第3話
撤退命令
敵主力接近中
即座に陣地転換を要する
物資移動不能の場合、必ず焼却すること
紙に書かれていたのは短い文章。
その下には複数人のサイン。
正式な書類だった。
地面はぬかるんでいる。
数日前に降った雨がまだ乾いていない。
軍靴はぬかるみに沈むが歩けないほどではない。
ただ、気楽ではない。息が詰まる。
孤立しているという感覚が、胸を圧迫していた。
森の木々の影に、兵士が滑り込む。
金の髪を振り乱しながら、注意深くあたりを見渡す。
敵はいない──
そう判断し、後方に手招きする。
その合図を確認したのか、ヘルメットが茂みから現れ、中腰で歩き始める。
辺りを伺いながら、森を歩くが小枝を踏むような無作法はしない。
歩きなれている。
木陰にたどり着いた兵士に金髪の兵士が話しかける。
「あの……一つ、よろしいかしら、ヘスター?」
「ヘスター上等兵だ。それでなんだ、シャーロット間抜け?」
この女は悪態をつかなければ会話もできないのか?
シャーロットはそう思ったが、それを口にはしなかった。
「こういうときは、慣れている者が先導するのでしょう?
何故、私が先鋒なのかしら?」
その言葉にヘスターはなんでもないことのように答える。
「敵に見つかっても、アタシは死なない」
完璧で簡潔すぎる返答だった。
彼女たちは伝令任務を命令された。
孤立した部隊に撤退命令を届ける。
単純ではあるが、道中、敵勢力圏を横切る必要があった。
「私達、二人だけでというのも、納得できませんわ」
「命令違反の馬鹿と、少数民族の強者。死んでも、問題ないからだろ」
自己評価が高い。
シャーロットはへスターの言葉に苦い顔をする。
「伏せろ!」
急にヘスターがシャーロットのヘルメットを掴み、地面に押し付ける。
文句を言いたくもなるが、声は出せない。
哨戒部隊に見つかれば、一巻の終わりだ。
泥濘の中に顔から押し付けられる。
何度も同じことをしたせいで、二人共に身体は泥にまみれていた。
冷たい泥に埋もれながら、地面から感じる振動に心臓が高鳴る。
殺される──
確信めいた感情が脳を駆け巡る。
喉がなる。歯がカチカチと音を立てて、止まらない。
コンコンと、ヘルメットを何度か小突かれる。
「大丈夫だ。見てみろ。シャーロット」
へスターの声に顔を上げると、
草むらから飛び出したのは、森の小動物だった。
は~っと、二人はため息をこぼす。
「……驚かせてくれますわ」
「先を急ぐぞ。先鋒は任せた。シャーロット二等兵」
ヘスターの言葉にシャーロットはますます顔をしかめるのだった。
森の中を進むと道が現れた。
分かれ道になっている。看板が立っている。
看板には何か紙が釘で打ち付けられている。
「……敵国語だな」
ヘスターが言うと、
「はい! 私、読めますわ! あれはですね……」
手を上げたシャーロットのヘルメットをヘスターが抑える。
「読まなくて良い。この間抜け」
敵国語の張り紙がしてある。
それだけで、ここが敵の勢力圏であるとわかった。
ヘスターはマップケースの中から、地図とコンパスを取り出し、
現在地を確認する。
進行具合は悪くはない。
「いい感じですわね。あと、もう少しですわ」
地図を覗き込んだシャーロットの言葉にヘスターは少し驚く。
戦場地図の読み方にはコツがいる。
軍隊生活の長いヘスターの自慢の一つに、地図を読めることがあったが、
この二等兵は難なく同じ事ができるようだ。
なんだろう、少し気に食わない。
ヘスターは黙って地図をしまった。
「急ぎましょう。私たちが急げば、仲間を救う事ができますわ」
そう言って気合を入れるシャーロットを睨みつけた。
その視線に、シャーロットは言葉を飲み込んだ。
「調子に乗るな、間抜け。あれを見てみろ」
ヘスターの指の先には道があった。
泥の道。刻まれるは軍靴と轍。
