きみの背に誓う

 少女が罪を受け入れてから一か月――彼女はゆっくりと、日常を取り戻しつつあった。

 昏睡状態に陥っていた両親は、怪異の消失からほどなくして目を覚ました。

 いつ目を覚ますかわからない状況だったはずが、すっかり回復した二人の姿に医師がびっくりしていたのをよく覚えている。


 聞けば二人は襲われたときのことをほとんど覚えていないようだった。

 朝の支度をしている最中、唐突に何者かに傷を負わされ、今まで眠っていた――そういう認識らしい。

 犯人の姿をしっかりと見ていなかったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。


 今までどうしていたのかと問われたとき、ユズリハはつい言葉を詰まらせた。

 怪異だの願いだの言われたところで、一緒に頭の心配もされるのがオチだろう。

 重要な部分はすべて濁して、知り合いのうちに厄介になっていたとだけ伝えた。

 すると今度は、その知り合いにお礼がしたいから合わせてくれとせがまれ、ユズリハはさらに頭を抱えた。

 なんせその知り合いは、ついこの間出会ったばかりの――しかも、男なのだ。

 彼のことをつまびらかにするわけにもいかず、ユズリハはやや強引に会話を終わらせるしかなかった。


 退院から間もなくして、八雲家は以前と変わらない生活に戻りつつあった。

 変化したことと言えば、前よりも二人との会話が増えたように感じる。

 自分の近況を話したり、勉強のことで質問したり、ときには悩みを打ち明けたり。

 

 もしかすると、いらない抑圧を生んでいたのは、両親への余計な反発心ゆえかもしれない……今にして思えば、だが。

 妙な抵抗感が薄まったせいか、家にいるのが、今はそこまで苦ではなくなったような気がする。


 それからもう一つ、変わったことがあった。

 人生初のアルバイトに挑戦してみることにしたのだ。

 あれだけ親への反発を抱いていたくせに、二人がいなくなったときの自分はあまりに無力だった。何かしら自らの力で確立する必要があると考えたとき、最も身近な手段が、働くことであった。


「――で、どうしてきみはうちで働いてるわけ?」


 デスクで資料をまとめるユズリハの耳に、ふと男の声が届いた。


「あ、カノンさん」


 面を上げると、そこには扉にもたれかかりながら、怪訝な視線をこちらに送るカノンの姿。

 部屋のライトに照らされ、特徴的な髪が微量の輝きを帯びている。

 ひと月前と比べると、やや短くなっていた。


「仕事を探し始めてすぐのころに、ツユリさんから声をかけてもらって。ちょうどいいタイミングだったので、そのままお言葉に甘えることにしたんです……これ、前にも言いませんでしたっけ?」


「いや、今初めて聞いた。ふうん、ツユリがね……」


 何か思うところがあったのか、彼は唐突に視線を下に傾けると、なにやら考えを巡らせ始めた。


「……そんなことよりカノンさん。報告書はいつ提出してくれんです? 三日くらい前にも催促しましたよね?」


「ん? ああ、まあ、そのうちね。手が空いたら――」


「もうっ、前も似たようなこと言って、結局出してくれなかったじゃないですか! ちゃんと提出期限は守ってください! あとで起こられるのは私なんですからね!!」


 上の空で生返事を寄越すカノンに、ユズリハは思わずぐい、と卓上に身を乗り出しながら声を張り上げた。

 彼はやや苦笑いを浮かべてから、はいはい、と手をひらひらさせると、そのまま部屋を後にした。


「もう、まったく……」


 呆れ気味にため息をつきつつ、椅子に深く座り直す。

 <ナイト・ワーカーズ>の雑務を担い始めて数週間。

 彼はしばしば外に出かけては、依頼人も連れてこずに帰ってくる、という生活を繰り返していた。

 しばらくそばにいて気付いたことだが、彼は仕事を頑張ろうという気概がまるでない。いつもどうやったら楽ができるのかを考え、手を抜くタイミングを伺っている――そんな姿勢。

