1950年にイギリスの数学者アラン・チューリングは、AIに人間的な会話を模倣させ、それがどれだけ違和感なく自然に感じられるかを試すテストを発案しました。いわゆるチューリングテストと呼ばれる実験ですが、爾来認知科学やSF作品において、「人間と区別がつかない人工知能(及びロボット)が出現した場合、それが何をもたらすか」は長年検討され続けてきた題材のひとつです。
こちらの作品でも同様のテーマを扱っているのですが、それを現代日本が直面している人手不足や排外主義といった社会問題と接続している点に新規性があります。
ヒューボと呼ばれる労働用アンドロイドが普及した近未来、主人公・翠の友人である椿は、夫の浅見穣がすでに亡くなっており、「グリーフケア(喪失緩和ケア)用ヒューボと入れ替わっているのではないか」という疑念を打ち明けます。
そこから翠は、浅見穣が人間なのかヒューボなのか、正体を判定するために彼と面会することになるわけです。
P・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』にも通じるテイストですが、こちらはある種の社会派ミステリー的な要素があり、まさに今書かれるべくして書かれたSF文芸といった趣きが感じられます。
ただし物語を読み進めるうち、タイトルにある砂浜のエピソードからも浮き彫りになるのは、「アンドロイドというテクノロジーの産物より、実は人間そのものや社会を取り巻くシステム側にこそ、繕い切れない不完全さが潜んでいるのではないか」という、歪な問いかもしれません。