屋は掃除しなくていい。何度も言ったろ……おい! ピアノは掃除するなって言ったろ」


「はて? 私は聞いておりません」


「言った! とぼけるな! 眼の前でお前に言った!」


「坊ちゃま。結論から申しますとピアノを埃まみれにするのは悪手でございます。埃まみれになったピアノは、著しく音を損ねます」


「もう弾かないからどうでもいいだろ?」


 僕はギロリと睨むが、鈴子は平然と無表情な瞳で見返して来る。

 くそ。


「私がこのピアノを気に入っておりまする。旦那様からはピアノの扱いは私に任されておりますゆえ。後……」


 すずはフッと笑う。


「どこかの駄々っ子みたいな方の事も」


 いまいましい。


 すずが居なくなった後、僕はピアノを見て……すぐ目を逸らした。

 ピアノはまるで用済みになった僕を見下しているように思えるから。

 ああ……早く処分したい。

 その時はすずにやらせて、絶対あいつも厄介払いしてやる。


 散歩にでも行こうと思いながら、そっと窓から外をうかがう。


 ……ダメだ。

 村のガキどもが遊んでる。

 昼間はダメだ。


 村で一番……いや、街でも一番のピアノ弾き。

 子供たちは俺のピアノを目を輝かせて聞いていた。


 ベートーベンの月光。

 俺の十八番だった。

 俺自身も弾いていて気持ちよくなる曲だった。


 ピアノから出る音は公民館の空気を心地よく震わせ、楽器から……鍵盤から伝わる重い響きは俺の体の奥を揺らす。

 そんな最高に気持ちいい時間。


 ピアノで身を立てたかった。

 無理でも、何らかの形で一生ピアノを弾けると思ってた。

 ……両手さえあれば。


 ……今は人目も怖いのか……俺が……何を。


 俺は立ち上がると、本棚に入っている楽譜を一冊取り出した。


 こんな……もの。

 そして手にとって破こうとして……できなかった。


 僕はうなり声を出すと布団に入って泣いた。


 明けない夜。

 ずっとずっと、寒い夜。


 その時。

 ドアをノックする音が聞こえた。


「……誰だ」


「鈴子でございます。坊ちゃま。掃除のお時間で……」


「いらない。消えろ」


「では掃除に入らせていただきます」


 そう言ってドアを開けて入ってきた。


「……お前、日本語分かるか?」


「はい。お陰さまで旦那様のお慈悲により、読み書きの本を沢山読ませていただきました。このご恩に報いるべく……」


「じゃあもう一個教えてやる……今のは皮肉だ。消えろ。でないと、父さんに言ってお前に暇を与えるからな」


「坊ちゃま、結論から申しますと無駄ですね」


「父さんがお前を庇うからか? 関係ない! 僕がお前を嫌いなんだ!」


「それは坊ちゃまのお気持ちで、私がどうこうできるものではありませぬ故、考えません。今はこのお部屋を掃除するのみ」


 そう言って勝手に部屋を掃除し始めたので、僕は頭から布団を被り、目を閉じた。

 暗闇の世界。

 全てから僕を守ってくれる。

 いっそこのまま……死にたい。


 ああ、心臓を自分の意思で止められたらな……


 そして、寝返りを打ったとき、すぐに右のわき腹が布団に触れ、一瞬驚いた後激しい怒りが湧いてきた。

 そうだ……腕……


 僕は布団の中で大声で叫んだ。

 すずがいるけど構うもんか。

 叫び続けた。

 なんで……僕ばかり。


 叫び終わると、部屋からは何の物音もしない。

 すずも驚いて逃げたか……


 ちょっとだけ恥ずかしさと惨めさ、そして後悔が湧いたけどすぐに苦笑いを浮かべる。

 構うもんか。

 今の僕に相応しい。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 もう何年も前。

 出征する前日。

 最後の公民館でのピアノ演奏。


 そこにもすずは居た。

 変わらずブスっとした表情で、しゃがみこんで僕の演奏を聞いていた。

 両親が不仲でいつも一人で居た彼女のためにシューマンの「トロイメライ」を弾いた。

 すずは仏頂面で聞いていたが、演奏が終わり明日からの出征に向けて気を昂ぶらせていると、物憂げに歩いてきて僕に「ん」と言って、お茶を出してきた。


 お茶を受け取った俺は、すずの頬が涙で濡れているのが分かったので、声をかけた。

 すると、両親が喧嘩してたのだそうだ。


「もう……やだ」


 そう言って俯くすずに僕は言った。


「神様は地面には居ない。お空にいる。だから辛い時はお空を見上げて。そうすれば元気になるから」


 そう言って、僕はすずの頬をたまたまポケットに入ってた白いハンカチで拭いてやった。

 桜の刺繍がしてあるハンカチ。

 すずはハンカチを奪い取ると「洗って帰す」と言って、走り去って行った。


 でもアイツがハンカチを帰す前に僕は村中の人たちの声援を受けて、兵舎へ向かう列車に乗った。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 まさか、あの時以上に厄介者になってるなんて。

