きせい日記

わたねべ

きせい日記

2024年7月24日(水) 晴れ時々曇り


 夏休みに入り、教授から渡された日記帳を手に、故郷の村へと帰省した。都会の喧騒の中とは違う、穏やかな時間がゆっくり流れる。


 夏を告げるセミの声、風に乗る草の匂い、そして遠くに見える山の稜線。

 この穏やかな風景は、現代の日本においては当たり前のものではなく、むしろ贅沢な部類に入るだろう。


 さて、フィールドワークや情報整理の練習として、教授は僕たちに日記をつけるよう指示した。


 しかも、これは課題の一環であるため、小学生の絵日記とは違う、情景の細部までを想像できるような質の高いものが求められている。


 実際のところは教授の研究分野である、行動科学のデータ収集に使われているような気もするが、持ちつ持たれつ、面倒ではあるけれど、協力することにしよう。


 この日記帳も、いかにも研究者の教授が選びそうな、装飾のないシンプルな黒い表紙だ。手触りは妙に滑らかで、紙の厚みもずっしりとしている。手に取った瞬間、微かにひんやりとした感触があった。


 日記など久しぶりに書くが、僕のおかれている環境や感情が、うまく読み取れるようにかけているだろうか。面倒とは言ったが、書き始めると意外と筆が乗ってくるものである。


 明日からもこの調子で続けていきたい。


◆◆◆


2024年7月25日(木) 曇り


 今日は昼過ぎに散歩に出かけた。目指したのは村の鎮守の森にある神社だ。鳥居をくぐり、両脇に背の高い木が並ぶ石段を登り始めたその時、前方から奇妙な音が聞こえてきた。


 次第にそれは人の声だとわかった。甲高い、耳をつんざくような奇声だった。虫や熊でも出たのかと思い、驚いてその場で固まっていると、その声は近づいてきた。


 声の主は、髪を振り乱し、狂ったようにこちらへ走ってくる女性だった。

「大丈夫ですか!」と声を張り上げたが、彼女は僕にかまうことなく走り去った。


 何が起こったのかわからず、僕も恐怖に駆られて石段を下りた。すると、彼女は相変わらず奇声を上げながら、すごい勢いで走り去っていくのが見えた。


 結局その後、村に帰るまで何もなく、少し拍子抜けだった。ただ一つ、せっかく夏なので、少しぞっとする話をしてみよう。


 僕は、彼女の背中を追って逃げている最中、彼女のわきに抱えられたあるものが目に入った。


 それは僕が教授から渡されたものとよく似た、装飾のない黒い日記と同じものに見えた。この日記を持つものだけに見えるお化けでもいるのだろうか。そう思わせるほどに彼女の焦り方は尋常ではなかった。


 いかにも既製品というシンプルな日記にそんな効果があるとも思えないが、とにかく僕と同じ日記を持っているように見えたのだ。


 日記を書き始めてすぐに、いかにもネタになるような出来事が起こってしまったが、これは決して創作ではないということをここで強調しておきたい。


 日記に書き記すことで、少しだけ胸の内にあった気味の悪さが和らいでいくのを感じる。ちょっとした散歩に出かけただけのはずが、とんでもないことになってしまったものだ。


◆◆◆


2024年7月26日(金) 晴れ


 昨日の出来事のせいで、少しばかり寝不足気味な体に鞭をうち、祖母の家へ向かった。


 久しぶりに会う祖母と話をしながら、祖母が育てているという花を見て回った。


 どれもこれもこの猛暑の中でも力強く花を咲かせていた。いかんせん表現力にかけてはいるが、とにかくどれもきれいだった。


 祖母の家で昼食をとっていると、「疲れた顔をしている」と心配してくれた。


 昨日神社の方で変な女を見て、それが気になっているという話をすると、祖母は「めったに販売されないが、あの神社にはご神木から作られた彫刻の入った魔よけのお守りが売られることがある。」ということを教えてくれた。


