玉京の噂は、恋より早い――噂を売る双子と、真実に恋する太子

栗パン

序章 表を読む都、裏を読む太子

第0話 太子は、胡麻菓子の包み紙に恋をする

「『飛燕報ヒエンホウ』第二十七号! 太子殿下、妃選びを前に三度目の病臥ビョウガ! 花嫁より先に、薬師が決まるか!」

 その声に、玉京ギョクケイの朝がぱらりとめくれた。


 朝靄アサモヤはまだ青白く、朱塗りの城門だけが春の光を弾いている。刷り上がった紙には、松煙ショウエンの墨、煮詰めた米の糊、夜通し人の手の脂を吸った版木ハンギの匂いが残っていた。

 百部ずつ麻の紐で束ねられていた冊子は、紐を解かれるなり売り子たちの腕へ渡り、玉京ギョクケイの通りへ散っていく。


 ――まさに、飛燕がいっせいに巣を飛び立つように。


 石畳を鳴らす馬車。蒸籠セイロからあふれる白い湯気。朝露を含んだ柳の青い匂い。城門をくぐったばかりの荷車が軋み、馬のヒヅメが泥を跳ね上げる。その隙間を、冊子の束を抱えた売り子たちが風のように駆け抜けていく。

「最新号だよ! 太子妃の座は一つ、医官は四人! さて、東宮へ先に入るのはどちらだ!」

 朱塗りの輿コシから白い手が伸び、茶楼の窓からは銅銭が飛ぶ。書生は朝餉アサゲの粥をすくう匙を止め、商人は釣銭を受け取るより先に冊子をさらった。


 その表紙には、太子妃選びを告げる金の題字の下に、いささか品のない見出しが大きく躍っている。


            ◇ ◇ ◇


         『飛燕報』第二十七号 表紙

   【太子妃選び、いよいよ開幕――花嫁は一人、薬師は何人?】


 玉京ギョクケイの令嬢諸君、カンザシと覚悟はお揃いだろうか。

 今年も、顔も知らぬ男に一生を捧げる、由緒正しく、家柄以外はきわめて公平とされる太子妃選びが始まる。


 候補者に求められるのは、容姿、教養、品格、そして健康。

 最後の一つは、どうやら太子殿下の分まで必要らしい。


 選妃センピを目前に、殿下は今月三度目の病臥ビョウガ。ここ三日だけでも、医官は四度東宮へ出入りしている。

 現時点で殿下のおそばに最も長くいるのは、どの候補令嬢でもなく医官である。


 琴に自信のない令嬢も、どうか安心されたい。

 演奏の途中で殿下がお休みになれば、多少音を外しても気づかれない。

 香を焚きすぎて咳き込まれても、落選の合図とは限らない。

 十中八九、いつもの咳である。

 なお、初対面で殿下が倒れても、「私の美しさに目が眩んだ」と早合点してはならない。まず医官を呼ばれたい。

 感想を伺うのは、殿下がお目覚めになってからでも遅くない。


 本誌としては、嫁入り道具に薬研ヤゲンを一つ、厚手の寝具を二枚、そして夜半ヤハンに何度起こされても微笑んでいられる忍耐を、たっぷり加えることをおすすめする。


 太子妃とは、いずれ国を支えるお方。

 まずは太子殿下のお身体を、しっかり支えていただきたい。


 候補者諸嬢ショジョウの健闘を祈る。

 太子殿下には、何より健康を祈る。


            ◇ ◇ ◇


 茶楼では、客たちが表紙を卓の真ん中へ広げていた。

「殿下は、また寝込まれたのか」

「妃選びが嫌で、仮病を使っているんじゃないか?」

「それなら、ぜひ俺と代わっていただきたいね」

 どっと笑いが起こり、卓上の茶が細かく揺れた。隣の卓では、書生たちが『礼記』に冊子を挟み、「いつもの咳」を見つけるたびに膝を叩いている。


 ある候補令嬢の屋敷では、母親が冊子を卓へ叩きつけた。

「なんと不敬な! このような下賤な冊子、二度と屋敷へ入れてはなりません!」

 侍女たちが肩を震わせながら頭を下げる。

 母親はあたりを見回し、誰も笑っていないことを確かめてから、そのうちの一人をそっと呼び戻した。

「……薬研を一つ買っておいで」

