のーらい・のーらいふ

時輪めぐる

のーらい・のーらいふ

俺は噓つきだ。

幼い頃から、嘘ばかりついている。

「マサナオ、お前はどうして嘘つくの? お父さんがプロレスラーだなんて」

正直と書いてマサナオ。亡くなった父親が付けた名だ。

「じぶんを、まもったんだ!」

父親がプロレスラーだと言った時の、いじめっ子の顔ときたら。

母ちゃんは、はぁと溜息を吐く。

「嘘つきは泥棒の始まりって言うのよ」

膝を屈め、小学生の俺と目線を合わせて諭した。

「どうして、うそつくと、どろぼうになるの?」

だって、変じゃないか。嘘と泥棒ってどんな関係なんだ?

「嘘をつくのは悪い事よ。だから、嘘をつくと心が痛むの」

「こころが、いたむって」

悪い事しちゃったなぁ、どうしようかなぁって、自分が辛くなることよ」

母ちゃんは、何故か酷く辛そうな顔をする。

「つらくなる?」

「そう、嫌な気持ちになるの。でね、一つ嘘をつくと、それがばれない様にまた嘘をつく。嘘をつかないと、前の嘘がばれちゃうから仕方ないと思う。終いには、悪い事をしても心が痛まなくなるんだよ」

「どろぼうと、かんけいないじゃん」

「心が痛まなくなると、人の物を盗んでも、平気になるってことじゃないのかな」

「ふーん」幼い俺は、分かったような顔をして見せた。


俺は、嘘をついても心は一ミリも痛まないから、母ちゃんの言っていたことは俺には当て嵌まらない。

上手に嘘をついて、それがばれない様に嘘を重ねて、二十歳の俺の人生は上手いこと回っている。

「ごめん、ちょっと講義のノート貸してもらえる? 家の猫が逃げちゃって、探していたんだわ」

無意識に左手の親指と人差し指を擦り合わせていることに気付く。俺が嘘をつく時の癖だと、母ちゃんが言っていた。

「猫じゃあ、しょうがないね。うちの子逃げた時も大変だったよ」

大学の同級生のノートを借りる。

家で猫を飼ったことはない。本当はスポットバイトの梯子をしていた。塵も積もれば何とやら。貯金はそこそこ貯まってきた。

だが、友人達には「金がない、金がない」と言って置く。すると、たまに羽振りの良い奴がご馳走してくれる。

「ノーライ・ノーライフ」心の中で呟く。


父親は、俺が赤ん坊の時に亡くなった。

不鮮明な写真でしか知らない。

「お前を一人にしない」っていうのが、父親が、母ちゃんにプロポーズした時の台詞だっていうのだから笑える。父親は噓つきじゃないか。幼い俺を抱えた母ちゃんは、ずっと一人で頑張った。

だから、俺は母ちゃんに余分な心配を掛けたくなくて、嘘をついて身を守ったり、その場を切り抜けたりすることを覚えた。



現在、俺は奨学金で、自宅から地元の国立大学に通っているが、生活費を稼ぐため、ファミレスでもバイトをしている。

大通りに面した大きな窓にはサンタクロースとトナカイのシールが貼られ、外の植え込みには電飾が点滅する。

「宇津木、大変だったな」

店長が神妙な顔で俺の肩に手を置いた。

「忙しい時期に、ご迷惑お掛けしました」

祖父が亡くなったと嘘をついて、忌引き休暇とささやかな慶弔金をゲットしたのは、三日前のこと。誰でも、お祖父さんの一人くらいは居るのだから、バチは当たらないのではないか。母ちゃんに何か買ってやりたかった。

立ち去る店長の背中に一礼をして顔を上げると、バックヤードに戻ったはずの店長が血相を変えて、こちらに向かって来るのが見えた。

せわしない靴音が近付く。

バレた?