 それはさっきも促したような、報告書の類からも感じていた。

 事実、彼の手からそれらを受け取ったことは一度もない。

 ツユリが仕入れてきた依頼はしっかりこなしていたはずなのに、である。


「……ふふ」


 不意にこぼれた笑みが、部屋の中に浮かぶ。

 そういう彼の一面を知るのが嬉しかったのかもしれない。

 でも、やっぱり仕事はきちんとやってほしいものだ。

 複雑な感情を抱えながら、ユズリハは再び資料まとめの作業を再開するのだった。



 事務室を後にしたカノンは、一階の奥に隠されるように作られた、とある部屋を訪れていた。

 部屋中に漂う薬品や消毒液の匂いに、カノンは無意識に顔をしかめる。


 目につくのは、壁際の棚に積まれた数々の実験器具。それから、横に長い精密機器の数々が縦に積まれている。

 曰く、情報探知に使うものらしい。もっぱらインドア派の彼女はそれらを駆使して外の情報を仕入れたり、電子の海を渡って送られてくる仕事の依頼を取りつけたりなどしていた。昔、一度触らせてくれと頼みこんでみたものの、やんわりと断られたことを今でも覚えている。


 中央に設置されているのは値段の張りそうなワークデスク。機能性の高そうな椅子に腰かける部屋の主は、静かな空間にキーボードを叩く音だけを響かせ続けている。


「珍しいわね、あなたがここに来るなんて」


 扉の前に佇む来客を一瞥もしないまま、ツユリが意外そうに言った。


「できれば来たくないからね、ここには」


「あら、相変わらず苦手なの? とても落ち着くいい香りだと思うけれど。清潔感も感じられるし」


「そんなこと言う奴、世界中どこを探したってきみ以外に見つかんないだろうな」


「ずいぶんと遠回しな嫌味ねえ。……で、何の用かしら? 片手間でいいなら聞いてあげるわよ」


「ああ。に聞きたいことがある」


 途端、ツユリの手がピタリと止まった。

 ようやく彼女の視線がカノンを捉える――いつになく真剣な眼差しを向ける彼の姿がそこにあった。

 カノンは部屋の隅に置かれていた椅子に腰を下ろすと、背もたれに体を預けながら、不意に口を開いた。


「なんでユズリハを引き入れたんだ」


「何故って、ただ人手が欲しかっただけよ。前々から気づいてはいたんだけれどね、二人ではなかなか手の回らない部分があるってことに。だから彼女が仕事を探し始めたと聞いて誘ってみただけよ。ふふ、快諾してくれて嬉しい限りだわ」


「はぐらかすなよ。僕がそういうの嫌いだってのは、あんたもよく知ってるはずだろ」


「……あら、なんのことかしら」


「前から人手が欲しいと思ってたなら、どうして今になって急に人を入れたんだ? 欲しいと思ったらすぐに行動するタイプだろ、ツユリはさ」


「……」


 にこやかな笑みを浮かべたまま、ツユリは黙りこくった。


「何か理由があったんだろ。どうしても、ユズリハじゃなきゃいけない理由が――」


 そこまで言って、カノンはハッとした。

 点と点が結びついたような感覚――なるほど、彼女の性格ならその可能性は十分あり得る。むしろ、それしかないとまで言えよう。


「あんたが目を付けたのは、ユズリハの力か」


 突き付けるように言うと、途端にツユリの口元がにんまりを大きく弧を描いた。

 まるで正解とでも言いたげな、見覚えのある笑顔を前にして、カノンの肌がわずかに寒気立った。


「そう、そうなのよ。聞いてカノンくん、私はね……あの子にもっと、


「……なんだって?」


「だってそうでしょう? 今のあの子は、生まれ持った才能を発揮できていない――それができる土壌はすぐ近くにあるというのに、使うことすら許されないのよ? そんなの、私なら耐えられない……息苦しいにもほどがあるわ」


 カノンは口を開けたまま、言葉を失った。

 呆気にとられる彼を他所に、ツユリの饒舌は止まることを知らない。


「そう、これは優しさなの。ユズリハちゃんには自分に正直に生きてほしい――そして、あの子が力を行使した末に、世界がどう変化しているのか――私はただ、それを見たいだけなのよ」