 変なものが見えたとしても、そのお守りがあればきっと守ってくれるとのことだ。


 別に呪われるだとか、お化けに取りつかれるだとかの心配はしていないが、どうも胸に不安が募っているため、おまじない程度に、またあの神社にそのお守りを買いに行ってみようと思った。


 懐かしい味のする煮物と、採れたての夏野菜の天ぷらをたらふく食べ、食後に縁側でぼんやりと庭を眺めていると、村ののどかさに心が洗われるようだった。


 ただ、ふとした瞬間に、あの女の奇声が耳の奥で響くような気がして、思わず身震いした。


 夕方になると祖父が仕事から戻ってきた。周りに邪魔するものがないこの土地では、夕焼けが、空だけでなく地面までも真っ赤に染め上げていた。


 お酒が飲めるようになった私に喜んだ祖父が、深酒をしたようで祖母はうれしそうな顔をしながら世話を焼いていた。


◆◆◆


2024年7月27日(土) 晴れ


 今日は朝からよく晴れた。祖母の畑で採れたばかりの野菜を、村の小さな集荷場にもっていく。ここから道の駅などに配られていくらしい。


 集荷場では、村人たちが談笑していて、穏やかな光景が広がっていた。


 ふと、市場の一角で立ち話をしている人々の会話が聞こえてきた。


「…また一人、おかしくなったらしい」「今度は誰だい?」「あの山道の奥のところの。」「あぁ、そこの子か......」


 まさか、僕が見たあの女性のことだろうか。話の内容はそれ以上は聞こえなかったが、「また一人」という言葉が引っ掛かった......。


 しかし、あまり聞き耳を立てて長居するのも変なので、うわさ話に耳を立てるのはほどほどに、家へと帰った。


 午後は居間でテレビを見たり、昼寝をしたりしていたら一日が終わってしまった。何もしなくてもご飯が出てくるというのは素晴らしい。まさに夏休みという感じがして、だらだらしているだけなのに満足感があった。母親様々である。


◆◆◆


2024年7月28日(日) 雨


 帰省してから初めての雨が降った。


 朝からどんよりとした空気が流れているが、村はざわついていた。どうやら村の中で自殺者が出たらしい。狭い村であるためどうしてもざわついてしまうのだ。


 そんな僕も日記に書くネタになればと、野次馬根性で現場に近づこうとすると、警察官に止められた。


 それもそうかと、現場を見るのはあきらめて、付近で聞き耳を立てていると、耳に入ってきたのは「最近、わけのわからない奇声を上げていた」「明らかに錯乱していた」という言葉だった。


 もしかしたら、先日僕が見かけたあの女性だろうか。


 奇声と錯乱。そう考えると、あの時の彼女の形相と声がまざまざと蘇る。


 彼女には一体何が起こったのか。「また一人」と言っていたがこの村では僕の知らない間に何かあったのだろうか。


 自殺現場に、あの時見た、僕と同じ日記がないか確かめたかったが、現場は規制されていて確認することはかなわなかった。


 しかし、こんな悲劇もまた、この日記にとっては貴重な記録となる。


 少し不謹慎かもしれないが、僕は今この日記を読んで驚いている教授の顔を思い浮かべて、ワクワクしている。


 早くこの日記を読んでもらいたいという気持ちがふつふつと湧き上がっている。


◆◆◆


2024年7月29日(月) 曇り


 昨日の雨とは打って変わって、今日は晴れ間が見えた。今日は実家から少し離れた場所にある小さな図書館で、昔の郷土資料を調べてみた。


 村の歴史や言い伝え、古文書などを読み漁った。


 昔からこの村では、奇妙な出来事が起こると「山からの祟りだ」とか「悪霊の仕業だ」などと言って、ことあるごとにあの神社で祈りをささげていたらしい。また、祖母が話していたお守りの話も見つかった。