「どのようなものを?」

「柄は玉にしなさい。太子妃候補の嫁入り道具なのですよ」

 その傍らで、当の令嬢は慌てて香炉の蓋を閉めた。蓋の隙間から白檀の煙が一筋だけ立ちのぼり、細くほどけて消えた。


 午の鐘を待たず、二千部は売り切れた。

 ——けれど、紙は売り切れても、噂は売り切れない。

 茶楼では病弱な太子に似合う令嬢の名に銅銭が賭けられ、布屋では、広げられた赤や桃色の布を前に、候補者たちの装いが論じられている。苦い薬草の匂いが満ちる薬屋には、玉の柄をつけた薬研ヤゲンの注文まで舞い込んだ。


 その熱気から取り残された裏表紙には、今号も小さな欄があった。


             ◇ ◇ ◇


         『飛燕報』第二十七号 裏表紙

          【灯下録】


 白鶴ハッカク殿へ。

「名もなき訴えだけでは、役所は動かせない」と、あなたは書きました。

 長楽坊の人々は、名を告げて三度訴え、三度追い返されています。

 今朝、また一軒の壁が裂けました。

 役所が待っているのは、証ですか。

 それとも、最初の死者ですか。


                            青灯セイトウ


             ◇ ◇ ◇


「また難しいことが書いてあるねえ」

 胡麻菓子売りの老婆は二行ほどで読むのをやめ、裏表紙だけを冊子から外した。


 内側は白く、包み紙にちょうどいい。焼き上がったばかりの胡麻菓子を三つ並べて折り畳むと、薄い糖衣トウイがぱりりと鳴る。煎った胡麻と油の甘い香りが立ちのぼり、乾いた墨の匂いにゆっくり溶けていく。


 青灯セイトウの署名に、丸い油染みが浮かぶ。


 ――実は、『飛燕報』は、表と裏、その両方で太子を使って銅銭を稼いでいた。

 表では太子の病を売り、裏では太子の反論を載せる。

 ただし、その「白鶴ハッカク」が太子その人だと知る者は、当の本人しかいなかった。


 病弱と噂された太子・言清ゲンセイは、そのころ、東宮の射場にいた。


 びん、とツルが鳴る。放たれた矢は一羽のツバメのように青白い朝靄アサモヤを切り、五十歩先、的の黒い中心へ深々と突き立った。矢羽ヤバネがわずかに震え、その羽音にも似た余韻だけが、射場の白壁のあいだをひと巡りする。


 言清ゲンセイは的を見据え、弓を下ろした。


 夜明け前の空を思わせる濃い藍色の騎射服キシャフクには、肩から裾へ銀糸の雲が流れ、胸もとでは金糸の昇龍ショウリュウが、その雲を裂くように天を仰いでいる。身じろぐたび、連なる鱗が朝の光を弾いた。皇位を継ぐ者にのみ許された紋である。


 背は高く、身体の線はすらりと細い。薄い唇には血の色が乏しく、伏せた睫毛が頬へ落とす影さえ淡い。


 静かに立てば、白磁の公子。

 ひとたび動けば、抜き身の刃。

 衣の下では、腕から肩、背へと続く筋が、引き絞った弦のようにしなやかに張る。


 控えていた侍従ジジュウが、黒漆の盆を捧げて進み出た。盆の上には、金糸で綴じられた太子妃候補の名冊と、胡麻油の甘く香ばしい匂いを吸い込んだ紙包みが並んでいる。


 弦の跡を赤く残した言清ゲンセイの指は、金糸には触れず、その向こうの紙包みへ伸びた。

「今号は?」


「すでに売り切れておりました。残っていた裏表紙を、菓子ごと買い取った次第です」


 言清ゲンセイが折り目をほどくと、紙がかさりと鳴り、冷えた射場に煎った胡麻と砂糖の香りがほどけた。青灯セイトウの二文字は、丸い油染みに半ば沈んでいる。

 親指の腹で、青灯セイトウの名にかかった油をそっと拭おうとする。染みは消えず、かえって紙の繊維へ広がった。先ほどまで鋭かった眼差しが、青灯セイトウの二文字にだけやわらぐ。


(……青灯セイトウが怒ると、文章は短くなる。飾りの言葉が消え、問いだけがまっすぐ喉元へ向かってくる)


