第4話
小雨が降り続いている。
時期に強くなるだろう。この地域はいつもこうだ。
足元はぬかるんだ泥。不愉快な音と共に歩かなければいけなかった。
気温も下がる。気をつけなければいけない。
塹壕に溜まった水が、靴越しにじわりと冷たさを伝えてくる。
そんな場所を水たまりを避けながら、歩く女兵士がいた。
短く切られた黒髪に、褐色の肌。
体つきは女性的ではあるが、軍服の下には確かな筋肉を感じさせる。
雨に濡れながら不機嫌そうに歩く彼女に、声を掛ける兵士がいた。
「よう、ヘスター」
粗末な幌の下で、焚き火にあたる兵士。
ありがたい。そろそろ寒さに凍えていたところだ。
「調子はどうだ?」
ヘスターは幌の下に入り、濡れた手袋を外すと火に手を当てた。
暖かさが徐々にではあるが、指の感覚を戻してくれる。
「落ち着いてるよ。敵さんもこの雨には参ってるだろうな」
彼は陣地の歩哨だ。
胸から下げた、双眼鏡で敵陣地を見るが、どうやらあちらも焚き火が恋しいようだ。
「そうか。それはいいことだな」
ヘスターはポケットに手を入れるが、目当てのものが見つからない。
その様子に歩哨は苦笑しながら、煙草を差し出す。
しかし、ヘスターは手を振り、それを受け取らなかった。
「ああ~、そうだ。お前にはこっちだったな」
ヘスターは煙草をやらない。
そのことを思い出した、歩哨は傍らにおいた鞄から携行食を取り出し、
半分ヘスターに差し出した。
ヘスターはそれを受け取り、口に運ぶ。
歩哨もそれを食べた。
「……大変だったらしいな」
歩哨は言う。
ヘスター達は伝令にでて、壊滅した友軍を見たという話は広まっていた。
「たいしたことないさ、よくあることだ」
「……よくあること……か」
ヘスターの返答に、歩哨は思った。
次は自分たちかも知れない。
歩哨は携行食を見つめ、しばらく黙り込んだ。
「お前は良いかも知れないが……お嬢様は大丈夫かよ?」
お嬢様──
シャーロットのあだ名だ。
その言葉にヘスターはピクリと眉を動かす。
「さぁな……知らないさ。アタシはあいつのお守りでも、執事でもないんだ」
つまらなそうに答えた。
「気にしといてやれよ。初めて見たんだろ?」
シャーロットは初陣とほぼ同義で、あの惨状を見た。
そのことが歩哨は気になるようだ。
「下らない。そんなに気になるならあんたが面倒見てやれよ。
あんただって上等兵だろ?」
ヘスターは携行食の包を火に投げ入れると、歩哨に背を向ける。
「どこ行くんだよ?」
歩哨の声に、
「知らねぇよ。どこでも良いだろ」
と、言い捨て歩き始めるヘスターに歩哨は苦笑する。
その足先は小隊の寝床。
シャーロットがいるであろう場所に、向かっていたからだった。
小隊は塹壕に掘られた、いくつかの待機壕を割り当てられていた。
その一つにヘスターは入っていく。
壕の中は不快な空気としか言えなかった。
湿気と汗の匂い。まともに風呂も入れなければ仕方なかった。
雨に濡れない。砲撃が来ても死ぬ可能性が低い。
それぐらいしか、この場所の利点はなかった。
ヘスターを見つけた兵の一人が、顎で奥を刺す。
そこにはベッドに横たわる金髪の女。
シャーロットだ。
本来なら部隊の最底辺、二等兵がベッドを独占するなど、あり得なかったが、
それはこの小隊、皆の最大限の優しさだった。
戦場の無常。それを感じたときの喪失感は味わった者にしかわからなかった。
ヘスターは無言でベッドの傍らに立った。
「おい、起きろ、間抜け」
つま先でベッドの足を蹴る。
振動により、シャーロットは目を覚まし、
身体をゆっくりと起こした。
「……おはよう……ございますわ……ヘスター上等兵……」
辛気臭い顔だ。
王国の至宝──
そのように言っていた長い金髪も、埃が付き、よれている。
数日は手入れをしていないのだろう。
「おはようじゃねぇ。何時だと思ってるんだ。馬鹿が」
「……そうですわね……申し訳……ありませんわ……」
苛つく態度だ。
ヘスターは冷たく見下ろす。