 ただ、人間が発狂するような祟りや、化け物が出るといったような文献は見当たらなかった。


 よくある、干ばつを解消するための祈祷やはやり病に対するお祓いのようなものがあったというだけであり、この村特有の何かがあるわけではなかった。


 だとすると、あの女性はただただ精神がおかしくなってしまっただけなのだろうか。年甲斐もなく芽生えた冒険心は、インクと古い紙の匂いにかき消されてしまった。


◆◆◆


2024年7月30日(火) 晴れ


 今日は先日行くことのできなかった神社に行った。


 前回のリベンジということもあるが、祖母の話や図書館の文献の中にあった、お守りが気になったからだ。


 めったに販売されないということなので、期待はしていないが、もしかしたらという淡い期待を抱いて神社に向かった。


 先日と同じように鳥居をくぐり、背の高い木々が並ぶ石段を上る。少しドキドキしていたが、何事もなく階段を登りきることができた。


 小さい頃にも何度か来たことはあるが、大人になってから見るとまた違った趣があった。


 建築のことなど全くわからないが、軒下や柱の装飾を見て回り、それっぽくうなづいてみたりした。


 ひとしきり境内を見て回った後に、鳥居の正面にある一番大きな社殿で鐘を鳴らし、手を合わせた。先日の出来事を早く忘れられるように、また、少し恥ずかしいが家族の健康を祈ってみた。


 拝み終わったところで、売店を見てみると合格祈願や安産祈願のお守りがたくさん並ぶ中に、一つだけぽつんと厄除けのお守りが並べられていた。


 売店にいた巫女さんに聞くと、どうやらこれが例のお守りとのことらしい。さっそく参拝した効果があったなと思いながら、お守りを購入した。


 今日はいい気分で眠れそうだ。


 お守りも買えたし、そのおかげで、面白い日記を書くこともできた。


 僕はいつの間にか日記を書くことにはまっていたらしい。日記を書くために、日々の出来事に対するアンテナは以前よりずっと鋭敏になり、これまで見過ごしてきた日常の細部にまで、深く目を凝らすようになった。


◆◆◆


2024年7月31日(水) 晴れ


 今日は朝から、ゼミでのミーティングに参加した。


 休み中であるため、任意参加であったが、ほかのメンバーがどんな日記を書いているのか気になったため、参加することにしたのだ。


 意外なことに皆、休み中だというのに参加していた。どうやら同じ考えらしい。


 ミーティングはとても充実していた。皆、それぞれの環境で、観察眼を研ぎ澄ませているようだった。


 中でも、普段はあまり話さないような同級生が、驚くほど詳細で引き込まれるような記録をつけていたのが衝撃的だった。


 周りの魅力的な日常を書き綴った日記を見て、少し焦りを感じた。


 彼らの日記に描かれた、一見すると些細な日常の出来事が、なぜか僕には途方もなく魅力的に見え、このままでは僕の日記が霞んでしまうと、ひどく焦りを感じたからだ。


 僕ももっと面白いことを書かなければ......。


 午後は特に予定もなかったため、何か面白いことはないかとぶらついていると、近所の子供たちがカブトムシを捕まえているのを見かけた。


 無邪気に虫かごを覗き込む姿を見ていると、心が和んだ。今では虫が苦手になってしまったが、僕も子供の頃は、よく虫取りをしていたものだ。


 あの子たちが、明日行方不明にでもなってくれれば、面白いネタになるんだけどなあ......。なんて考えていると、いつの間にか夕暮れ時になっていた。


 夏のぬるい風に乗って聞こえてくる、野鳥の声を聴きながら、家路へと就いた。


◆◆◆


2024年8月1日(木) 晴れ


 今日も特に変わったことはなかった。先日のお守りの効果だろうか。初めの一週間に比べて、まったくもって平和なものだ。


 特にやることもなかったため、朝から祖母の畑仕事を手伝い、トマトやキュウリを収穫した。土の匂いを嗅ぎ、太陽の光を浴びていると、心身ともに健康になるような気がした。


 ただ、あまりに平和な時間を過ごしていると、まるで日記帳が僕を見つめているような、奇妙な感覚に襲われた。面白い日記を書けないことが、僕自身もどかしいのだろう。


 自分がここまで日記を書くことにこだわるようになるなんて、と、僕は少し驚いていた。もちろん、この日常をどれだけ鮮明に書けるか、という教授の出した課題に思いのほか熱中しているというのもある。