 ……僕にピッタリじゃないか。

 出来損ないピアニスト……いや、無駄飯食らいと無愛想メイド。


 布団に顔を埋めて声も出さずに泣いていると、かすかに耳元にコトリ、と音が聞こえた。


 ……なんだ?


 そっとドアが閉まる音を聞いてから布団から顔を出すと、テーブルの上に一杯のお茶が置かれていた。


 無性にピアノが憎らしく思えてきた。

 ああ……嫌だ。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


「ねえ、和弘かずひろ。もっと食べなさい。復員してから全然食べてないじゃない。凄く痩せて……」


「いいだろ、その方が。親孝行だよ」


「……それのどこが親孝行だ?」


 感情の篭らない口調の親父を俺は睨みつけた。


「無駄飯ぐらいが死ねば孝行だろうが! そのくらい分かれよ!」


 そう言って、茶碗を床に投げつける。

 鈍い音がして茶碗が割れ、白米が散らばる。


 母親が息を飲む声が聞こえ……やがてちいさい泣き声に変わる。

 僕は心にトゲが刺さった気がしたけど、それを無視して立ち上がった。

 これでいい。

 こうやって嫌われれば……


 そう思いながら部屋に戻ろうとした、僕の脚が止まる。


「……すず。そこをどけ」


 あの馬鹿メイドが目の前に立っている。

 目が細くなって、ジッと僕を見ている。


「手伝います」


「……は? 何を」


 次の瞬間。

 すずは僕の腕をつかむと、床に座らせた。

 なんちゅう馬鹿力……


「割れた茶碗は私が拾います。怪我したら大変ゆえ。ですが……お米は拾いなさい。このご時勢。白米がどれほど貴重かお分かりですか?」


「関係ない……勝手にしろ」


「ではご自身で闇市に行きなさい。押しつぶされそうな車内。盗難の恐怖。闇市では進駐軍の兵士たちからの侮蔑と迫害。それらに耐えながら、女中たちは買出しに出ております。それを行って御覧なさい」


 無言の僕にすずは冷ややかに言う。


「出来ませんよね。赤子のように駄々ばかりのあなたなんかに」


 僕は目の前が真っ赤になるのを感じた。

 そして、目の前の米粒をつかむとすずに投げた。


「俺が……赤子? 俺の苦しみが分かるか! お前なんかに……両腕あるお前なんかに分かるわけねえだろ!」


 すずは自分の顔と身体についた米粒を丁寧に取ると、全て予備の茶碗に戻した。


「分かるわけないでしょ? 私はあなたではない。ただ分かる事はある」


 すずは僕の左腕をつかむと、凄い力で無理やり左腕を床の米粒に触れさせた。


「この腕。それであなたは生きていく。否も応もない。赤子のように泣いてるくらいならこの腕、使ったらどうですか。そして……格好つけるのをお辞めなさい。今すぐ」


「……許さない」


「どうぞ。でもまずは拾いなさい。メイドたちの手に入れた宝石のような米粒が今、床にゴミのように散らばったものです。あなたの手で」


 僕はすずを親の敵のように睨むと、米粒を拾って口に入れた。


「これで……どうだ」


「はい。さすが坊ちゃま。素晴らしいです」


「そりゃどうも。父さん……この馬鹿メイドすぐに首にしろ! でなければ俺が出て行く」


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 部屋に戻った僕は、グッタリと座り込んだ。

 なんで……こんな目に。


 僕はみんなの憧れだった。

 大人も子供も、みんな俺を見た。

 僕の出すピアノの音に目を輝かせたり、うっとりとする。

 悲しい時も、不安なときも、うれしい時もピアノは僕に寄り添っていた。


 なのに……


 僕はピアノの前に座る。

 蓋を開けると、驚くくらい磨かれた鍵盤が並ぶ。

 その美しさに気圧され……怯えた。

 まるで女王。

 その女王に愛されていた男は……今は蔑まれている。


 左手で弾いてみる。月光を。

 だけど、すぐに音は乱れた。


 右手で弾くべき場所が……消えた。自分の中から。

 そして、左手も。

 度重なる戦地での手榴弾の投擲。

 それによって、左肩も痛めていたのだ。


 女王が……笑っている。

 呆れ、見下しながら。


 そうか……もう愛されない。

 だったら……


 翌日。


 部屋を出ると、裏の納屋から斧を持って行く。


 そして、部屋に入るとピアノの前で座った。

 全部……終わらせる。

 