「直ぐ帰れ!」

「えっ」

「お母さんが倒れて救急搬送されたそうだ」

店長は、病院名と電話番号が書かれたメモを俺に手渡した。

頭が真っ白になった。体が心臓になったように拍動し、耳がじんじんした。

母ちゃんが倒れた? 嘘だろう。

母ちゃんは、まだ五十代。

俺はまだ、母ちゃんに親孝行してないんだ。

死んだりしないよな。



雪風の街をどうやって移動したのかよく覚えていないが、俺はメモの病院に辿り着いた。

病院の受付で名を告げると、母親は緊急手術中だと言われた。脳梗塞だという。勤め先のスーパーで倒れたのだ。

手術室近くのベンチに座って両手を握りしめる。店長に嘘をついたけれど、俺は祖父母も親戚も、実は誰も知らない。会ったことも、母親から話を聞いた事もない。子供の頃、何度か訊こうと思ったが、母ちゃんが話したがらなかった。だから、俺にとっての血縁は母ちゃんだけだ。

神様、仏様、あと、誰でもいい。俺は嘘つきでどうしようもない奴だけど、母ちゃんは真面目に生きて来たのだから、どうか、助けて下さい。

熱の無いⅬEDの光に照らされた廊下で、俺は両目をぎゅっと瞑った。

どうか、どうか。

どの位時間が経っただろう。手術中のランプが消えた。扉が開き、ストレッチャーに乗せられた母ちゃんが出て来た。集中治療室に向かうという。一瞬見た母ちゃんの顔は真っ白だった。


医師から説明を受け、入院手続き等を済ませた俺は一旦自宅に戻った。途中で買った弁当を食べた後、入院に必要な物を揃えようと、

タンスの引き出しを開ける。

自分の物、俺の物を引き出し毎に分け、名前が貼ってある。引き出しの中は、几帳面な母ちゃんらしく整然としていた。だから、俺は容易に母ちゃんの荷物を揃えることが出来た。洗面所の棚もタオルが同様に整頓されていた。

冷蔵庫内には、作り置きのおかずのタッパーが並んでいる。流しに皿や茶わんが溜まっているのは見たことがない。

見回せば、2DKのアパートはきちんと片付いていて、張り詰めた緊張感を保っている。

「人間、いつ何があるか分からないんだよ。その時、散らかしっぱなしだと困るのよ」

母ちゃんは、何か不測の事態を想定していたのだろうか。


手術は成功したと医師は言ったが、予断は許さない状況だとも言った。もし、母ちゃんが、このまま――いや、こんな事を考えるのはよそう。絶対、大丈夫だ。亡くなった父親に、「母ちゃんを守ってくれ」とお願いする。だって、ずっと一人で頑張って来たんだ。そんな事あって、たまるもんか。

どうしても考えてしまう自分を宥めて、俺は明け方近く、浅い眠りに就いた。



一週間ほどして、母ちゃんの容態が安定し、一般病室に移されたので、俺は会いに行った。

医師の説明によると、大脳の左側が損傷したので、失語や構音障害、同時に身体の右側に麻痺が生じる可能性があるという。どの位残るかは、リハビリをしながら三か月程様子を見ないと分からないらしい。

「母ちゃん、気分はどう?」

弱弱しい微笑みを浮かべた顔はやつれているが、生きている。本当に良かった。俺は母ちゃんの動かない右手を両手でそっと握った。

「息子さん、追加で必要な物が有りますから、また持って来て頂けますか。おむつやパッド類は院内の売店でも扱っています」

看護師に渡されたプリントには、紙おむつ、カーディガン等羽織るもの、洗面用具、生理用品、履物(室内履き)、コップ、箸やスプーン等に〇が付けられていた。

紙おむつは売店で買うとして、他の物は家にあるかもしれない。


俺は帰宅すると、押し入れを探した。普段使わない物などが仕舞ってあるはずだ。

「何だ、これ」

押し入れの一番奥に仕舞われた、小さな旅行鞄の底にそれはあった。母ちゃんは、洗面用具や小分けした常備薬などを、いつも旅行鞄に入れていた。しかし、そこにあったのは、封筒に入った古びた大学ノート。旅行とはおよそ関係ない物だ。母ちゃんの学生時代の物なのだろうか。相当年季が入って変色している。湿気の臭いがするノートを開くと、何かがハラリと畳に落ちる。いびつな形の古い新聞の切り抜きだった。

