Scape Goat
秋犬
贖罪の山羊
青。白。青。白。そしてくすんだ赤。
おれの目の前に延々と広がっている青と白。どこまでも晴れ渡った青空と白い砂漠。おれの足跡は砂に刻まれずに時間が経てば流れて消え、空はいつの時間でも真っ青であった。だからおれはここがどこで、おれが誰であったのかを覚えていない。いつからこの砂漠にいて、どこから俺がやってきたのかがわからない。
唯一、おれの手首には赤く錆びた枷が嵌められている。両手首に嵌まったそれの間に短い鎖が渡されていて、おれの手の自由を不完全に奪っていた。幸い足に枷はないので、おれは砂漠の中をどこまでも歩いていけた。どこまでもどこまでも広がる砂漠はおれの体力を吸い取り、おれは飢えと渇きに喘ぐことになる。水。そんなものはこの砂漠に存在しない。空を見上げても雲ひとつないこの場所で、雨など降るわけがない。おれは喉をかきむしり、ただ白い砂の上を
おれは何故枷を嵌められているのか。
おれは何故この砂漠を歩いているのか。
おれは一体、誰なのか。
浮かんでは消える思考は、渇きの果てに蒸発する。
ここはどこでもいい。
おれはだれでもいい。
みずを、みずをくれ。
水を求めて望みのない行進をしたおれは、白い砂地に倒れ伏す。既におれの足跡は消えて、おれが生きている痕跡は今ここで倒れているおれだけである。もしおれがここでくたばれば、骨くらい残っておれが生きていたことを伝えるだろう。見上げた空はどこまでも青かった。雲ひとつない、青空。おれもこの青の一部になるのか、それとも白の一部になるのか。全てはどうでもいい、おれの生き様など誰も知らないのだから。おれですら、おれを知らないのだから。
ざらり ざらり
意識が白の底に沈みかけると、必ずそいつは現れた。白い砂漠に現れる、角の生えた白い獣。おれはそいつを見つけると猛然と駆け出し、抵抗しないそいつの喉笛を噛みちぎる。獣は苦悶の声をあげ、倒れ伏す。おれは獣の喉から溢れる赤い血を啜る。
白い砂地に、赤い血が零れていく。
おれは血をできるだけ多く飲み干そうとする。血が出なくなったら、そいつの肉を食らう。おれの全身は真っ赤に染まり、青と白の世界に赤が混じる。そいつの胃、心臓、腸、目玉、全部食らう。赤は生きている色だ。おれの青と白の世界はいっとき、赤に染まる。
全て食べ終わるのに、どのくらいの時間がかかっているのかはわからない。それでもおれは白い獣に感謝するために骨になるまで丁寧に食ってやる。砂地に染みた血が消えて、赤がなくなっても、おれは骨についたわずかな肉をこそげ続ける。おれの命を繋いだ、白い獣をもう一度白くするために。
ついに真っ白になった白い獣を見ると、おれは毎回同じことを試したくなる。白い獣には、角が生えている。おれは角を頭蓋からへし折るとおれの歯で角を削る。おれの歯が痛んでも気にするものか。おれは角を噛み続ける。
こつこつ こつこつ
そうして、角の先端が鋭くなるまでおれは骨を愛する。骨は既に真っ白で、あれだけ真っ赤だった世界は再び青と白に戻っていた。おれの手枷の錆だけが赤を
長い逡巡の末、おれはようやく角を自分の喉元に突き刺すことができた。痛みは多分、あるのだろう。白い角を引き抜くと、おれに食われたあの白い獣のようにおれの喉からぶしゅりと赤が吹き出す。おれは白に倒れ伏し、そこら中が真っ赤に沈んでいく。
ああ、この青と白の地獄からようやく抜け出せることができる。
おれにとって赤は希望の色であった。生きる色、そして死ぬ色。おれの喉からはごぶごぶという奇っ怪な音が漏れ、無音の世界に生きている音が響く。赤い鎖ががらりと鳴り、おれの前から色が消える。おお、これが死だ。なんという優しさ。なんという包容力。おれの死に様を白い獣の頭蓋が見つめていた。もし再び会えたなら、君を友と呼ぼう。おれは白い獣の一部を胸に抱き、一切の動きを止めた。
どのくらいおれは眠っていたのだろうか。
おれの瞳に映っているのは青。青。青。起き上がれば青と白。青と白が再び俺の焦燥をかき立てる。おれの手に角はなく、傍らに白い獣の頭蓋もなかった。何も無かったのだ。おれの手枷の錆がいっとう濃くなった、そんな気がするだけだ。おれは立ち上がると、再び歩き始める。ここがどこか知るために。おれの手枷の意味を知るために。おれの心の静まる場所を探すために。
もし、おれを見ている誰かがいるならおれは尋ねたい。
一体、おれは何をしてしまったのだ。
どこへ行けば、おれは休まるのか。
何度死ねば、おれは許されるのか。