「私の文を、都合よく一行だけ抜き出したな」

 咎めながらも、その口元には笑みが浮かんでいる。


 青灯セイトウの顔も本名も、男か女かさえ分からない。ただ、その筆が役人の報告からこぼれ落ちた声を拾い、多くの者が見過ごすものを見ていることだけは知っていた。


「長楽坊へ人をやれ。役所の帳簿ではなく、井戸の水と壁の裂け目を見てこい」

「かしこまりました。殿下、候補者のお名前にも、本日中にお目通しを」


「あとだ」

「初選は明日でございます」


「壁が崩れるのも、明日かもしれない」

 言清ゲンセイは弓を別の侍従に預け、射場脇の東屋へ入った。書案の前に腰を下ろし、白い紙を引き寄せて筆を取る。


              ◇ ◇ ◇


 青灯セイトウ殿へ。


 問いへの答えは、証です。

 死者ではありません。

 壁の裂けた家の場所と、三度追い返された者の名を記してください。

 あなたの言葉が正しければ、役所を動かすための証は、こちらで揃えます。


 追伸。

 反論するために、こちらの一文だけを抜き出すのは、議論として少々卑怯です。


                            白鶴ハッカク


              ◇ ◇ ◇


 最後の一字を書き終え、言清ゲンセイは筆を置いた。


「これを、いつものところへ」

 侍従が返書を受け取ると、言清ゲンセイはようやく名冊の金糸を解いた。頁を開けば、名門の家名と令嬢たちの名が整然と並んでいる。

 ――だが、言清ゲンセイがいま言葉を交わしてみたい相手の名は、そのどこにもない。


青灯セイトウを探し出したい。いつか顔を合わせて、この国のことを語り合ってみたい)


            ***


 同じころ、南市ナンシの紙舗、その二階。

「二千部、完売!」

 格子窓から通りを見下ろしていた沈子墨シン・シボクは、売上帳を指で弾いた。


 石榴ザクロ色のホウには、金糸の燕が何羽も舞っている。腰には白玉を連ねた帯。烏の濡れ羽のような黒髪を高く結い、銀の冠で留めていた。細身ではあるが、肩の線は妹よりわずかに広い。鼻筋は通り、顎の線はすっきりと細い。黙っていれば、名家の宴で令嬢たちの視線を集めそうな美青年だった。


 もっとも、子墨シボクが長く黙っていることなど、めったにない。笑えば目尻がやわらかく下がり、何かを企めば、その瞳には誰より先に灯がともる。本人そのものが『飛燕報』の見出しのように、派手で、楽しげで、少々信用ならない。

「やっぱり太子殿下は売れるな。寝込んでいただいた甲斐があった」


「勝手に寝込ませたのは、あなたでしょう」

 向かいで校正紙を束ねていた沈子衿シン・シキンが、顔を上げた。

 子衿シキンは淡い水色の襦裙ジュクンをまとっていた。裾には銀糸で細い水紋が縫い取られ、風が入るたび、静かな水面のように光が移ろう。髪には真珠のカンザシが一本。そこから垂れる銀鎖の先で、小さな玉が頬をかすめている。


 子墨シボクと同じ、黒くまっすぐな髪。同じ高さの眉。同じように長い睫毛。同じようにすっと通った鼻筋。兄よりわずかに丸みを帯びた唇さえ結べば、二人の顔立ちは驚くほどよく似ていた。

 同じ版木から、墨の濃さだけを変えて刷られた二つの顔。


「お前の『灯下録』も大活躍だったぞ」

 子墨シボクが顎で窓の外を示す。


「胡麻菓子を三つも包んだ」

「……見ていたんですか!」


「裏面の読者は、今日も一人だけか」


「一人しかいないんじゃありません」

 子衿シキンは校正紙の端を揃えた。

「一人は、いるんです」


 白鶴ハッカク――青灯セイトウの意見に、毎号、腹の立つほど冷静な反論を寄せてくる、ただ一人の読者。名も顔も分からない。白鶴ハッカクから返書が届く日だけ、子衿シキンがいつもより長く版房ハンボウに残ることを、子墨シボクは知っている。まだ記事にはしていない。