 僕は左腕で斧を振り上げたが、その左腕一本のせいでバランスを崩し、後ろにひっくり返った。

 体力も筋力も落ちてるせいだった。


 寝転がったまま笑い出し、やがて泣いた。


 自分の手で終わらせる事もできないのか……

 そうして左手で顔を抑えて泣いていると、ドアが開く音がする。


 そのまま泣いていると、案の定すずの声だった。


「……消えろ。邪魔だ」


 それだけ言って泣いていると、顔にそっとハンカチが触れた。

 目を開けた視界の端に桜の刺繍。


「まだ……持ってたのかよ」


「はい。なぜか使い心地良く。それにまだ洗ってないので返せません」


「捨てろ。ゴミだ」


「お断りします。使いやすいので」


「それは僕のだ」


「まだ洗っておりません故、返せません」


 僕はフッと短く笑った。


「勝手にしろ。お前のクビも無しだ。どうせ俺の言葉なんて誰も聞かない。こんな……無価値な人間。ピアノも弾けない……俺なんて」


「ご主人様、あなたは……無価値ではありません」


「無価値だ。ピアノも弾けない。あれがない俺に何の価値がある? ピアノは命より大事だった! 今の俺は何だ? 単なる腕の無い厄介者だろ! 右腕の無い俺なんて、死んだほうがマシだ」


「腕と生命どっちが大事なのです」


「腕だ! ……じゃあ教えてくれよ。利き手がない! ピアノは弾けない! だれからも必要とされない俺に何の意味があるんだよ! 意味無いのに生きててどうすんだよ!」


「意味は……ございます」


「何の?」


「すずは……生きていて欲しいのです。あなたに。それでは足りませんか?」


「……何で? 僕が生きててお前になんの得が……あ、そうか。お前、勤め口無くなるもんな。お前みたいな無愛想なメイド、ここ以外雇ってもらえないから……あ、そうか。だから『おまえにとって価値があるんだな!』」


 僕は立ち上がると、左手でピアノを力一杯殴りつけた。

 ピアノは激しい……そして醜い不協和音を響かせる。

 そして、その直後僕の頬に傷みが走った。


 ……え?


 頬を叩いたのはすずだった。

 呆然と見ると、すずは怒ったような……でも泣きそうな顔で俺を見ていた。


「なぜ……ピアノを……。あなた言ったよね? ピアノは生命より大事、と。……なぜご自分の生命を殴るの! 大馬鹿!」


 すずの始めてみる涙だった。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○

 

 僕は俯いた。

 そして……泣いた。

 勝手に泣けた。


「じゃあ……どうすれば……」


「分かりません。分からないのです……それが悔しい」


 泣き声交じりに言った後、彼女は続けた。


「でも……すずは隣におります。いつでも。そのピアノも」


「お前が……いてどうなる」


「すいません。どうにもなりません。でも……ハンカチでお顔は拭けますゆえ」


 その言葉に何故か笑えて来た。

 笑えてきて……泣けてきた。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


「僕……生きてて良いと思う? どうやって生きればいい?」


 すずは僕を抱き締めた。

 その温もりに驚き……安堵した。

 こんな女に……不愛想で、言葉足らずで、お節介な女に……


 その不愛想で言葉足らずで、お節介な女は言った。

 抱きしめながら。

 泣きながら。


「分かりません。でも、すずは隣に居たいのです」


「それ……お前の都合じゃん」


「はい。ピアノの代りに坊ちゃまにつくします」


「あたりまえだ。おまえの仕事なんだから。……僕はピアノが呼吸だった。……どうすればいいかな?」


「片方の肺がなくてももうひとつあります。……ひとまず、すずではダメですか? その……もう一個の肺」


「なんだよ、その例え……」


「私、おしゃべり苦手なんです」


「知ってるよ。充分に」


「あなたは芸術がお好きなんです。だからきっと……また呼吸できる。それまでは、すずが肺になります」


「……いらないよ」


 唇を引き結んだすずに僕は言う。


「お前は肺じゃない。宝物だよ」


「……承知しました」

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