その顔を、これ以上見ていられなかった。
どうして腹が立つのか、それもわからなかった。
壕の中の兵士たちはヘスターに任せることを決めたのだろう。
既にヘスターたちのことは見ていない。
その態度にもヘスターのストレスが増す。
シャーロット。
何を言っても、貴族だ、公爵だと五月蝿い女。
だが──
「来い! 間抜け」
傍らに置かれた、ヘルメットを頭に乗せ、腕を掴んで壕の外。
貴族令嬢様の腕は、細くて、頼りなかった。
──雨の強くなってきた塹壕に連れ出すのだった。
雨は土砂降り。風は横殴り。
塹壕は水が溜まり、川のようにも見える。
皆、雨から逃げるために壕や小屋の中に逃げ込んでいた。
その中で動く人影が二つ。
何の役にも立たない、雨合羽を着ながら作業する女兵士が二人。
シャーロットとヘスターだった。
彼女たちは木箱を倉庫に運んでいる。
雨が強くなってきたので、野外に放置された雑貨類の木箱だった。
この行為は意味はない。
雨の中ですることではない。
風邪をひくかも知れない。そうなれば戦場では命取りだった。
だが、ヘスターは知っていた。
一度、ベッドに寝るようになったら、もう起きられない。
柔らかい敷布に埋もれてそのまま沈むだけ。
沈んだまま、浮いてくることはない。
何度も見た光景だった。
雨の数ほどに。
「遅いぞ」
そう言って、シャーロットが持ち上げるのに苦労していた木箱を、
軽々と持ち上げる。
シャーロットは目を伏せる。
無力感に打ちひしがれている。
「サボるな」
ヘスターは短く言う。
感情は雨音が流してしまったようだ。
もっと言い方がないだろうか──
例えば、あの、冗談ばかりの一等兵のように。
無理だ。そんなに器用ではないし、それにあいつは喉に大穴を開けて、
もう、ここにはいない。
動くしかない。動き続けるしかない。
それしか方法をヘスターは知らない。
「……もし」
雨の中にシャーロットの声が溶ける。
「あの時……間に合っていれば……」
声は雨音よりも小さい。
ヘスターは答えたくなかった、それでも吐き捨てるように言う。
「……さぁな」
ヘスターは木箱を運ぶ。
最後の一箱を倉庫に押し込み扉を閉めた。
「貴方は無念に思わないのですか? 自分だけ生きていればいいと?」
シャーロットの目がヘスターを見つめていた。
その目には涙はない。流れるのは雨だけ。
「……わからないさ、知らないな」
「私が、もっと……」
シャーロットはそう言う。
あぁ……
沈む。
泥の中に沈んでいく。
底の無い泥の中に、沈んでいく。
たぶん、もう──
這い上がれ無い。
──だから
「アタシは死にたくない」
ヘスターは言った。
「死んじまったら終わりだ。あの世なんて無い。今、この瞬間しか無い」
彼女は言う。雨の中だから、きっと、聞こえないから。
「後悔も、苦悩も、生きてるからだ」
こんな事は言いたくない。まるで、神父だ。
下らない説法だ。唾棄すべき言葉。中身がない。
「仕事は終わりだ。アタシは飯を食いに行く。
雨に打たれていたければ、好きにしろ」
ヘスターはシャーロットに目もくれず、歩き出す。
雨は強い。壕に戻るなら、走るはずなのに。
彼女は歩いた。歩いていた。
何かを、誰かを待つように──
「……ヘスター」
シャーロットは呟く。
彼女は優しくもないし、慈悲深くも、理想をもってもいない。
それでも、いや、だからこそ、歩みを緩めることぐらいはしてくれる。
シャーロットはそう、思うようにした。
「……私も……少し、お腹が空きましたわ」
シャーロットは歩き出した。
空は暗く、雨は強くなるばかり。
泥はぬかるみを深めるばかり。
しかし、軍靴で踏みしめたときの音は、
心持ち、気持ちの良いものだった。
第四話 終わり
次の更新予定
2026年1月10日 20:00
泥濘のお嬢様 ――公爵令嬢、塹壕に立つ @kakituki
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