乳母車

二ノ前はじめ@ninomaehajime

乳母車

 背の高い女性が乳母うばぐるまを押していた。

 折り畳みができるベビーカーとは違って、四輪の古めかしい台車の上に木の枝でかご編みをしたバスケットが載っていた。灰褐色をした材料が用いられており、どこか形がいびつで目が粗く、負荷がかかれば折れてしまいそうな危うさがあった。わずかに透けた暗色の日除ひよけが覆い被さり、遠くからでは中に居るであろう幼児の姿は確認できなかった。

 何より目を引いたのは、乳母車を押している女性の容姿だった。絹に似た、長い金髪。付け襟のファーが膨らんだ、真っ白なケープコート。白絹の薄い手袋を嵌めて、やはり白いレーススカートを履いている。複雑に描かれている模様は、桑の葉を散りばめているのだろうか。

 黒いガーデンハットを目深まぶかに被っており、素顔はよく見えない。ただんだ口元の透ける色と、垣間見えた金色の瞳に息を呑んだ。異国人、という表現が頭をよぎった。

 彼女は乳母車を押しながら、ガーデンハットのつばの下から長い髪の毛を垂らして、バスケットの中身を覗きこんでいる。子供がぐずっているのか、くぐもった泣き声が聞こえた。どうやら乳母車の子をあやしているらしい。つやめいた唇が上下している。何と言っているのかは聞こえない。

 浮世うきよばなれした容姿を除けば、泣き止まない赤子に手を焼く若い母親なのだろう。それでも平々凡々な住宅地の路地ですれ違うには、奇異な存在に思えた。

 日差しが影を落としている。乳母車の車輪が回転する音とともに、編んだバスケットの中にいるであろう幼児の泣き声が大きくなる。二人いるのだろうか。声が重なって聞こえた。

 まじまじと母親の顔を見るつもりはなかった。ただ無意識に目が吸い寄せられる。金色をした目を細めて、左目には白い眼帯を巻いている。前のめりでバスケットの中身を覗きながら、こう呟いている。

「もう少し待っていてね、じきに羽化するから」

 その声音は優しかった。ただ言葉の意味がわからない。羽化、とは何を指すのだろう。何かの比喩表現だろうか。

 彼女は、こちらには頓着とんちゃくしなかった。バスケットも隠されてはいない。だから目に入った。編みかごの中で、四方に糸が張り巡らされていた。その中心には楕円形をした白い塊があり、まゆに見えた。

 ちょうど赤子が入る大きさの繭の中から響く、重なった泣き声が耳朶じだに触れる。そのまま乳母車の女性とすれ違った。彼女の呟きが耳から離れない。

「もうすぐ会えるからね、お母さん」

 背後でその車輪の音が遠ざかっていった。

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