「輸送用の馬車……でしょうか?」
「……野戦砲かもな。とにかく、そこそこの部隊だな」
その軍靴の先はシャーロットたちの進む方向。
彼女たちの目的地。
二人は顔を見合わせる。
泥の中のつま先は、孤立した友軍部隊に向かっていた。
時間がない──
足早に進む二人だったが、道のど真ん中を進むわけにもいかない。
森の中を警戒しながら、進むしかなかった。
歩みは速くはならない。
音をさせず、辺りをよく見て、物音がすれば隠れるしかない。
「速く……速く……」
いつの頃からか、シャーロットはそのように口ずさむ様になっていた。
敵軍が友軍に迫っている。
『味方を救う、貴族にふさわしい栄誉ある任務ですわ!』
完全にハズレくじを引いたにも関わらず、彼女はそう言った。
意気揚々と、余裕を持って進んでいた顔が焦りに曇る。
「先行しますわ」
そう言って、物陰から出ようとする、シャーロットの襟をヘスターが掴む。
「お前は後からついて来い。アタシが先導する」
「な!? 大丈夫ですわ、私にお任せくださいまし!」
抗議するシャーロットにヘスターが木陰を指差す。
指の先には、王国兵。
木陰で休んでいるように見える。
「あれを何で報告しない?」
シャーロットは額から一筋、汗を掻くと王国兵をよく見る。
彼がその休憩から目を覚ますことはない事がわかった──
「お前に任せたら、アタシまで死ぬ。黙ってついて来い」
ヘスターは有無を言わさず、物陰を出ていった。
鮮やかな進み方だった。警戒は怠らず、最短距離を進んでいる。
「……はい、ヘスター上等兵……」
ヘスターの言葉はシャーロットの聞いた中で最も、
──正しかった。
歩みを進める度に、森は新しい景色を見せた。
王国軍の軍服。事切れた軍馬。破壊された荷車。
目的地は村だと聞いていた。
家が数えるほどしか立っていない、小さな村。
そこに陣地を構築していたと……
泥は踏み固められていた。
歩きやすい。そのはずなのに、歩むのが怖い。
きっと、この森の先には、友軍がいて、
『聞いたか? 撤退だってよ!』
『本当か!? 助かったぜ、お二人さん!』
そんな言葉があるはずなのに、心臓が高鳴る。
脳が、頭の中が、映像を、見たくないものを形作る。
「森を抜けるぞ! 気をつけろ!」
ヘスターの声と共に森が開けた。
村。
友軍。
陣地。
それはどういう意味だったろうか?
何を指す言葉だったろうか?
シャーロットにはわからなかった。
あるのは焦げた木片と泥に埋もれた惨劇の後。
燃えてからかなりの時間が立っているのだろう。
燃えカスは冷たくなっていた。
「誰も生きてないな」
ヘスターは残骸の下にあったものを見ながら言った。
シャーロットは何も言えなかった。
言葉がなかった。
命令書を届ける相手がいなかった。
ヘスターは警戒しながら辺りを捜索する。
その時にシャーロットを見るが、彼女は声をかけなかった。
あと少し、ほんの少し、速く歩ければ、
もっと上手く進めれば、いくつもの仮説が浮かんで消える。
風が吹いた。
森を抜ける心地よい風のはずが、薄気味悪くて仕方がなかった。
シャーロットの軍靴に何かが引っかかる。
彼女はそれを拾い上げた。
家族写真だった。
王国軍軍服を着た夫。めかした妻。
その前で必死に背を伸ばす子供。
名前も知らない兵の物。
あったこともない男の思い出。
釘付けになるシャーロットの肩にヘスターが手をかけた。
こころなしか、優しかった。
「……帰るぞ」
シャーロットは写真を荷物入れにしまうと、代わりに命令書を取り出した。
それを荒れ地に置くと、静かに敬礼をした。
ヘスターもそれに習った。
風が吹いた。
命令書は風に乗り、空高く、どこまでも飛んでいった。
第三話 終わり
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