焦がれる焔編
熱く、滾って、焦がれる(1)
六月の終わりに差し掛かった昼下がり。
本格的な暑さ到来を前にして、とっくに衣替えを済ませた人々を横目に、
世間の移り変わりは驚くほど早くて、昨日まではまだチラホラと見かけたはずの長袖姿も、今ではほとんど見られない。
こうしてまだ丈の長い服を着ていると、自分や同じような人たちだけが、世界に置いていかれたような気がしてくる。
――もっとも彼に限って、それは今に始まったことではないのだが。
「どうしたもんかな……」
独り言を零しながら、小さな路地に入り込む。
建物の壁に囲まれた狭い道は、日の光と街の喧騒のことごとくを拒絶している。
耳に届くのは無数の室外機の稼働音と、アスファルトを蹴る自分の足音だけ。時折向かい側から人がやって来るものの、彼らの発する音もまた、人工的な静寂に呑まれていた。
黙々と歩みを進めつつ、ぐるぐると思考を回す。
彼を悩ませているのは、半ば無理やり引き受けさせられた一つの調査依頼である。
とはいえ、調査を進める手立てに関して躓いている、というわけではない。
《《どうやって手を抜こうか》。彼の頭には最初から、その考えしか存在していなかった。
そもそもこの依頼は、最初から断るつもりでいた。
だというのに――。
「まーた理由つけてサボるつもりじゃないでしょうね! いいですか、この調査が終わるまで、事務所の玄関は通らせてあげませんからね!!」
最近打ちに入ったばかりの新人、八雲ユズリハの激しい剣幕が脳裏に浮かび、カノンはやや顔をしかめた。
近ごろの彼女は、いつにも増して仕事に精を出すようになっていた。そのしわ寄せがとうとうこちらにも来てしまった。
あまりにも手を抜こうとするものだから、カノンは家から追い出されてしまった。
確かにあの姿勢は、仕事をする上では間違ってはいない。けれども、そこまでやる気になれない人がいるということも、そろそろ学んでほしいものだ。
ぴしゃりと戸を閉じられてしまってから、彼はすっかり気が滅入ってしまった。
だとすれば、行くところは一つしかない。
さながら、家出しているような気分。
とはいえ、別に家に対して何かしら思い入れはない。あれは単なる衣食住を送る場所でしかなく。自分用に割り振られた部屋ですら、安心というには心もとない空間である。
こうなってしまって以来、どこにいたって安心とはかけ離れてしまったのだ。
何度か角を曲がり、路地裏を歩き続けること数分。視界の先に、小さな喫茶店が姿を現した。
ほっと安堵を覚えながら、寒々しいコンクリートの隙間を抜ける。
視界が大きく広がり、照り付ける日差しに思わず目が眩んだその瞬間――突然隅から飛び込んできた人影と、激しく衝突した。
「きゃっ……!」
鈍い衝撃の後、悲鳴にも似た女性の叫び声が耳に届く。
声の主は大きく体勢を崩すと、勢いよくアスファルトの上にへたり込んだ。
カノンはわずかによろめいただけで、膝をつくこともなく体勢を整えると、
「おっと……だいじょぶですか?」
痛みに顔をしかめる女性に手を差し伸べる。
「いてて……や~、ほんとすみません……よっ、と」
女性は沈み切った声色でそう言うと、差し伸べられた手を掴んでゆっくりと体を起こす。
綺麗な黒髪だ、と最初に思った。
肩にかからない程度の髪はまるで絹糸のようで、風に吹かれるたびに滑らかに揺れる。顔つきはやや幼く、細く弱々しい輪郭をしている。それでいてパッチリとした大きな瞳と、長く艶やかな睫毛が印象的だった。
反して、青を基調としたカーディガンとロングスカートという服装に、なんとなく大人びた雰囲気を感じた。
「誰にだってそういうことはありますから。それじゃ、僕はこれで――」
軽くお辞儀をして、カノンは何事もなかったかのように歩き出す。
お目当ては目前――といったところで、唐突に彼の足が止まった。
見れば、先ほどの女性が腕を掴んでいたのだ。
無理矢理解くのも悪い気がして、とりあえず用件を聞いてみようとカノンが何か言うよりも先に、女性が口を開いた。
「あの……よかったら、お詫びをさせてください!」
突然の申し出に、カノンは思わず眉をひそめた。
もらえるものなら面倒ごと以外はもらうようにしているものの、これは間違いなく面倒ごとの類であると、彼の直感がそう言っている。
申し訳ないけど、遠慮しておく――喉から出かけたはずのその言葉は、しかし女性が指さしているものを目にした途端、奥へと沈みこんでいった。
彼女の指が指し示すものは、これから彼が向かおうとしていた喫茶店。
しばしの逡巡を経て――カノンは小さくため息をついた。
