かつてSFは未来世界のシミュレーションとしての意義を内包していました。しかし時代が進み、これまで夢物語と思われていた科学技術が次々と現実のものとなっています。
そうした中で現代のSFは、すでに遠からず実現するかもしれないテクノロジーを通じて、反射的に「それでは人間とは何か、人生の価値、人間の存在理由は何か」という哲学的文学的な問いを見詰め直す方向へ変化しつつあるそうです。
取り分け注目されているトピックのひとつが「身体性」に関する問題。やがてAIが意識を持ち、あるいは自立した個としての存在を所有するようになった場合でも、なお差異として残される要素のひとつかもしれません(AIがロボットにインストールされることと、生まれながら人間の肉体が意識と溶け合っていることを同列に語れないとするのなら)。
しかし一方ではテクノロジーの発達が、複数人で同一の身体的感覚を共有可能な場合、その身体は――少なくとも意識に伝わる感覚は――最早運動している当人だけのものではないのではないか?
こちらの作品では、特殊なスーツを着用することで、ダンスの感覚を共有できるようになった近未来が描かれています。
「いい舞台の夜は、いつもこうして、客席とステージの境目が少しずつ薄くなっていくのだと莉緒は思っている。呼吸が完全にそろう一瞬だけ、この劇場はひとつの身体になる。客席とステージの境目が薄くなるたびに、共有は優しい名前の暴力なのか、それとも共鳴なのか分からなくなる。(本文より引用)」
いずれテクノロジーが共有という機能を通し、本来各々に固有の感覚までもひとつのそれとして束ねるとしたら、その先の世界における自我や個人とはいったい何なのでしょうか。
深い示唆を含んだ小説でした。