カニをすくう
もも
カニをすくう
そろそろ電気を消して寝ようと思い、シーリングライトのリモコンに手を伸ばしたら、スイッチを踏んづけるようにしてカニがこちらを見ていた。
瞬きを三回してみたけれど、やっぱりカニだった。
正確に言えば、ワタリガニだ。
ズワイガニほどデカくはないが、サワガニみたいな可愛いサイズでもない。昔見たアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』に蟹坊主という妖怪が登場する回があったが、分厚い唇を巨大化させて固くしたような甲羅の形は確かにひどく妖怪じみていた。
「こんばんは」
ワタリガニはハサミをふんどしの前に重ね、ペコリとお辞儀をした。
三角の形をしているので、どうやらオスらしい。
「このような夜分に突然の訪問、大変申し訳ありません。私、先日あなたに救っていただいたワタリガニです」
ただの挨拶なのに色々ツッコミを入れたくて仕方がない。とはいえ、まずはやはりここからだろう。
「ワタリガニって喋るんだ」
「全ての個体がそうではありませんが、そういうタイプもおります」
「そういうタイプ」
どういうタイプだよ。
「心優しい貴方様のお陰で、私の命は救われました」
「俺、何かやったっけ」
「私のことを助けてくださいました」
「それさっきも言ってたけど、そんなことをした覚えがないんだよね」
「何と、ご自分のなさったことをもうお忘れですか!」
ワタリガニはつぶらな目を
「きっと貴方様にとって手を差し伸べるという行為は息を吸うのと同じぐらい当たり前すぎて、覚えるに値しないということなのですね。おぉ、何と慈悲深い御方なのでしょう」
よろよろと数本の脚がよろめいている。玄関はぴっちりと締まっているはずなのに、このワタリガニは一体どこから入り込んだのだろう。可能性として濃厚なのはエアコンの排水ホースか……と思ったが、ホースの内径とワタリガニのサイズ感はどう考えても合っていなかった。
「一週間前の夜、貴方様はご家族連れで小さなエンジン付きのボートに乗船し、『ワタリガニすくいツアー』に参加されましたね」
「したけど」
夜、装着したヘッドライトで海面を照らしながら、浅い場所を渡るように泳いで移動するワタリガニをタモ網で
「その時、一杯だけ海に還したカニがいたことを覚えておいででしょうか」
言われて思い出す。
そういえば、蒸したり味噌汁にしたりするにはまだ小さいと思い、海へリリースしたのがいた。
「まさか」
「そうです、あの時のワタリガニが私でございます」
「ほぉ。そうか、そうなのか」
これはこれは、遠いところをよく来たね、せっかくだしちょっとお茶でも飲んでいきなよ……て、なるかい。
ならんわ。
ワタリガニをもてなすヒトのオスって、どんな絵面だよ。
サイズが違いすぎて引きまくらなきゃ一コマに収まらんだろうが。
「貴方様のもとへ参りますまでこの小さな脚ではやや時間が掛かってしまいましたため、私のことなどお忘れになっていたとしても仕方のないことです。どうかお気になさらず」
いや、何ひとつ気にしていないし、むしろどうやってこの家を突き止めたのか教えて欲しい。
「海を離れ、このような浅ましい姿を晒してでも貴方様にお会いしたかったのには理由がございます」
「あぁ、アレだろ。恩返し的なヤツだ」
鶴の恩返しならぬ、ワタリガニの恩返し。
だとしたらありがたい。
俺、背泳しか出来ないんだよな。
「貴方様の度量の大きさを見込んで、お願いがございます」
「恩返しじゃなかった」
「どうか私をお救い下さい」
「もう既に一回救ったじゃん」
「どうか私をお救い下さい」
「二回言ったな」
「どうか私をお救い下さい」
コイツ、俺が「どうしたんだ、事情を話せよ」とか言わない限り、同じ言葉を繰り返すつもりだな。
ワタリガニの癖に押しが強いと言うか、図々しいと言うか。
まぁ、ワタリガニの癖にと言いつつも性格など知る機会もなかったし、もしかしたら全ての個体がこういう感じなのかもしれない。
食べる時以外も面倒臭いんだな、ワタリガニって。
「……どうしたんだ、事情を話せよ」
ワタリガニの背後に『パァァァァ!』という擬態語が見える。俺は眠るのを諦め、ベッドの上で姿勢を改めた。
「こちらをご覧いただきたいのです」
そう言ってワタリガニは、右のハサミで甲羅の左下を指した。
爪で弾けばコツコツと言いそうな硬いオリーブ色の甲羅の上に、黒い小さな丸っこい塊がある。
「……カニビルの卵?」
「そうなのです!!」
『ワァァァァン!』という擬音語が文字となって見えるぐらい、ワタリガニは激しく嘆き始めた。
「この私のつるりとしながらもエッジの効いた美しくモードな甲羅に、この下衆なカニビルの卵が巣食ったことによって、ワタリガニ株は大暴落し、
「待て待て、エッジの効いたモードな甲羅って何だ。大暴落で損失ってことはワタリガニ株は上場してんのか。プライムか? スタンダードか? て、そもそも東証な訳ないよな。経済界の漢字も今ちょっと違っただろ。全ワタリガニって全米みたいに言うな。大体ワタリガニの仕事って何なんだよ」
一息で言ってやった。
疲れた、息も切れるし血管も切れそうだ。
全部の箇所にツッコミを入れたつもりだが、抜けていたら各自で勝手に足してくれ。
「一時は五万を超えていたのに、今では二万円台でございます」
「崩壊してんな」