不本意だ。そう、不本意ではあるのだけど、仕方なく、本当に仕方なく――彼は渋々、承諾するように頷いた。
純喫茶あかゆりは、名ばかりのカジュアルな喫茶店だった。
よくイメージされるようなアンティークかつ古風な雰囲気は微塵もなく、どちらかと言えばチェーン店のそれに近い。
ただしカウンターと座席だけはこだわりがあるようで、年季の入った木製カウンターと、西洋風の座席が逆に浮ついているようにすら見えた。
壁を穿つ四角い窓から日差しが差し込む間、店内のライトはすべて消灯している。この時期だと夕方ですら明るいのだから、余計な照明はかえって電気代を無駄にしているだけなのだろう。
入店するなり、カノンは真っすぐに店の奥へ向かった。
途中に設置されたいくつかの席を見送って、一番奥――窓際とは反対側の四人用の席に腰を下ろす。彼にとっては、ここがいつもの場所だった。
彼がソファタイプの座席に腰掛けると、女性は何故か対面の椅子に、ではなく、彼の右を陣取るように席に着いた。
不可解に思いつつも、カノンはそれを顔にも口にも出さずに、卓上に置かれたメニュー表に視線を落とす。
「ね、キミさ、もしかして、ここの常連さんだったりするの?」
「人よりは来てると思いますけど。……あ、でも、だからってメニューに詳しいわけじゃないですよ。いつも決まったものしか頼まないし」
不意に声をかけてきた女性に、目線を向けることなく淡々と答える。
大方、店に入ってすぐ、店主に声をかけられたことを気にしているのだろう。
今日は彼女さんと一緒かい、なんて発言は、確かにまあまあの間柄でなければ許されない言動だと言える。
「へえ、そうなんだ? ちなみに、キミのおすすめは? いつもは何頼んでるの?」
女性はずい、とカノンの方に身を寄せると、腕をぴたりと密着させながらメニュー表を覗き込んだ。
カノンは困惑をあらわにしながらも、反射的に体を反対側へと傾けつつ、メニュー表の中からレモンティーとミルクレープ。それから、フルーツタルトの三品を指さした。
「あはは、甘いのばっかりだ。甘いの、そんなに好きなんだ?」
「それを食べに来てますから。そういう……ええと、あなたはどうなんですか?」
「私? 私も甘いの大好き! なんなら自分で作ったりもするかな~」
女性は頬を緩め、楽しげに言いながら、
「そうだ、私、ミオ。キミは? 何ていうの?」
頬杖をつくと、彼とじっと視線を合わせながら訊ねた。
「カノン。白浪カノン」
「そっかそっか、カノンくん。カノンくんか~……」
彼女はまるで嚙みしめるように――その名を脳に深く刻み付けるかのように繰り返し唱えると、
「いい名前だね。忘れようとしても、絶対忘れられないくらい――」
意味ありげに呟いてから、にこりと熱のこもった笑みを浮かべた。
「……人の記憶なんてものは適当だろ。もし仮に明日も出会うことができたとして、きみはすっかり僕のことなんか忘れてるかもしれないんだぜ」
素っ気ない返事に、ミオがムッとした表情に変化する。
「なんだい、不満があるなら聞くよ。ただし、注文が終わった後でね」
あしらうようにそう言って、カノンは卓上の呼出ボタンを押した。
電子音が店内に響いて、遠くから店員が反応する声が聞こえる。
待っている間、ふとミオの顔を確かめてみると、彼女は何か言いたげな風に口を尖らせたまま、しかし何を言うでもなく口を閉ざしている。
それが大人しく注文の完了を待っているのだと気づいたカノンは、思わずくすっと笑みをこぼした。
「あ! 今笑ったな~?」
「いやいや、気のせい気のせい。きみの見間違いだって」
取り繕うカノンを、ミオはむむ、と唸りながら訝しげに見つめる。
彼はそんな視線に、なんでもないと言わんばかりに首を横に振り続けていた。
――自分が妙な居心地の良さを感じているのが、不思議で仕方なかった。
出会ったばかりの人間に、そんな感覚を覚えるだなんて、思いもしなかったから。
注文してから、品物はすぐに届けられた。
机の上に置かれた二セットのデザートたちに、ミオは目をキラキラと輝かせている。
カトラリーボックスの中からフォークを取り出して彼女に渡すと、ミオは我慢の限界に達したようで、ミルクレープやフルーツタルトを口に運び始めた。
「ん~っ! これすっごい美味しい……!」
一口頬張るごとに異なるリアクションをとるミオに、なんだか微笑ましい気持ちすら覚えた。
あそこまでよい反応を見せてくれると、こちらも進めた甲斐があるというもの。自分の気に入っているものなら尚更だ。
特にこれといった会話もなく、二人でデザートたちに舌鼓していると、ふとカノンの耳に、別の客たちの会話が届く。
