Log [02] : Synchro_Start

 三時間後。第九亀裂、東側進入地点。


 そこは、かつて「工業地帯」と呼ばれていた場所の成れの果てだった。

 巨大なクレーンは重力異常によって捻じ曲がり、錆びついた鉄骨が空に向かって牙を剥いている。裂け目から漏れ出す藍色の霧が、建物の影を不自然に歪ませていた。


 凪斗は、瓦礫の山に腰を下ろし、L-Strikerのブレードを調整していた。

 その時、鼓膜の奥で、現実の音とは違う「電子のさざなみ」が走った。


「定刻です。意識の同期リンクを開始します。斎賀 凪斗、抵抗しないで」

 雫の声が脳内に直接響く。先ほどまでのイヤホン越しとは違う。彼女の思考が、神経の隙間に滑り込んでくるような、生理的な不快感。


「……勝手に入ってくんな。お前の声は、冷たすぎて耳が凍るんだよ」

 凪斗は顔をしかめ、脳を焼くような高周波の感覚に耐えた。


「あなたの皮質醇コルチゾールレベルが上昇しています。

 拒絶反応はエネルギーの無駄です。

 深呼吸を。私があなたの神経系を『最適化』します」

「最適化だと……? オレを機械か何かと勘違いしてんのか」

「この任務において、あなたは私の『刃』であり、私はあなたの『目』です。

 個体としての感情は、演算のノイズに過ぎません」


 脳裏に、雫の姿がデータとして投影される。

 それは、現実の光より透明で、完璧な幾何学模様に縁取られた少女の幻影だった。

 彼女の視界が凪斗の視界に重なった瞬間、世界の色が変わった。

 錆びた鉄骨は「組成不明の劣化金属」としてラベリングされ、立ち込める藍色の霧は「次元汚染濃度 42%」という数値に変わる。


「……うげ、最悪だ。世界が数字のゴミ山に見えるぜ」

「それが『真実』です。あなたの曖昧な感性が見ているものは、脳が作り出した幻覚に過ぎない。

 ——ようこそ。ここからが、世界の『裏側アザーズ』です」


 霧の向こう側で、空間がガラスを割るような音を立てて砕けた。

 現実の物理法則が、また一つ、この場所から剥がれ落ちていく。


 視界が、一瞬だけホワイトアウトした。

 それは光というより、情報の洪水に脳が焼き切られるような感覚だ。

 足裏に伝わる感覚が、コンクリートの硬質さから、得体の知れない粘性を持った何かに変わる。

 鼓膜の奥で、雫の冷徹な声がシステムログと共に刻まれた。


「定位完了。候補生コード:No.2064──斎賀 凪斗、シミュレーション層・中層区へのエントリーを確認。」

「同じく、候補生コード:No.2349。……統制ユニット、H-07。榊原 雫です。」

「ミッションモード:S.E.L.(同期型エーテルリンク)作戦観測。制限時間は十五分です。」


 凪斗は回話せず、ただ静かに自分の足元を見下ろした。

 そこには、生理的な不快感を呼び起こす異様な光景が広がっていた。

 光源は、彼の正面にある。亀裂から漏れ出す青白い燐光が、真っ直ぐに彼を照らしているはずだった。


 だが、凪斗の影は──光に背を向けるのではなく、光の方へと向かって、前方に長く伸びていた。

 光を追いかけるように伸びる影。物理法則が根底から裏返り、因果が逆転した世界。


「……チッ、影の奴まで光に媚びてやがる。反吐が出るぜ」

 凪斗は短く吐き捨てると、影を自ら踏みつけるようにして一歩踏み出した。


「何を驚いているのですか。ここは既に、光子が直進することを放棄した領域です」

 雫の声が、凪斗の視神経を介して脳内に直接響く。

「影の方向はエネルギーの流向を示しています。あなたの未熟な直感ではなく、私の演算したベクトルの補正に従ってください」


「御託はいい。……で、今回の任務内容オーダーは何だ? ただの散歩じゃないんだろ」


「今回の評価任務 -[EX-02] の目的は、領域内に散布された『高密度エネルギー核』の回収。および、それを苗床に増殖した『浸蝕体』幼生群の完全沈黙です。」

 雫の言葉に合わせて、凪斗の網膜に三つの座標が冷たくマッピングされる。

「制限時間は十五分。一秒でも遅れれば、この領域のゲートは閉鎖され、あなたは永久に『影の側』の住人となります。……いいですね?」


「十五分か。カップ麺を五回も作れる」

 凪斗はL-Strikerの柄を握り直し、ブレードを起動させた。

「——十分すぎるだろ。行くぜ、缶詰女カンヅメおんな

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鋒界 〈エッジ・ブレイク〉 雪沢 凛 @Yukisawa

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