「表が売れるから、裏も刷れる」

 子墨シボクは銭箱の蓋を閉じた。

「皆が表を欲しがるあいだは、好きなだけ正しいことを書けばいい」


「いつか、表より先に裏を読ませます」


「それは楽しみだ」

 子墨シボクは机の端にあった一枚の紙を、妹の前へ滑らせた。玉京ギョクケイ学堂の朱印が押されている。

「ところで、お前が破り捨てた策論サクロンを、俺の名で学堂へ出した」


「どうして兄上が、それを?」

「拾った」


「捨ててください」

「首席だった」


 子衿シキンの手が止まる。


「明日、書いた本人を師官シカンたちの前へ立たせ、口頭で弁じさせるそうだ」

 子墨シボクの口元に、悪知恵がもっともらしい言葉へ化ける直前の笑みが浮かんだ。


「兄上が出したのでしょう。兄上が行ってください」

「俺が行けば、一問目で偽物だと露見する」


「では、なぜ出したのです?」


 子墨シボクは朱印の脇を指先で叩いた。

「お前の文章を、もう紙屑にはさせない」


 子衿シキンは、何も言えなくなった。


 そのとき、階下で扉を叩く音がした。続いて階段が軋み、使用人が朱塗りの文箱を抱えて上がってくる。蓋には金泥の鳳凰。箱が開かれるより先に、白檀と麝香ジャコウの甘く重い香りが、部屋に満ちた墨の匂いを押し退けた。

 太常寺タイジョウジから、沈家の令嬢・子衿シキンへ届けられた、太子妃選びの召状だった。


 子墨シボクはそれを、学堂の召状の隣へ並べた。

 一枚は、玉京ギョクケイ学堂の口頭試問。もう一枚は、太子妃選び。刻限は、どちらも明日の巳のミノコク


 子衿シキンが太子妃選びの召状へ手を伸ばした。指先が触れる寸前、横から伸びた子墨シボクの手が、召状をひょいとさらった。

「お前は学堂へ行け」


「……はい?」


 子墨シボクは召状を持ったまま、空いた手で朱塗りの箱から金の鳳凰の簪を取り上げた。黒髪へ挿し、壁際の銅鏡ドウキョウの前に立つ。

 笑みを消すと、鏡の中には、子衿シキンと見紛うばかりの美しい令嬢がいた。


 金の鳳凰を揺らし、子墨シボクは妹を振り返る。

「似合うか?」


「腹が立つほど、お似合いです」


「なら決まりだ。俺が嫁ぐ」


 兄が妹の名で選妃センピへ出て、礼を一つ間違え、その場で落ちる。妹は兄の名で学堂へ出て、口頭試問を切り抜ける。子墨シボクの頭の中では、それだけで二枚の召状がきれいに片づいたらしい。


「二人とも、行き先だけは合っている。完璧だ」


「中身が逆です」


 子墨シボクは学堂の召状を妹の手へ押し込んだ。


 子衿シキンは、手の中の召状と鏡の中の兄を見比べた。やがて兄の前へ歩み寄り、わずかに傾いた鳳凰の簪を、細い指でまっすぐに直す。

「裾を踏まないでくださいね」


「お前こそ、俺の名で首席を取るな。目立つ」




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【『飛燕報』通信欄】

 号外、号外!

 このたび『飛燕報』では、カクヨムにて『玉京の噂は、恋より早い――噂を売る双子と、真実に恋する太子』の連載を開始いたしました! 明日より、毎晩20時02分に更新いたします!


 もちろん、本紙初のネット掲載でございます。編集部一同、ネットが何なのかはまだよく分かっておりませんが、燕より速く届き、しかも銅銭を一枚も払わず読めるものだと聞いております。まことに結構な仕組みです。


 噂を売る双子と、裏面を読んでしまった太子殿下の内情を、本人たちにはおおむね無断でお届けします。太子殿下の許可ですか? もちろん取っておりません。


 応援の♡、★、コメント、ほんの一言のレビューまで、投書は何でも大歓迎です。いただけましたら、少なくとも裏面担当は銅銭より喜びます。表面担当については保証いたしかねます。


 それでは皆さま、どうぞ末永く『飛燕報』をご贔屓に!


 なお、ネット版の裏表紙では胡麻菓子を包めません。画面へ胡麻油を塗るのもおやめください。


                        『飛燕報』編集部

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