洋菓子は記憶を呼び覚ます。過ぎ去った時間を今、穏やかな味わいに変えて。

プルースト『失われた時を求めて』は、マドレーヌの香りが記憶を掘り起こし、物語が幕を開けます。
一方、こちらの作品でその役割を担うのは、ケーキのサバランです。
洋菓子を懐かしむうちに話題が広がり、「私」は母親が語る学生時代の思い出から、両親の馴れ初めに今一人の女性(晴香)が関係して、むかし複雑な恋模様が繰り広げられていた事実を知ることになるわけです。
途中、三角関係の恋愛になぞらえて、夏目漱石『こころ』の解釈を巡るやり取りにも発展しつつ、今まさに青春のさなかにある「私」と過ぎし日を振り返る母親の、事物に対するそれぞれの見方が交錯します。
文体は知的でありながら柔らかく、軽やかさと温み、多層的な語り口を感じました。
何かを直線的に捉える純粋さが若さの特権であるように、経験を内部で緩やかに消化し過去へ変えていくことは大人の特権でもあるのかもしれません。
穏やかで滋味深い一作でした。