拾い上げて見ると、日付は二十年前の四月八日。俺の生まれた一週間後の日付だった。

『都内の○×病院新生児室から、赤ちゃんが行方不明。赤ちゃんは今月一日に生まれた男の赤ちゃんで、看護師が目を離した隙に居なくなったという。警察は連れ去りと見て、防犯カメラの映像を解析中だが、当日は緊急手術が立て込んで人の出入りも多く、捜査は難航しそうだと捜査関係者は話す』

何でこんな切り抜きを大事にしまってあるんだ。

ん? 待てよ。この○×病院って、俺が生まれた所じゃないか。

母ちゃんが言っていたような。四月一日生まれの男の赤ちゃん。俺の誕生日は、四月一日だ。エイプリルフールに生まれたから嘘つきなんだって、小学校の時、クラスの奴に揶揄われた。

封筒に一緒に入っていた母子手帳に出産予定日は四月一日と書いてある。俺だよな。俺と同じ日に生まれた子の記事だから、取ってあるのか。しかし、母子手帳の次のページで目が留まった。

【死産】と書いてある。

死産って。母ちゃんの子は死んだってこと? じゃあ、俺は。

そうだ、血液型だ。学校で習ったじゃないか。俺はO型。母ちゃんはB型。父親の欄を見ると、AB型……。何度見直しても、AB型と書いてある。O型は有り得ない血液型だ。

俺は、いったい誰なんだ。母ちゃんは、俺の母親なのか。芽生えた疑念と不安は、胸の中で暗く重く、どんどん嵩を増していく。

いや、今は病院に居る母ちゃんのことだけ考えろ。自分に言い聞かせて、眠ろうとしたが、グルグル考えてしまって眠ることは出来なかった。どうしたらいいんだ。


翌日、病院に荷物を届けた後、さんざん悩んだ末に、母子手帳に記された病院に電話を掛けた。事件の事をもう少し詳しく知りたい。

しかし、出産記録(助産録)の保管義務期間は五年だと言われた。二十年は、さすがに時間が経ち過ぎていた。

どうしようかと考え、次に、新聞社に電話をした。当時、記事を書いた記者は現在、在籍していなかったが、その記者が、この事件に関して問い合わせがあったら連絡を欲しい旨、言い残してあったようだ。連絡先を教えて貰ったのは、現在フリーの記者だった。話を訊けるかもしれない。

真実を知りたい。俺は誰なんだ。母ちゃんの息子じゃないのか。あの新聞記事と何か関係があるのだろうか。自分のアイデンティティが揺らいでいる。こんな気持ちのまま暮らすことはできない。

誰かに相談したいけれど、日頃、嘘つきの俺が相談したところで、真に受けてくれる友人など思い当たらない。よくよく考えてみれば、頼れる人がいないことに気が付いた。


約束の日、カフェで落ち合った佐藤と名乗る元新聞記者は、二十年経った今も、赤ちゃん連れ去り事件を独自に追い続けているのだと言った。母ちゃんと同じ位か、少し若いだろうか。

「赤ちゃんの両親と知り合いなんだよ。父親がさ、僕の友人なんだ。正直、君を見て驚いた。アイツに似ているなって」

佐藤は、黒縁眼鏡のレンズの奥から、俺の顔をまじまじと見詰めた。

「ところで、どうしてこの事件の事を問い合わせたの?」

俺は、新聞記事の切り抜きと、母子手帳の記載について話した。

「で、お母さんは何と言っている?」

「それが、脳梗塞で倒れて入院していて、訊けていません」

「そうか。まだ、何とも言えないね。事件に関係有るのか、無いのか」

佐藤はコーヒーにミルクを入れ、スプーンで掻き回した。店内のざわめきの中で、スプーンがカップに当たる音が妙にクリアだった。

確かに、よく考えれば、無関係の可能性もある。

「……申し訳ありません。切り抜きと母子手帳を見て不安になって、思わずご連絡してしまいました」

佐藤は、スプーンを受け皿に置き、大きく息を吐いた。

「まぁ、兎に角、DNA鑑定とか客観的な証拠を集めると良いね。僕は友人夫妻と話をしてみるよ。また連絡する」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