白い獣を殺すたび、おれの手枷の錆は濃くなっていく。がらがらと鳴っていた鎖は今やぼろぼろで、おれが歩くたびにぎしぎし擦れ合って赤錆が白い砂地にわずかに落ちる。しかしそれは標になどならず、白い砂地がすぐに飲み込んで俺の足跡は残らない。永劫の青と白に閉じ込められて、おれは考えることをやめていた。
歩みを進めながら、おれは何故白い獣の墓を作らなかったのかと後悔した。おれが死ぬ前に、獣の死をもっと悼むべきだった。骨をそのままにしてしまったから、跡形も無く消えてしまったのだ。後悔がおれを罪人に駆り立て、おれに手枷の意味を考えさせる。青と白と、そして赤い手枷。手枷が錆びてすり切れたら、誰かが応えてくれるだろうか。この誰もいない砂漠で、救いようのないおれを。
***
いよいよおれの手枷が錆びて今にも壊れそうになったころ、おれの前に白い獣ではないものが現れた。そいつはいつもの獣みたいに毛むくじゃらでなくて、毛は頭とそれ以外にぽつぽつ生えているだけの生き物だった。真っ白な肌に凹凸があり、瞳は空と同じ青だった。
女だ。
おれは即座に思い出した。女という生き物がかつておれのそばにいたのだ。おれは女に駆け寄った。女はおれに驚くことなく、おれを受け入れた。不思議な心持ちであった。青と白の世界に、光が現れたのだ。
女はおれを怖がらず、おれに従った。とても美しい女だった。頬は赤く、髪は天の川のように豊かに流れ、白い肉体はおれの悲しみを慰めた。そうだ、おれは悲しかったのだ。このような土地で、獣のように肉を食らっているおれが惨めで仕方なかったのだ。そんなことすら、この女に出会うまで思い出せなかった。女は何も言わなかったが、おれに寄り添った。おれの乾いた心は女で埋め尽くされていった。
おれは女を連れて砂漠を歩いた。女は歩きにくそうにおれの後ろを歩くので、おれは女の手を引いた。女は俺を見て、うっすらと微笑む。美しい顔だった。おれは女を抱きしめた。砂漠に咲いた花。花とは、何だったであろうか。美しく、綺麗なものであった。俺は女を花だと思った。花は良い匂いがした。おれは花を愛することにした。
女を連れていく間に、おれは女に何度も問いかけた。お前は誰だ、どこから来たのだ、おれとお前の他に誰かいるのか、白い獣を知っているか。どの問いにも女は答えず、黙ってにこりとするばかりだった。女は言葉を知らないのかもしれない。そんな女が愛おしくて、おれは女を愛した。おれが女を愛するときだけ、女は鳴いた。か細い求愛の声が、おれはたまらなく好きだった。おれの手枷がぎいぎいと女に呼応する。鎖はもうじき壊れそうだった。
おれは何かを思い出そうとしていた。
そうだ、おれはこの女を愛していた。
でも、いつ、どこで知り合ったのか思い出せない。
手枷が嵌められる、ずっとずっと昔のことだ。
思い出したい、お前を思い出したい。
おれは手当たり次第に女に話しかけた。途端に、おれの世界に青と白以外がやってきた。親兄弟は、生まれ故郷は、好きな食べ物は、好みの服は、様々な言葉がおれの中から溢れてきた。
信仰は、戦いは、夫は、子供は、生きる価値は。
おれがどれだけ言葉を尽くしても、女は言葉を話さなかった。その代わり、おれの口に手を当てて「黙ってちょうだい」という仕草をした。女に言葉はいらないのだ。おれは女と話が出来ないのが悲しくなり、女を愛した。女は鳴いて、おれに応えた。
こうしておれは女を愛し、女はおれに愛された。何度も何度も女を愛するうちに、おれは女を愛するためにはこんな砂漠にいてはいけないと思うようになった。砂ばかりの土地では、女が休まるところがない。おれはどうでもいいが、女を休ませる場所が欲しかった。おれと女が彷徨っているうちに、おれの体力が底をつき始めた。おれは白い獣が現れるのを待った。
しかし、獣は現れなかった。おれが立てなくなっても、獣は一向に現れなかった。おれが砂地に倒れ伏し、青と白の焦燥に駆られていると女がおれを覗き込んだ。そうして、おれの手をとり、柔らかな胸の肉に押し当てる。そして、はっきりこう言った。
わたしを、たべて。
それは美しい音だった。乾ききったおれの瞳から涙が
たべられるものか、きみを。
おれは即座に答えた。赤い手枷がざりざりと音を立てる。引きちぎれれば壊れそうなほど、手枷は錆びていた。女はおれの手を胸から頬に押し当てて、はっきり告げた。おれの手が濡れた。女の瞳も濡れているのだ。
これが、あなたのばつなのよ。