どうやら最近になって、周辺地域で火事や爆発事件が頻発しているらしい。
負傷者の数もそれなり。警察は必死になって犯人を捜しているものの、未だ逮捕には至っていない。それどころか犯人の手掛かりさえ掴めていないらしく、捜査は難航しているというものである。
食べ進めつつわずかに耳を傾けていると、ミオは唐突に食べる手を止め、持っていたフォークを皿の上にコトン、と置いて目を伏せた。
「……カノンくんは知ってる? 話題になってる、火事の事件のこと」
彼が声をかけるよりも先に、ミオが静かに口を開いた。
「ああ。と言っても、テレビが報道している程度のことしか知らないんだけどさ」
「……怖いよね。もし自分のおうちが、いきなり燃えたり爆発したりって考えると……ぞっとする」
「自宅ってのは自分の唯一の居場所みたいなもんだろうし、安心できる場所が一つなくなるってのは、確かに怖いな」
「それだけじゃないよ。おうち全体に、いろんな思い出があるから……それが一瞬でなくなっちゃうのが、とても恐ろしい――」
ミオの表情はとても暗い。何か嫌なことでも思い出しているように。
「……だいじょぶさ。きっとすぐ逮捕されるよ」
そんな彼女に、カノンはあっけらかんと言って、止まっていたフォークを再び動かし始める。
「そう……だね、うん、そうなると、いいな」
曇っていたミオの表情に、少しずつ光が取り戻され、彼女もまた、元気よくフルーツタルトを口に運んだ。
すぐに逮捕される――これは別に、気休めでも希望的観測でもない。
いや、正確に言えば、逮捕されるかどうかはわからない。なんせこれは人間の仕業ではないかもしれないのだ。だから、事件が発生しなくなる、というのが正しい。
カノンが押し付けられた依頼こそまさに、この火事や爆発事件を引き起こしている存在を調査しろ、というものなのだから。
食べ終わってしばらくしてから、二人は店を後にした。
店を出たころ、まだ日は高く空にあって、強い日差しが依然変わりなく大地へと降り注がれていた。
もちろん、支払いは彼女に任せた。元々が詫びという話なのだから、変に負い目を感じることもなかった。
「改めて、今日はいろいろごめんね。迷惑かけちゃって」
扉から少しずれた軒先で頭を下げるミオ。カノンはそれを両掌を向けて制止する。
「言ったろ、気にしなくていいってさ。奢ってもらったんだからそれでチャラ、だろ?」
さっぱりとした物言いに、ミオは安堵の表情を浮かべると、何か言いたげに口をもごもごとさせ始める。
「……ね。こんなの言えた立場じゃないけど、一つだけ、お願いを聞いてくれる?」
「なんだろう。もし無理難題だったら二言目には断っちゃうかもな」
わざとらしく肩をすくめてみせると、ミオは小さく笑みをこぼす。
「また一緒にここに来てほしいの。だから連絡先、教えてほしいな~、なんて」
「そんなことでよければ、ほら」
カノンは懐からスマホを取り出し、ミオへと差し出す。
「一応言っておくけど、変なところは触らないように」
「わかってるって~。余計な心配しなくても、電話番号しか見るつもりないよ~」
ミオはニヤニヤと含みのある笑みを浮かべながら、手際よくカノンの電話番号を入力し終えると、受け取ったスマホを彼に返した。
「それじゃ、今日は本当にありがとう! またなんかあったら連絡してね! どうでもいいことでもいいから! いつでも待ってるからね!」
今度はかわいげのある笑みを浮かべてそう言うと、ミオはゆっくりと踵を返した。
だんだんと遠ざかっていく彼女の背中を、カノンは軒下に立ったまま見送る。
時折こちらを向いては元気に手を振ってみせるので、早々に立ち去るわけにもいかなかった。
背中が豆粒みたいになって、カノンはようやく身を翻すと、ミオが向かったのとは反対方向に歩き出す。
別に、納得ができたわけではない。あんな依頼は未だに断るべきだったと今でも思っているくらいだ。
……それはそれとして、少しはやる気が出てきていたいのも事実である。
せっかくできた友人の不安くらいは取り除いてやりたいと思うし、おそらく自分なら、それができるかもしれない。
「さて……どうしたもんかな」
言った覚えのある言葉が、無意識に口から漏れる。
せめて奢ってもらった分くらいは働かなければ、彼女に悪いだろう。
そうやって自分を言い聞かせながら、彼はまた街並に紛れる。
待ち受ける炎天下よりもさらに燃え上がり、爆ぜるなにものかを目指して。
ホワイトスカーレット かなね @Kanane_s
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