佐藤はコーヒーを飲み干し、席を立った。


佐藤と別れた後、母ちゃんに会いに行った。

「リハビリは、やっている?」

自分の声が何だか空々しく聞こえる。

母ちゃんは黙ってゆっくりと頷いた。

「無理しないようにね」

この心配は嘘なのだろうか。自分でも分からない。

母ちゃんは、血の繋がりのない俺を、女手一つで育ててくれた。俺は誰なのだろう。母ちゃんは何故、あの記事を保管してあったのだろう。俺に関係あるのだろうか。

訊ねたい事ばかりだが、訊ける状況ではないのは明らかだ。

あれ程「嘘つきは、泥棒の始まり」と言っていた母ちゃんが、赤ちゃん連れ去り事件と関係あるかもしれない? そんな馬鹿な。有り得ない。

こんな気持ちで母ちゃんと一緒に居られない。

「ごめん、母ちゃん。また来るわ。ちょっと体調が悪いんだ」

これは、嘘。悪いのは体調ではなく、心の調子だ。気持ちの整理が出来ない。



数日後、佐藤から連絡があった。先方がDNA鑑定を望んでいるという。取り敢えず私的鑑定をしたいらしい。

もしも、俺が実の子だと判明したら、先方はどうするのだろう。家族として迎い入れてくれるのだろうか。

だけど、俺がその家族に迎い入れられたら、母ちゃんは独りぼっちになってしまう。言葉が話せず半身麻痺だというのに。どうやって生きて行くのだろう。

検査キットを渡された。検体を自分で採取して、後日、返却して欲しいとのことだった。

もし、これで確固たる証拠が出てしまったら、俺と母ちゃんはどうなってしまうのか。


夜、バイトから帰宅した俺は、途中で買った弁当と、通学リュックから取り出した検査キットを、食卓に置いた。検査キットは説明書と透明な円筒形のケースに入った綿棒で、口内を拭って提出するそうだ。まるで危険物のように、用心深く見詰める。手を伸ばしたら、俺と母ちゃんの二十年が消えてしまいそうで怖かった。


コンビニ弁当を温める。母ちゃんの作る飯が食べたい。母ちゃんの飯は美味しくて、中でも俺が好きなのは、肉じゃがと卵粥だ。

俺は幼い頃よく熱を出した。

母ちゃんは仕事で疲れているのに、一晩中、側に居て手を握って優しく励ましてくれた。

そんな時に母ちゃんが作ってくれる卵粥が好きだった。ひと匙ずつ、ふうふうと冷まして口に運んでくれた。いつも仕事で居ない母ちゃんが、ずっと俺に構ってくれるのが嬉しかった。

食器棚には、その頃に使っていたキャラクターのついた子供茶碗が見える。「捨てないのか」と訊いた時、「可愛くて、捨てられないのだ」と母ちゃんは笑った。

そういえば、母ちゃんは俺に関する物を全部取ってある。幼稚園で作った工作から、小学生の時に描いた絵や作文。全部写真に撮って保存している。笑ってしまう程、俺推しなんだ。


食後、母ちゃんとの時を刻んで来た部屋を、一つ一つ確かめるようにゆっくり巡った。

毎年、誕生日に身長を測った壁の印。貼ってある小さなシールを指で確かめるように触る。俺はこんなに小さかったんだな。

「こら、背伸びしないの」

母ちゃんが、笑いながら注意するところまでがセットだった。

目を遣ると、開け放たれた扉から洗面所が見える。ドレッサーが無くて、母ちゃんは洗面所で顔を整える。洗面台の鏡裏の収納を開けると、基礎化粧品と最低限のメイク用化粧品が入っていて、母ちゃんの匂いがした。何だか懐かしい。