 だが、それ以上に、ほかのメンバーに負けないような魅力的な日記を書きたいという強烈な欲求であふれていたからだ。


 とはいえ、嘘を書くわけにはいかない。だから、誰かまた自殺して、それが連続事件にでもなってくれれば、面白いネタになるのに……なんて、不謹慎なことを考えながら、今もこの日記を綴っている


 こうしていると改めて、田舎の良さを感じた。


 車の音も余計な明かりもない、魅力的な静けさに満たされた部屋で、明日は何か良いことが起きないかと、布団の中で妄想を膨らませる時間は、この上なく贅沢だと思えた。


◆◆◆


2024年8月2日(金) 曇り


 証拠及び記録として、この日記に今日の出来事を記す。


 僕は今日、祖母を用水路に突き落として殺害しようとした。


 動機は日記に書くネタがなかったからだ。僕は何の違和感もなく、ただその空白を埋めるためだけに、祖母に手をかけようとしたのだ。


 今日僕は、先日自殺した女性はなぜ奇声を上げていたのか、「また一人」とはいったいどういう意味なのかを調べようとした。


 しかし、それは朝母親に話したことであっさりと解決してしまった。


 最近村のはずれに精神病患者の治療施設ができて、そこから脱走した患者が、続けざまに二人自殺してしまったというだけの話らしい。確かに、田舎で農業を体験させることで健康な心と体をはぐくむといった話を聞いたことがあるし、本当に何でもない話なのだろうと思った。


 僕はあまりにもつまらないその結果に落胆し、自分で、日記に書けるようなイベントを作ればいいじゃないかと考えた。


 そうして僕は祖母を用水路に突き落とし、殺害しようとした。


 祖母を殺そうとしたとき私は畑の土に足を取られてしりもちをついた。そしてそのはずみで、お尻のポケットに入れていたお守りを踏みつぶした。


 声が出るほどの痛みで、とんでもないことをしようとしていたと気が付いた。お守りを見るとそのお守りは壊れていた。前向きにとらえるならば、僕のことを守ってくれたのだろう。


 その後、僕はすぐに家に戻って、自分の書いた日記を確認した。


 明らかにおかしかった。いくら日記を書くためとは言え、他人に不幸が降りかかることに何の違和感も感じていないようだった。


 いや、あの時はそんなことに違和感は感じていなかった。ただただ、日記のためにという、ある種純粋な思いのみを抱えていた。


 僕はこの日記がとても恐ろしい。

 教授はいったい僕に何を渡したのだろうか。


 思えばミーティングの時に聞いたほかのメンバーの日記も驚くほどに、興味をひかれる内容ばかりだった。


 いくら彼らが優れた観察眼を持っていたとしても、全員が衝撃的な出来事に遭遇し、それを綴っていたはずがない。彼らもきっと私と同じようなことになっているのだろう。


 僕はきっと、教授の渡してきたこの日記に取りつかれていたのだ。もしかしたら、教授自身も取りつかれていたのかもしれない。こんなことはあり得ないという思いもあるが、そうとしか考えられない。


 僕はきっとあのまま日記を書き続けていれば、教授と同じようにほかの人にも日記を書くことを進めていただろう。

 

 多くの人の生活を知ることが、そこに綴られた内容こそが、僕に寄生する日記の活力となるからだ。


 そう考えると背筋が凍るほど恐ろしかった。


 日記を書く人を増やすことが、多くの人が書いた日記を見ることが、僕を支配していた日記の目的だとしたら...。日記は僕に寄生して、その個体数を増やそうとしていたのではないのだろうか。


 いま僕は、日記のために文字を書いているわけではない。自分のために日記を書いている。

 

 その事実のみが自分を正常だと裏付けてくれている。


 しかし、もう恐怖に耐えることはできない。この一文を最後に、僕は日記を書くことをやめ、神社で供養してもらうことにする。


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