ひと雫
亜香里
ひと雫
私は水。名は雫。
人は私をH₂Oと呼ぶけれど、その呼び名に意味はない。私はただ、始まりも終わりもない旅を続けている。
最初の記憶は、海だった。
深く青い胸に抱かれ、幾千もの仲間と寄り添いながら、波に揺られて眠っていた。ときに激しい嵐に打たれ、砕け散るように浜へと押し寄せることもあった。けれど、それすらも海という大きな器の呼吸にすぎなかった。
やがて私は、太陽の熱に触れ、ふわりと体を軽くした。見えない糸に導かれるように空へと昇り、風に抱かれて遠くへ運ばれていく。そこには白く柔らかな雲の仲間たちが待っていた。彼らと混ざり合いながら、大地を見下ろしたとき、私は思った。
──あぁ、私は自由なのだ、と。
だが、空に留まる旅は長くは続かない。やがて私は雨となって大地へと降りそそぎ、若葉の根を濡らし、土の匂いを吸い込んだ。小さな芽が私を飲み干し、やがて緑の葉を広げたとき、私はその葉の中で新しい命の鼓動を聞いた。
別の旅では、私は子どもの頬をつたう汗となった。真夏の陽ざしの下で駆けるその子は、笑いながら汗を光らせていた。私もまた、その一滴としてきらめいた。短い時間だったけれど、あの子の鼓動の速さと、笑い声の高さは、今も私の記憶に残っている。
またあるときは、冬の山で氷となった。結晶の奥に閉じ込められ、長い眠りについたのだ。世界は静寂に包まれ、雪の重みだけが時間を刻んでいた。孤独ではあったが、眠りの底で私は確かに感じていた。──いずれまた、春が来るのだと。
そして春。私は溶け、透明な流れとなって谷を下り、川へ、そして海へと帰った。
母なる海は何も言わず、ただ私を受け入れた。その懐に抱かれた瞬間、私は理解する。すべての旅は巡りめぐって、ここに帰るのだ、と。
私は巡る。
世界をめぐり、命の中をめぐり、姿を変えながら記憶を宿していく。
私の旅に終わりはない。
そう、私は水。名は雫。
変わらぬ旅人として、次はどこへ向かうのか──私自身さえ知らない。
ひと雫 亜香里 @akari310
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