自分の物は殆ど買わずに、俺の服や学用品を買って、母ちゃんは、いつも、同じ服を着ていたな。

女手一つで、学用品だって馬鹿にならなかったろう。小学校に上がると、計数器のセットや鍵盤ハーモニカ、リコーダー、体操着。揃えるのが大変だったと思う。そうそう、計数器セットの小さなパーツに、夜なべで一つ一つ名前を書いてくれたっけ。計数器セットは処分したけれど、一つだけ取ってある。

キッチンの椅子に置いた通学リュックからお守り袋を取り出し、中に入れてある花の形のおはじきを掌に載せた。几帳面な字で『まさなお』と書いてある。母ちゃんの温もりが感じられる気がして、ギュッと握り締めた。

母ちゃん、ありがとう。

胸がじんわり熱くなり、泣きたくなる。ずっと俺ファーストで生きて来た母ちゃん。優しいだけではなく、俺にとって唯一の存在だと思える出来事があった。


小学六年生の時のことだ。苗字の宇津木の宇と津の間に『そ』を入れて『うそつき』といじめられた。名前の正直と合わせて、囃し立てられる。

「うそつき、しょうじき、どっちなんだぁ」

終いには担任まで一緒になって、わざと言い間違いをしたりした。その挙句に、クラスの子の通学バッグを隠したと、皆の前で糾弾した。俺は嘘つきだけど、そんな事はしない。

誰も信じてくれなかった。

泣きながら家に帰って、母ちゃんに話すと、母ちゃんは、学校に電話してくれた。

すると、どういう訳か、担任と学年主任が揃って出向いて来て謝った。

「実は、隠されたと言っていた子の、自作自演だったことが分かりまして……」

「ふざけないでください。よく調べもせずに、皆の前でマサナオを疑い、叱ったりして」

いつも声を荒げたりしない母ちゃんが、真剣に怒っていた。

「大変申し訳ございませんでした」

大の男が二人、頭を下げる。

「今後は、このような事が無いように気を付けて頂きたいです」

二人の教師は「すまなかったな。明日から、また元気に学校に来てね」と作り笑いをして帰った。

「かあちゃん、ありがとう。おれを、しんじてくれて」

「当たり前だよ。親が信じてあげなくて、誰が信じるのさ。あんたは、嘘つきだけど、人が嫌がるような事や、傷付けるような事はしない」

母ちゃんは、ちゃんと俺を見ていてくれた。信じて庇ってくれた。俺は嬉しくて母ちゃんに抱き付いて泣いた。俺の味方は、母ちゃんだけだ。俺を信じてくれるのは、母ちゃんだけだ。この母ちゃんで俺は幸せだと思った。


義務教育を終えると、定時制高校をバイトしながら四年かけて卒業した。

今は地元大学の大学生だ。大卒になったら、少しは良い給料で雇ってもらえて、母ちゃんに楽をさせてあげられるだろう。そう考えていた。

ふと、食卓の端の大学ノートが目に入る。

先日、新聞記事や母子手帳と一緒に旅行鞄から取り出して、そのままになっていた。

あの時は、新聞記事と母子手帳に気を取られて中を見なかったが、あのノートは何なのだろう。開くと中身は、育児日記だった。


【四月八日 この子を、大切に育てて行く】


【四月九日 出生届を提出。名前は正直と書いてマサナオ。良い子に育って欲しい】


その後は、授乳や、オムツ替えのこと。首が座ったとか、寝返りを打ったとか。離乳食が始まった記述の後、しばらく日が空いて、父親の葬儀の内容になった。


【十二月二十日 四十九日に夫の納骨をした。これから、マサナオと二人で生きて行く】


白紙がしばらく続いた。もう、終わりかと、パラパラとページを捲ると、日付が無い文章があった。


【差し出した私の指を、あの子が小さな掌でギュッと握った時、愛しさが涙になって溢れた。育てたいと心底思ってしまった。命よりも大切なマサナオ。私の息子。どうか、親子でいられる日々が長くありますように】