罰。ああ、おれは罰を受けているのか。獣のように彷徨って、獣のように獣を食らい、愛した女を食らうのが、おれの罰なのか。おれは一体何をしたんだ。おれの罪が思い出せない。罪もわからず罰を負う。罰を食らって、罪を忘れる。一体おれは、何なのだ。
おれは最後に女を愛した。おれは女の髪に隠れた首筋を愛撫する。白くて、柔らかくて、とてもおいしそうな、肉の部分。女に苦痛を与えたくなかった。それでも、死の瞬間は苦悶が伴った。おれは女の血を浴びた。生きた証がそこら中に広がった。女はおれを、最後まで愛し続けてくれた。
おれは女を食らった。うまい女だった。今まで食べた白い獣よりも、格別にうまかった。おれは涙を流しながら女の血を啜り、女の肉を貪った。おれの手枷は更に赤く染まり、おれの手は血で濡れた。女の目玉、心臓、内臓。全てをおれは腹に収めることにした。そうしなければ、女に申し訳が立たなかった。女の頭蓋が俺を見つめている。もうおれを愛していない、空っぽの瞳を取り出しておれは飲み込んだ。形のよい耳を、筋の通った鼻を、愛を囁いた唇を、全てを腹に収めなければ。
食らっているうちに、女のことを思い出した。
初めて女に出会った日のこと。
おれが愛に初めて触れた日のこと。
女の口に紅をさしてやった日のこと。
女に子供が生まれた日のこと。
世界が滅んだ日のこと。
そして、おれがこの砂漠に連れてこられた日のこと。
女はおれが白に還した。女の生きた痕跡は消え失せ、白い肉は白い骨へと姿を変えた。おれは泣き叫んだ。おれ自身を呪い、憎しみ、怒り、嘆き、そしておれをこんなところへ連れてきた奴らを激しく憎んだ。おれは、おれのやりたいように幸せを教えただけではないか。何故俺が罰を受けなければならないのだ。
俺は怒りのあまり、激しく身体を震わせた。すると、とうとう手枷の鎖がばじんと弾け飛んだ。赤い錆の塊が俺の血のように転々と白い砂地に飛び散り、俺の涙のように砂の中に吸い込まれていった。
今の俺ならわかる。この世界を作った傲慢な奴ら。俺をこの世界に閉じ込めて罰を与えた気になっている残酷な者ども。無知蒙昧を清いこととして推奨し、自分で生きることを取り上げる可哀想な連中。俺はただ、思うがままに生きたかったのに。俺はただ、女を愛したかっただけなのに。
どうして、女の名前を思い出せないのだろう!
俺の名前なんていらない。俺の地位も、身分も、職務だってなんだっていらない。許してくれともいわないし、永劫この荒野を彷徨うことになってもいい。俺は女の名前を思い出したかった。俺が愛し、俺を愛してくれた女の名前を。
俺は荒野を走り続けた。俺を拒絶する青と白の世界にも、どこか終わりがあるに違いない。そこにいるはずの正義や信仰を振りまく奴らを八つ裂きにしてやりたい。俺の前に獣や女を出現させることができるなら、俺のことを監視しているのだろう!
どこだ、どこにいるんだ。
俺はこの怒りを誰にぶつければいいんだ。
俺を嘲笑っている連中にか。
それとも、ここにいることに甘んじている俺なのか。
俺はどこまでも走り続けた。昼も夜もない荒野であったが、おそらく何日も何日も走り続けた。荒野はどこまでも続き、俺はいたずらに体力を消耗するばかりだった。そうして、俺は力尽きた。白い砂の上で俺は泣き叫んだ。
俺はどこへ行けばいい。
俺はどうすれば許される。
もう一度女に会いたい。
最後の最後まで叫び続けて、俺は力尽きた。
***
目が覚めると、おれの手に頑丈な手枷が嵌められていた。新品の、錆ひとつない手枷だ。空はどこまでも青く、大地はどこまでも白く続いていた。
果たして、おれは一体何故ここにいるのだろうか。
何か大切なことを考えていた気がするが、どうにもうまく思い出せない。とても美しい、何かがあったはずなのだ。おれは答えを求めて、立ち上がった。白い砂地はおれの足跡をすぐに飲み込み、おれの痕跡を消していく。いつまでも青い空はおれの感覚を狂わせて、おれの心にあった淀みを洗い流していく。
手枷が嵌められているということは、きっとおれは何か悪いことをしたのだろう。しかし、思い出せない。この手枷が自然に外れる頃は、何かを思い出せるだろうか。白がおれの足に絡みつき、青がおれの理性を奪う。おれは必死に神に祈った。
かみさま、ごめんなさい。おれをたすけてください。
神様はおれに応えてくれなかった。
そうして歩き疲れた頃、目の前に白い獣が現れた。きっと神様からのお恵みだ。おれは獣に飛びかかった。
〈了〉
Scape Goat 秋犬 @Anoni
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます