エピローグ



 桜が散り、不定期にしつこく雨を降らせた梅雨がようやく明けた。


 雨上がりの澄んだ空に、蝉の声が混じり始める初夏。


 長袖シャツからTシャツに変わっても、相変わらず色を排した黒づくめの服装。丈の長い白衣の裾を揺らして、逢坂は階段を上っていく。


 一番奥にあるクリニックの入口の前には、診察時間前なのに人影があった。

 逢坂は事務の女性の小言を思い出しながら、コンビニ袋を揺らして近付く。


「あ」


「あ?」


 振り返った肩までの長さのストレートヘア。猫を思わせるつり目がちの瞳が瞬いて、逢坂を見るなり頭を下げる。


 夏らしい水色のワンピースを着た女性は、春に妹を伴いここを訪れた患者――雫真優だった。


「お久しぶりです」


「ああ、久しぶり。……いい時間は過ごせたか?」


 真優は相変わらず感情の読めない表情のままで頷く。


「はい。結月の最期は、とても明るかったです」


「あいつらしいな」


「先生、これ」


 真優は肩に掛けたバッグの中から取り出したものを逢坂の掌に乗せた。

 彼女の手から離れたそれは、アクリルの毛糸を編んで作った星形のブローチだった。


「結月が、先生にって」


「……ああ」


 逢坂が感慨深く眺めていたブローチを、なぜか真優がひょいと摘まみ上げていく。

 逢坂が呆気に取られているうちに、真優は逢坂が首から下げたIDケースを手に取って、そのストラップ部分にブローチをつけ始める。


「先生のその服って」


 淡い色のマニキュアを塗った指先がピンを留めるのを大人しく眺めていると、真優が不意に呟いた。


「――魔法使い、ですよね」


 猫目に上目遣いを向けられ、逢坂は思わず極端なリアクションを返してしまう――正解、と暗に言うような。


「聞こえてたか……」


 口元を隠してブツブツ独り言を呟く逢坂をあえてスルーして、真優はつけ終えたブローチに指先で触れながら言う。


「だから、きっと似合うって」


「……ああ、そうかよ」


 逢坂は観念したように苦笑を漏らした。

 真優はまたバッグをあさりだす。今度は何を出す気だ。


「あとそれ、お揃いです。この子と」


「んぇ?」


 真優が取り出したのは白いうさぎのぬいぐるみだった。

 首に巻かれた青いリボンの上に、こちらは月の形をしたブローチがついている。


「これは妹の遺品か?」


「……っていうか、結月です」


「あ?」


 怪訝な声を上げて顔を上げた逢坂の前に、真優は自身の口元を隠すようにして白うさぎを掲げる。


 一瞬、無言の間。


『やっほー、先生! 来ちゃった』


 明らかな裏声。真優の手が白うさぎの手を持って跳ね上げるのもバッチリ見えている。

 けれども結月が出したにしては口調もトーンもまったく違っていたので、拭えない疑念が思考を埋めた。


「……今の、お前か?」


「ちがいます。結月です」


 また、無言の間。


『先生がバイトに来いっていうから、魂だけこっちに残ったの。お姉ちゃんのこと治してくれたお礼もしたいし!』


「……だ、そうなんですけど。バイトって募集してましたか?」


 真優は白うさぎを雑にバッグに突っ込み、今度はクリアファイルに入れた履歴書を取り出した。

 それを差し出されるままに受け取りつつ、逢坂は呑み込めない状況に動揺するまま、ゴクリと喉を震わせる。


『ゆっきーって呼んでね』


「やっぱりお前だろ!」


「いいえ、結月です」


 決着しそうにない問答を溜息で打ち切り、逢坂はクリニックのドアを開ける。


「……とりあえず、中入れ」


「よろしくお願いします」


 手にした白うさぎ――結月改めゆっきーと一緒に頭を下げる真優。

 逢坂は軽い頭痛を覚えつつ、真優に言ってゆっきーを受付に座らせた。


 泣けない患者を見る医者と、泣けなかった元患者。そして「人の涙が見える」元人間のぬいぐるみ。


 希少な「涙腺科」ならば、こんな奇妙があってもいい――かもしれない。



 逢坂はそう結論付けて、診療予約のフォルダーを開いた。



《END》

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涙医師―逢坂透の診療カルテ― 依近 @ichika115

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