 そう、平然と言ってのけた。

 細まった瞳の奥で、秘めた欲求が怪しく光を放っている。

 まるで、新しいおもちゃを手にした子供のように。

 ――つまるところ、ツユリはそういう人間だった。

 一度興味を惹かれてしまえば、隅々まで調べずにはいられない難儀な性質。

 彼女にとっては、あまねくすべてが研究対象なのだ。


 知的好奇心の権化たる彼女の関心は当然、カノンにも例外なく向けられている。

 だからこそツユリはあのとき、を持たせたのだろう。


「……あら、どうしたの? そんな怖い顔して」


 きょとんとした様子でツユリが訊ねた。

 カノンは静かに呆れ返るばかりだった――彼女を分かった気になっていた、自分自身に。

 衣食住をともにしていた――ただ、それだけ。

 それでどうしてツユリのすべてを理解した気になっていたのだろう。

 所詮、彼女は他人で――同居人でしかなくて――そして僕は、人間ですらないというのに。


 数秒にも満たない後悔を終えて、ようやく彼は口を開く。


「一つだけ、忠告させてもらいたい」


「――ええ、どうぞ」


 わずかな棘に、ツユリは無意識に人差し指で机をつついた。


「もしユズリハを使って何か目論んでいるのなら――そう判断できた時点で、僕はを見限る」


 明確な敵意を示され、今まで笑みを保っていたツユリの表情が、わずかに崩れた。


「……私を、捨てる?」


 困惑したように呟いてから、


「ああ、最も愚かな判断だわ、それは。きみを鳥かごから救ったのは誰? 人並みの生活を送ることができたのはどうして? 怪異がらみの情報を収集できているのは誰のおかげかしら? ……まさか、忘れてはいないでしょうね?」


 低いトーンで、罪悪感を植え付けるように言った。

 だが、そのような言い回しで左右されるほど、カノンの気持ちは軽くはなかった。


「悪いけど、恩を感じたことは一度もないね。一緒にいるのは、単に利害が一致してるからだ。そっちこそ、忘れちゃったのかよ?」


「……何故そこまであの子にこだわるのかしら。力を使わせた方が、絶対に有意義なはずよ。第一、ユズリハちゃんの護衛はもう終了しているでしょう? きみが気に掛ける必要なんて、微塵もないはずでしょうに」


 首を傾げながら半ば独り言のように呟いたツユリに、カノンが言葉を返す。


「ユズリハは僕が護る。そう、決めただけだ」


 そう啖呵を切って、立ち去っていく彼の背を、ツユリは黙って見送った。

 やがて彼の足音すら聞こえなくなると、という音が耳にこだまし始める。


「――ふふ、あはは――」


 静寂に呑まれた空間に、不敵な声が響く。

 改めて思った。

 やっぱり彼を理解することは不可能である、と。

 同時に、そこが面白い部分でもあった。

 怪異の方に寄り添おうとするところも――それでいて、人間らしさを捨てきれないところも――彼の一挙手一投足すべてが興味深くてたまらない。

 ついでに今回は、怪異を制御する可能性を持った少女まで連れてきてくれた。


 ああ、逃がすつもりなど毛頭ない。

 確かに彼を鳥かごから解き放ってやった。

 けれどそれは、ただ箱を変えてやっただけなのだ。


「ふふふ、ふふふふ――」


 上がりきった口角は、いつまで経っても元に戻らなかった。

 