その前に、何があってそんな高値だったのかを知りたい。
日経平均だって
「株主たちがそれはもう大慌てで泡を吹いております」
「何てカニらしい焦り方なんだ」
息も絶え絶えじゃないか。
「こちらの下落に伴ってカブトガニ株やタラバガニ株も大きな影響を受けているとのこと」
「カニだけでどんだけあるんだ。ていうか、カブトガニもタラバガニもカニの仲間じゃないだろ」
「私の仕掛けたトラップにも引っ掛からないだなんて、流石でございます!」
「恩人を試すとか、ふてぇカニだな」
「ズワイガニ株は安定した高値で大変優良株でございますよ」
「カニの株の話はもういい」
人間が買えない株情報などいらん。
デジタル時計の表示をチラリと見る。
時刻は深夜一時半を過ぎていた。
「そのカニビルの卵をどうして欲しいんだ」
ワタリガニの意識がマーケットの数字から自身に付いているカニビルの卵に戻ったらしく、「ギャッ!」と悲鳴を上げた。
「この
「それがいっぱい付いてるのが旨いカニの証拠だって聞くけど」
脱皮したばかりのカニは殻が柔らかく、身の入りが悪いため美味しくないという。カニビルは硬い甲羅に卵を産み付けるため、この卵がたくさん付いているということは脱皮から時間が経過していることを意味し、身も締まっている証だと言われている。
「美味しいカニってことを周りに自慢出来て、良いじゃないか」
「貴方様の想像力はプランクトン以下なのですか!!」
ワタリガニがハサミをぶん回して怒っている。
「貴方様のぽよぽよと柔らかな腹に卵を産み付けられてご覧なさい! 単純に気持ち悪いでしょうがぁ!」
「お前、俺の腹を見たのかよ」
「見なくとも分かります」
「濁ってるのに」
「私の視界の広さを馬鹿にするならハサミでちょん切りますよ」
「何をだよ!」
「カニ定事件です」
「止めろ、全然上手くない」
『阿部』と『カニ』なんて、字数しか合ってないだろうが。
しかもそれじゃあカニの種類が特定出来ない。
冤罪が生まれるぞ。
あぁ、明日の朝は五時半起きだというのに、このままじゃ確実に寝不足だな。課長が出張でいないから、無駄に張り切る係長の姿が目に浮かぶ。あくびのひとつでもしようものなら即座に注意が飛ぶだろう。
なんかもう、色々面倒になってきたな。
俺は興奮しているワタリガニに向かって提案する。
「ついて来いよ」
ベッドから降りると、俺は寝室のドアを開けて廊下に出た。
フローリングの上をカサカサとワタリガニの這う音が聞こえる。
子供が生まれて以降、妻は子供に添い寝をするために俺と寝室を別にしたのだが、まさか妻ではなくカニに夜這いを掛けられるとは想像もしていなかった。
二人の眠る部屋の前を通りキッチンの電気を付けると、俺はワタリガニを持ち上げた。
「どうなさるおつもりですか」
「お前を救う方法を思い付いたんだよ」
ワタリガニをシンクに置き、水を入れた鍋を火に掛ける。
「その鍋は何に使われるのですか」
「湯気を当てると驚いた卵が剥がれると、以前テレビでやっていたのを思い出したんだ」
「なるほど」
その方法はカニ界には伝わっておりませんが、と喋るワタリガニの頭上に、蛇口からひねりだした水道水を浴びせる。
「あばばば、この水は何に使われるのですか」
「人間の世界では精神統一のために滝行をすることがあるんだ」
「なるほど」
過酷なことに耐えてこそ、願いが成就するということでございますねとワタリガニは感嘆した。
鍋の中の水がぼこぼこと沸騰している。
最大火力によって、あっという間に水は熱湯へ変化した。俺はワタリガニに塩をまとわりつかせる。
「この塩は何に使われるのですか」
「塩には悪霊退散や魔除けの効果があるんだ」
「なるほど」
確かにこのカニビルの卵は黒くて、邪悪な気配をビシビシと感じますと、ワタリガニは深く頷いた。
「これぐらいでいいだろう」
俺はぐらぐらと湧いた鍋の上に、ワタリガニをかざした。
「おぉ、これは熱いですな。サウナにでも入っているようです」
「海にサウナがあるのか」
「勿論。私のいた海にはサウナ海というエリアがございま」
ぼちゃん。
「すまん、手が滑った」
「熱い! 熱い! 何をなさるのですか!」
「カニビルの卵の取り除き方を教えてやるよ」
鍋の中でぐらぐらと茹でられながら、ぎゃあぎゃあと甲高い声でワタリガニが叫ぶ。
「タワシで
『嫌です』『お助けを』と言いながらガシャガシャと暴れるワタリガニに向かって、俺は言う。
「加熱すりゃ卵は死ぬんだし、お前ももう悩まされなくて済む。これ以上の救済はないだろ」
なぁ、と呼びかけたが、ワタリガニからの返事はなく、オリーブ色だった身体は真っ赤に染まっていた。
「あ、怒ってやんの」
俺は火を止めて茹で上がったワタリガニを掬い、ザルに上げると、キッチンの電気を消して眠った。
翌朝、突如現れた茹でワタリガニの姿に驚いたのか、妻の大声で目が覚めた。
「なんなの、これ」
「ワタリガニ」
「そんなの見たら分かるし。何であるの」
俺はどうしたものかと考える。
本当のことを言っても、リアリストの妻はきっと信じないだろう。
なら、こう言うしかない。
妻に向かって、俺は答えた。
「ワタリガニをすくったんだよ」
カニをすくう もも @momorita1467
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