俺は、大学ノートをそっと閉じた。涙が零れた。

積み重ねて来た年月。たとえ、血の繋がりは無くても、始まりが正しくない可能性があったとしても、俺と母ちゃんは紛うことなく親子だった。

俺と母ちゃんの二十年は、こんな検査キットで変わらない。変わらないんだ。

俺は、大きく一つ息を吐いた。

時刻は、とっくに日を跨いでいた。



後日、俺は検体を採取して佐藤に渡した。

「良い結果が出るといいのですが」

俺は左手の親指と人差し指を擦り合わせる。

鑑定結果が出るまで十日ほどだと言われた。どんな気持ちで十日を待つのだろう。

病院に行ったら、母ちゃんは眠っていた。ベッド横の椅子に座り、じっと顔を見る。

母ちゃん、年を取ったな。

髪に交じる白髪は多くなり、消えない皴のある目尻。幼い頃から、周囲の人に「似ていない」と言われるのを寂しく思っていた。他人同士なら当たり前なのだけどな。


十日後、佐藤から電話があった。

「DNA鑑定の結果が出たよ」

佐藤は言い淀んでから続けた。

「……全くの他人ということだった」

「じゃあ」

自分の声が白々しい。

「赤ちゃん連れ去り事件は、君とは無関係ということだ。君が事件解決の糸口だと思ったのだがな……振出しに戻っちまった」

佐藤は沈黙した。

スマホ越しの浅い呼吸音だけが、彼の無念さを伝えていた。

「……お世話になりました。佐藤さんには感謝しかありません」

「君の出自は謎のままだが、これは君の家庭の問題だ。これからどうするんだ?」

「……短期間に色々な事が起こって、自分の中で整理が付きません。もう少し考えてみます」

「そうか。君の人生なんだからよく考えると良いよ。自分を大切にな。何か出来る事があったら、連絡して」

じゃあ、と佐藤は電話を切った。

全くの他人で当然だ。あの検体は大学の友人の物だからな。俺は、母ちゃんと離れたくなかったんだ。



いつの間にか新しい年になり、店内は振袖姿の女性や、家族連れなどで賑わっている。

知らなかった過去には戻れない。バイト先のメニューをトントンと揃えながら、考えていると、肩を叩かれた。振り返ると、店長だった。

「どうした、ぼんやりして。お母さんは、その後、どうなの?」

「ご心配ありがとうございます。言語と右半身に麻痺が残ってしまって。現在リハビリを頑張っています」

「そうか。後遺症は、段々良くなることもあるらしいから、気長にな。お母さん、お大事に」

片手を上げながら、バックヤードへ向かう後姿を見送る。

事実を知ろうが知るまいが、母ちゃんは、ずっと母ちゃんだ。大切な母親であることに変わりはない。今更、事実を明らかにしても、俺を含め、関係者が幸せになれるかは分からない。だが、母ちゃんが辛い思いをする事だけは確かだった。母ちゃんが辛い思いをするのは絶対嫌だ。ならば、知らなかったことにすればいい。俺は、もう選んだ。

母ちゃんが俺にずっと嘘をつき続けたように、俺もずっと母ちゃんに嘘をつき続け、今まで通り、親子でいよう。

母ちゃんが、俺を一生懸命育ててくれたように、俺は母ちゃんの世話をして行こうと思う。

俺にとって、母ちゃんは一人だけなのだ。


母ちゃんは、歩行練習や、右手機能と言語機能のリハビリを進めていた。

『洗面用具は何処にあった?』

慣れない左手を使い、タブレットで筆談する。

俺が持って来た洗面用具が、あの旅行鞄に入れていた物ではないかと心配しているようだ。俺は、ポケットに両手を突っ込んだまま首を振る。

「下の売店で揃えたよ。何処にあるのか分からなかったから」

『そう』

母ちゃんは、ホッとしたような顔をした。

「早く退院できると良いね」

動かない右手を、俺は優しく擦る。


大学に休学届を出し、俺はバイトを増やした。働けなくなった母ちゃんを支えて行く為だ。

俺の名は宇津木正直。根っからの嘘つきだ。

「のーらい・のーらいふ」心の中で呟く。


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