42キロはキツすぎる

天野 純一

第1話 42キロはキツすぎる

 九月二八日、土曜日。


 かもしゅうへいは津市民マラソンのスタート地点にいた。隣ではあまがわがアキレス腱を伸ばす準備運動をしている。彼女は海上保安庁で一緒に働く、頭の切れる同僚だ。


 一応立場としては鴨尾が首席航海士で天ノ川が主任航海士なので、鴨尾が上司の立場である。とはいえ、彼は面倒な軋轢などが嫌いな性分。気軽に接してもらえるよう心掛けていた。


 数少ない休暇を潰してこの場にやってきたのは、三ヶ月前に天ノ川の方から誘われたからだ。


 休みの日も欠かさず体力作りを。


 そんな彼女の意思を尊重し、参加することにしたのだ。


 津市民マラソンは男女混合のフルマラソン。走る距離は42.195キロ。『市民』と付いているが県外からもエントリー可能。


 年齢制限は高校生以上。日本国内では結構珍しいスタイルだ。たいていのマラソン大会は18歳以上で高校生以下は不可だから。


 そういう理由からか、高校生の陸上部っぽい子たちが多く見受けられる。ゼッケンを付けた若者が笑顔で励まし合っているスタート地点は、活気に満ち溢れていた。


 そんな中、近くの女の子が目に止まった。ラフなトレーナーにアシックスのスニーカー。トレーナーの腕には三重県立こうめい高校の校章。背丈はそれほど高くないが、肉付きはいい。


 彼女の前には一世代上の女性――たぶん母親――がいる。母親らしき女性はマラソンには参加しないらしく、三角コーンの間に結ばれたテープの向こう側に立っていた。


 女の子が女性に大声で突っかかるのが耳に入った。


「42キロはキツすぎるって!ここ一ヶ月どんだけ頑張ったと思ってんの!」


 隣で天ノ川の瞳がキラリと光ったのが視界に入った。気になって彼女に目をやると、何やら10秒ほど考える顔を見せた。


 それから鴨尾の肩に手を置く。


「鴨尾さんは今の女の子の発言、聞いていましたか?」


「42キロがどうたらってやつか?」


「そうです。正確には『42キロはキツすぎるって。ここ一ヶ月どんだけ頑張ったと思ってんの』です」


 こちらの声が女の子に聞かれたらややこしいと踏んだようで、天ノ川は声のボリュームを下げた。


「彼女の発言には一見すると矛盾が生じていますが、ある仮定を外せばたちまち瓦解します」


「……ちょっと何を言ってるか分からんな。そもそも矛盾というのは何だ。一ヶ月間何かを頑張ってきたのに今から42キロのフルマラソンかい、と嘆いているだけだろう」


「それでは、彼女は何を頑張ってきたのでしょうか」


 鴨尾は言葉に詰まった。


 走り込みなどではない。それなら津市民マラソンは嘆くものではなくむしろ晴れ舞台のはず。


 一ヶ月間マラソン大会に出すぎてもうこりごりだ、というわけでもない。彼女が興明高校の腕章を付けていた以上、高校生であることは確か。高校生が出られるマラソン大会は少ない。


 すでに興明を卒業したOBと考えることも可能だが、それなら高校生のごった返すこんな場所で腕章が見えるようにはしないだろう。もし興明高校の生徒だと思われたら、出場登録の確認などで面倒に巻き込まれる可能性が高いから。


 とすれば……彼女は何を頑張ってきたのか?


 ひとつ思いつくことがあった。


「罰ゲームってのはどうだ。今日は九月二八日。女の子は一ヶ月前に罰ゲームに負けて、九月中は相手の言うことを聞くことになった。一ヶ月間ずっと頑張って言うことを聞いてきたのに、最後ダメ押しでフルマラソンかよと嘆き、慈悲を訴えている」


 天ノ川が興味深そうに聞き入っている。が、鴨尾は言いながら不自然さに気づく。


「……それではおかしいな。女の子がタメ口で話していることから相手の女性は母親か近い親戚だと思われる。同年代の友達か百歩譲って姉妹とかならまだしも、大きく年齢差のある二人で罰ゲームをするのは不自然だ。しかも罰ゲームならフルマラソンは鬼畜すぎる」


「その通りですね」


 天ノ川がうなずいた。鴨尾は行き詰まった。


 考え込んでいると、天ノ川が人差し指を立てて助け船を出してくれた。


「罰ゲームなどでないとすると、女の子が競技に乗り気で家を出たのは間違いないと思いますよ」


「なぜだ? 発言からして嫌がっていることは明らかだろう?」


「いえ。ですからね」


 そうか。言われてみれば当然だ。となればどうなる?


