Case1.泣けない姉と泣きすぎ妹③
◇
「――終わったぞ」
処置室から顔出して、逢坂は待合で待っていた真優に声をかけた。
真優は俯けていた顔を上げて立ち上がり、逢坂が開いたドアの内側へと足を踏み入れる。
「……え?」
薄暗い照明の中、真優は声を零して立ち尽くした。彼女の視線の先には妹の結月がいる。呼吸も正常で、顔色も極端に悪いこともない。ただ背もたれのある椅子に座っているだけ――ガラス玉のように空虚な目をして。
「あの、先生……これどういうことですか……?」
真優は動揺を滲ませ、震える声で逢坂に問う。逢坂は道具を片付ける手を止めて、肩越しに真優を振り返った。
「お前の妹の望み通りに、涙を止める処置をしただけだよ」
小さく、息を呑む音。逢坂は真優に体ごと向き直り、言葉を重ねる。
「お前もそれは同意していただろう?」
「それは……結月が止めたいって……もう泣きたくないって、言うから」
「涙は悪いものだって思うか?」
静かに、淡々とした口調で問う逢坂。真優は瞳に戸惑いを浮かべながらも、足を踏ん張って姿勢を支える。
「涙は……嫌い、です。結月には笑っていてほしい。けれども、結月が泣くのは仕方ないって思います」
「それは同情か?」
「違います」
存外に強い答えが返ってくる。軽蔑でも怒りでもない――平坦な感情が滲む声。
「命を失うっていう想像は、わたしにはできないから。結月が苦しいとか辛いって思うなら、涙にして見せてくれた方がいい。……結月は、泣いてもいいんです」
「それで、お前は泣いたらいけないということにはならないだろ」
「わたしには……泣く理由がないです」
真優の瞳がわずかに揺れる。それはまるで、迷子の子どものような目だった。
「理由がなければ泣けないか?」
「わからないです……でも、結月を前にしたら、泣けない。結月が泣くなら、わたしが泣く理由はない……そう思って、泣かないように堪えているうちに、泣き方なんて忘れました」
言葉を重ねるごとに、真優の瞳から光が消えていった。それは、口にするのは初めての本音だったとしても、自身の中では何度も唱えすぎて染みついてしまった――呪文。
「なるほどな。じゃあ、泣けるなら泣きたいか?」
「……はい」
瞳の中に微かに残った消えそうな光を見つめて、逢坂は万年筆を掲げた。そして呟く――誰にも聞き取れないくらいの音量で。
「――チチンプイプイ」
真優の瞳がわずかに見開く。逢坂は万年筆の先でくるり空を撫で、その手をソッと開いてみせた。
逢坂の掌の上に、液体の入った小瓶が現れる。
真優は逢坂に近づいて掌を覗き込み、彼の顔と交互に視線を向けた。
「これ、飲んでみ?」
「飲む……んですか?」
「そ。まあなにかあっても大丈夫。俺医者だし」
「そうですね」
冗談ほど真面目に受け取る、彼女の独特な受け答えのリズムは何なのだろう。
逢坂は漏れかけた声を喉奥に無理やり押し込めて、瓶の中身を煽る真優を見つめた。
――真優の脳裡に、めくるめく結月との思い出が押し寄せてくる。
結月が生まれた日。
初めて一緒に祝った誕生日。
初めて結月から贈られたプレゼント。
一緒に参加した運動会。
結月の病気が見つかった日。
初めての入院で、結月のいない家に帰宅した日。
退院した結月を迎えた日。
そして、結月が余命宣告を受けた日。
――それはすべて、涙を堪えた日の記憶。
「ふ、ぅ……ぐぅ……ッ、ぅ……」
逢坂は影に身を潜めて、息を詰めて真優の様子を見守る。
少しずつ漏れる音が、喉を破って嗚咽になる。肩が震え、微かに上がっていく息。
真優の瞳が、人形のように椅子に座る結月を見た。泣かない代わりに、にこりとも笑わない。
彼女の中に怒涛のように押し寄せているのは――喪失感。
「さび、しい……」
嗚咽の隙間に、はっきりとその言葉が溢れた瞬間。
真優の瞳から溢れた涙が頬を伝った。
長く体内に溜まっていった雫はようやく開かれた出口へと押し寄せるように溢れ出して、真優はついにしゃっくりを上げて泣き出した。
「一緒に、いたい……死なないでほしい……いや……本当は。いやだよ……結月がいなくなるのは嫌……嫌だよ……結月――……」
止まらない涙を両手で拭って、真優は力なく床に座り込んだ。
逢坂は真優に近づいて、その頬に手を伸ばす。
まるで涙を拭うような仕草で採取瓶を頬にそっと押し当てて、彼女の涙を捕まえる。
検査薬に溶けて滲みだす色は――白。偽りのない、真実の涙の色だった。
「……本物だ」
呟きを聞いて首を傾げる真優と、背後でパッと顔を上げる結月。
結月は興奮気味に上がる呼吸を抑えつつ、逢坂にサムズアップを向けた。
頭上越しにサムズアップを送り合う結月と逢坂に気づいた真優は、ハッと息の音を零して呆然と呟く。
「……何してるんですか?」
「あ……」
――魔法の効果は、いつの間にか尽きていたようだ。
その後、真優はたっぷり30分泣いた。早く来た分の猶予を、涙でちょうど使い切るように。
晴れやかな顔で笑う結月と、感情の見えにくい表情に泣き腫らした目元だけがアンバランスな真優。
けれどもしっかりと繋がれた2人の手に、治療の効果は見えていた。
「姉の涙も正常値に戻ってる。もう大丈夫だ」
逢坂が言う横で、結月は何度もウンウンと頷いている。
「人の涙が見える」という彼女には、わざわざ診断を告げなくともお見通しというわけで。
「……なあ妹、お前うちでバイトしない?」
「めちゃくちゃ短期間の期間限定になるけど大丈夫ですか?」
「う……っ」
声を零したのは真優。俯いて口元を掌で覆い、細かく肩を震わせる。
「あー……薬の副作用っつーか、まんまの効果っつーか。たぶん夜までずっとこんな感じだと思う」
「あはは、全然問題ないですよお。お姉ちゃんかーわいー!」
妙なハイテンションで姉に絡む結月を見て、逢坂は真優に同情を覚えた。
「この後も経過を見せてくれ、……と言いたいとこだが、とりあえずは、姉妹の大事な時間を過ごせよ。来るのはその後でいいから」
「はい! ありがとうございます、先生」
どこまでも澄んだ、真っ新な笑顔。白い服も相まってまるで天使のようだ――などと言ってしまったら、また真優が泣くだろうからやめておいた。
雨上がりの空を焼く夕焼けと、群青の夜が混ざり合う薄明時。
クリニックの窓から望む空に、一番星が白く輝いて見えた。
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