価値と平均と執着のトロイメライ
- ★★★ Excellent!!!
人間としての価値を問われたとき、人は何に縋るのか。
この物語で描かれるのは、社会的な評価でも、功績でもない。
極限まで追い詰められたとき、男が最後にしがみつくのは、
「父である自分」「夫である自分」という、極めて個人的な役割だ。
物語の中で流れ出す トロイメライ は、
安らぎの音楽としてではなく、異物として現れる。
それは主人公の記憶ではなく、
「価値があるとされた他者の人生」に属する旋律だからだ。
妻を深く愛した ロベルト・シューマン、
そしてその音楽を誰よりも美しく体現した
クララ・シューマン。
家庭や愛情の象徴とも言えるこの音楽が、
人格を上書きされていく男の内側に流れ込むことで、
物語は単なる制度批判やSF的恐怖から一段深い場所へ踏み込んでいく。
この作品が突きつけるのは、「価値のある人間とは何か」という問いではない。
もっと残酷で、もっと身近な問いだ。
――自分がいなくなっても、世界は回るのか。
――それでも、家族の中での自分は、代替可能なのか。
理屈では否定できない論理と、
感情では決して手放せない執着。
その間で引き裂かれていく語りは、
やがて一人称すら揺らぎ始め、
「俺」と「私」の境界が曖昧になっていく。
価値を測る側の冷静さと、
測られる側の必死さ。
その落差こそが、この物語の最も恐ろしい部分だ。
読者はいつの間にか、主人公を断罪する側にも、
彼に感情移入する側にも立たされている。
これは、特別な誰かの物語ではない。
「平均的」で「よくある人生」を生きてきた人間ほど、
静かに足元を揺さぶられる一編である。