 競技には乗り気なのに、42キロ走るのは嫌。そういう状況。


「一言目について考えてみる。彼女がマラソンをする気がなく、他のスポーツをするつもりでトレーナーを着てきたのだとすれば、あの発言をこのスタート地点に来てからするのは今更すぎる。ここに来るまでの前段階で気づくだろう」


「そうでしょうね」


「とすれば、彼女はマラソンをするつもりでここまでやってきたのは間違いない。そして『42キロはキツすぎる』と言っている。これは『42キロ』でなければキツくないという意味に取れる。すなわち……が、たった今フルマラソンだと聞かされて言い返している、と解釈できる」


「ご名答、です」


 天ノ川が目を細めて小さく拍手した。


 鴨尾はホッとしたのもつかの間、重大な矛盾に気づく。


「いやおかしい。クォーターマラソンやハーフマラソンと思い込んでいたなら、フルマラソンを走りたくない理由は距離が長すぎるからということになる。しかし、発言の二言目からして42キロ走りたくない理由は一ヶ月間何かを頑張ったからであるのは間違いない。矛盾している」


「それが私の言った『一見すると矛盾』の正体です。お見事です」


 天ノ川に褒められて素直に嬉しいは嬉しいのだが、それは『一見』とは言わんだろう。相当考えたぞ、俺は。


「すまん、俺は頭を使うのは苦手なんだ。女の子が何を意図して言ったかなんて分からん。お前はここまでを10秒で考えたわけか?」


 女の子があの発言をした直後、天ノ川が考え込んだのはほんの10秒程度だった。


「正確に言うと、ここまでの矛盾を導くまでに7秒、結論までに3秒、といったところでしょう。ある仮定を読み替えるだけですからあとちょっとですよ」


「そう言われてもな……」


「最初の最初に立ち返ってください。日本語の解釈の問題です」


「日本語の解釈……日本語の解釈……解釈? ……あっ」


「お気づきになったようですね」


 鴨尾は思わず頬が緩んだ。そういうことだったか。至った結論を口にしようとしたが、なんとも野暮なことに思われた。


 そのとき、女の子の大声が再び届いた。


「やーかーらー、42キロは無理やって!一ヶ月本気で頑張っても45キロまでしか痩せんかったんやから!」


 天ノ川と顔を見合わせ、破顔する。どうやら同じ結論だったようだ。


「まもなくスタートとなりまーす。皆様ご準備くださーい」


 メガホンに口をつけた係員の声が響きわたった。彼はピストルを握っている。


 ゼッケンを背負うみんなの表情が引き締まる。体力作りの一貫として参加した海上保安官。学校の期待を一身に背負う陸上部員たち。ただひたすらに走り続けることを趣味として嗜む大人たち。 


「いちについて、よーい!」


 全員の心がひとつになって。


 パーン!


 空砲が鳴り響くとともに、一斉にスタートする。


 鴨尾はスタートダッシュをかけたが、隣には常に天ノ川がついてきていた。鴨尾は高校男子陸上2000mの県大会に出たことがあるのだが……なかなかやるな、と思う。


 同時に、天ノ川もよく話してくれるようになったな、とも思う。初めは無口で愛想がないなという印象だったのだが、“あの大事件”を皮切りにガラリと変わった。きっと彼女なりに思うところがあったのだろう。


 いつのまにか見入ってしまっていたらしい。視線に気づいた天ノ川がこちらを向き、白い歯を見せた。


「絶対負けませんから」


 鴨尾も笑って答える。


「頭でも体でも負けたら俺の取り柄がなくなるだろ」


(了)

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