第1章 世界の反対側へ
第1話 鳥籠の中で生きる義務
遡ること数時間前——。
「本日の午前中はご公務、そして、夜は
午前七時、朝の準備を手伝いに来た侍女はそう告げた。
わたしは鏡台の前に座って、別の侍女に髪を結ってもらっている。目の前の鏡には、白銀の長髪とティールブルーの瞳の完璧な微笑みを浮かべた自分が映っていた。
毛足の長い絨毯と一人では開けられそうにないカーテン、ところどころ金色の細工が入っている家具のある王宮の一室、わたしの部屋での日常だ。
午前中の公務はいつも通り、お父様との晩餐は久しぶりだけれど決して珍しいものではない。
「公務の後、午後は何もないのですか?」
昨日も一昨日もその前も、何もない日なんてあっただろうか。
毎日、何時から何時までは法学の授業、その次はダンスの授業、そのまた次は語学の授業……のように、予定を聞くだけでもかなりの時間がかかるほど授業が詰められているから。
それが今日はたったこれだけ。何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
侍女はわずかに目を見開いた後、一段と笑みを深めた。
「聖王陛下のお心遣いです。明日は殿下のお誕生日ですからね」
「……そう、でしたね。自分のことながら、すっかり忘れてしまっていました」
わたしは明日で十八歳——成人する。ドレスやアクセサリーの準備をしたのはしばらく前のことだったから、つい頭から抜け落ちていた。
成人の儀、民たちの前でのスピーチ、誕生日パーティー……そして、結婚式。
わざわざすべてを一日に詰め込まなくても良いと思うけれど、それが何代も前からの聖王家での習慣だ。
そんな明日のことを考えるだけでも少し疲れてしまう。あふれ出そうになったため息を飲み込んで、お父様からのささやかな贈り物に意識を向けた。
公務を終わらせてから摂った昼食は、いつものようにほんのり冷めていた。
一度くらい暖かいものを食べてみたいとも思うが、それは叶わぬ遠い夢。
民たちは
赤色や白色、緑色の多い庭園にて白く染まる息を吐きながら、わたしは高い空を見上げた。
澄んだ青に時折浮かぶ薄い白。ざあ、と吹く風は身震いしてしまうほどに冷たく、とても心地良い。
ふと視線を草花に戻す。……以前歩いた時はポインセチアの赤なんて影さえなかったはずだ。果たしてどれくらいの間、庭園にすら出てこられなかったのだろう。湧き出た考えに、胸がぎゅっと苦しくなる。
「リーティル」
名前を呼ばれて振り返った先には、穏やかな笑みを浮かべたシェレン様がいた。日の光のような金色の髪とターコイズブルーの瞳を持つ彼は、いつだって少し眩しい。
わたしは明日この人と結婚する。生まれた時から決められていた婚約だけれど、どうにも現実味を感じない。
「こんなにも冷たくなってる。そろそろ室内に戻ろう?」
わたしの手を取ったシェレン様の中では、室内に戻ることが決定されているようだった。
「……そうですね。ありがとうございます」
本当はもう少しこの場所に居たいけれど、シェレン様の心配はもっともだ。
わたしは聖王家の姫で、次期聖王。そうやって生まれ落ちたのだから、この暖かくて穏やかで、安全な鳥籠の中で生きる義務がある。シェレン様に与えられているのはそんなわたしを守る役目。
明日、シェレン様と結婚をしたらもう自由にはなれない。過保護すぎるところのある彼は、庭園にすらわたし一人では出してくれないはずだ。……きっと、わたしがいくら大丈夫だと言っても本当の意味では聞いてくれない。
ちらりと盗み見た彼は、わたしではなく前を向いていた。
結局、晩餐までの時間は自分の部屋で読書をして過ごした。久々に夢中になって、予定の時間より三分ほど遅れてしまったのは我ながらいただけないと思う。
「お待たせしました。遅れてしまい申し訳ないです」
食堂の長方形のテーブルには、カトラリーや皿が二人分並べられている。暖色の光に照らされた室内は過ごしやすいように暖められていた。
「問題ない。……休めたのなら良い」
先に席に着いていた聖王陛下——お父様はわずかに口角を上げて言う。その白銀の長髪は緩く束ねられていて、鋭い銀色の瞳には心なしか穏やかさが浮かんでいた。
この世界で瞳が銀色なのは「王」の称号を冠する二人だけ。聖族の王と魔族の王だ。
だからわたしが聖王となったその時、お父様のその色は変わってしまう。お父様と全く同じ色を纏えないのは親子として少し寂しいけれど、聖王家の姫はそんなことを口に出さない。
侍従に椅子を引いてもらって、わたしが席に着くと晩餐の時間は始まった。特に会話はなく、二人揃って黙々とフォークを口に運ぶ時間が過ぎる。
そんな空間でお父様はふと口を開いた。
「……我が娘ももう成人か。なんとも時の流れとは不思議なものだ」
「お父様ったら。昨年も似たようなことを仰っていませんでしたか?」
「そうかもしれない。だが事実として毎年のように思っている。それに今年は特別だ。お前が私の庇護下から出るのだから」
成人の日を迎えたその瞬間、親から、生まれてすぐにかけられた
遥か昔から今まで伝わってきている簡単なまじないでその効果も迷信程度のものなのだが、これについて初めて学んだ時のわたしはどうしてか大袈裟に慌てていた。
「わたしが小さな頃、成人してお父様の聖魔法が解けたら魔族がやってくる、なんて思い込んでいた記憶があります」
記録にこそ存在していても、魔族だなんてそれこそおとぎ話の存在だ。
悪いことをした子どもに対して「魔族が来るよ」と怒るのが定番とされているくらいなのだから。
「ああ、そうだったな。あれからもう十二、いや、十三年が経つか?」
懐かしむように目を細めたお父様に見つめられて、わたしは視線を返した。
「……リーティル、綺麗になったな」
その慈愛に満ちた言葉は、ほんの少しくすぐったくて寂しかった。
時に厳しく、時に冷たく、「お父様」というより「聖王陛下」として関わることの方が多かった。だけど、それにはわたしへの愛情が込められていたことを知っている。
わたしが苦労しないように、わたしが自分自身を守れるように。そんなお父様が自身の心を一瞬だけ見せてくれたような気がした。
「……ありがとうございます、お父様」
十七歳最後の夜、暖かくて大切な思い出を胸にわたしは天蓋付きの自分の部屋のベッドに入った。目を瞑り、しばらくすれば心地良い眠気が襲ってくる。
——突然、目が冴えた。
いつの間にか眠っていたのかもしれないし、全く眠っていなかったのかもしれない。それすらも分からず、ただただ首を傾げるしかない。
ふと、バルコニーの方から誰かに呼ばれたような気がした。
行かないといけない。どうして?
わたしを待っているから。誰が?
相反する二つの思考がぶつかり合う。どちらが賢明な判断なのかは一目瞭然だろう。
それを理解した上で——いや、理解なんてできていないのかもしれないが、わたしはベッドを降りてバルコニーへと続く窓を押し開けた。
瞬間、ぶわりと冷たい風にあおられる。思わず瞑った瞼を開いたら、その人はいた。
黒い外套をはためかせて、バルコニーに降り立つのは銀の瞳の美しい男性。
夜の闇に浮かぶ月のようだと、そう思った。
次の更新予定
銀の魔王と鳥籠の姫 色葉充音 @mitohano
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