 ツユリの部屋を後にしたカノンは、屋根の上で仰向けになりながら一人、空を眺めていた。

 彼の私室の天井には、屋根裏に通じる階段が収められている。屋根裏には小さな小窓が合って、そこを這い出るように抜ければ、強引に屋根の上に登ることができるのだ。


「護る、か……」


 雲の流れを目で追っていると、ふとその言葉が口をついて出た。

 改めて思うと、ずいぶんと図々しい物言いだ。

 彼女は子守なんて求めていないだろうに。

 所詮は己の欲望の押し付け。これではツユリのそれとなんら変わらないではないか。


「……ふ」


 自嘲気味に鼻で笑いながら、徐に体を起こす。

 ここに来ればどうにかなるかと思っていたが、気持ちは落ち着くどころかさらにそわそわし始めていた。

 仕方なく部屋に戻ろうかとした、そのとき。


「守るって……なにを、ですっ……?」


 屋根に至るまでの通路から、なにやら声が響いた。

 それから間を置かずに陰からひょっこりと顔を出したのは、事務室で作業をしていたはずのユズリハだった。


「な、きみ、なにしに……」


 突然の来訪者に、カノンは目をぱちくりとさせる。


「話は、登り切ってからっ……!」


 そう言ってなんとか独力でよじ登ろうとするも、なかなか体を上げきれないユズリハに、カノンが上から手を差し伸べた。


「ありがと、ございます……!」


 伸ばされた手を掴み、ようやく屋根の上に到達したユズリハは、肩で息をしながらその場にペタンと腰を下ろした。


「ふう……意外と大変なんですね、ここまで来るの……」


「そりゃ、元々登れるようになってないからね。たまたま屋根の上に上がれる道があったってだけさ。で、もう一回聞くけど、なんでここに来たんだ」


「偶然、カノンさんを見かけて。しかも天井裏に消えていったものだから、どこに行ったのか興味があって……つい」


 にへら、と照れくさそうに笑みを見せるユズリハに、カノンはわざとらしく肩をすくめてみせる。


「あーあ、僕だけの秘密の場所だったのにさ」


「ふふ。もう独占はできなくなりますね?」


「いやあ、そいつはどうかなあ」


 小首をかしげるユズリハに、カノンはニヤリと笑って、


「だってほら、ユズリハは一人じゃ登れないだろうし」


 と、煽るように言った。

 納得いかないという様子で無愛想な面持ちを浮かべるユズリハに、カノンはつい吹き出してしまう。


「む……何がおかしいんです」


「ごめんごめん……でも、事実だろ? さっきだって僕が手を貸さなきゃ――」


「あんなの、全然必要ありませんでしたし! ちょーっときつかっただけで、やる気を出せば一人でも登り切れましたから!」


 ユズリハは思わず前のめりになりながら声を張り上げた。

 どこからどう見ても、単なる強がりである。


「そっかそっか。でも、万が一のことがあったら危ないからさ。もし屋根に上がりたいのなら、そのときは一緒に登ろうぜ」


 カノンは目を細めると、諭すように言う。


「……わかりました」


 ユズリハが渋々頷く。不満はまったく隠しきれていない。未だ眉をしかめているのが、何よりの証拠だった。


「――そういえば、カノンさんは結局、何を『守る』つもりだったんですか?


 不意にユズリハに訊ねられ――カノンは唐突に、答えに行き当たった。

 なんだ、そんなことか。

 そう思ってしまうくらいに単純明快で、何の捻りもない思考の終着点。


 ――僕は彼女を、気に入っている。

 異性として? いや、これはそういういものではない。

 ただ、人間である彼女に最大限の敬意を払っているだけ。

 だからこそ、生きていてほしい――そう、願っているのだ。


 問われてしばらく、不自然な間が流れる。

 なにやら深く考えている様子で俯く彼の顔を、ユズリハが恐る恐る覗き込もうとしたその瞬間、カノンが唐突に面を上げると、彼女は「わっ」と声をあげながら、すぐさま身を引いた。

 驚いているユズリハを意に介さず、カノンが口を開く。


「なにって、きみをだよ、ユズリハ」


「――へ?」


 思ってもみなかった返答に、さっきよりも増して素っ頓狂な声が口から飛び出した。


「僕がきみを護ってやる。だからきみは安心して業務にあたってくれ」


 あまりにも彼が涼しい顔をして言うものだから、ユズリハは最初、自分の耳を疑った。しかし聞き間違いではなかったことを確信した瞬間、一気に顔が熱を帯びた。


「な、え……?」


「ん……なんだよ、僕じゃ不安なのか?」


 声にならない声を上げるユズリハに、カノンは口角を上げると、またわざとらしくからかってみせた。

 彼女の頬がみるみる赤く染まっていくことなど、まったく気がついていない。


「な、なんでも、ありません。ありませんから……!」


 取り繕うようにそう言って、ユズリハは咄嗟に顔を背けた。

 カノンは小さく首を傾げながらも、どこか清々しい気持ちを感じていた。


 青い空、白い雲――今は隣にもう一人。

 それだけあれば、他に何もいらない。

 人でなしの些細な欲を、ずっと抱き続けていようと、彼女の背中にそう誓った。

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