第16話【空を越えて】③
「ダメ。ボツ。――――面白くない。」
そんな冷たい声が響いたのは、五日後、重慶の【
アルノーはあの後ギリギリの時間で空港に辿り着いたが、待っていたグリフィスが驚いたのはトロイが一緒に現われたことだった。
彼はベルリンまでアルノーを送りたいからと言葉少なで、らしくなかった。
アルノーも、丁寧にチャーター機を用意してくれたグリフィスと、DIPAに感謝の言葉を言ったが、彼にしては言葉少なで表情も疲れというか、顔色が少し悪いように見えた。
とにかく時間までにアルノー・イーシャを絶対送り届けなければいけないので、三人乗りこみ離陸してもらう。
トロイとアルノーは個室の方に入って行き、グリフィスは通常の席の方に座って、三十分ほどは我慢したが、なにかトロイの口数少ない様子を心配して、いい話し合いが出来なかったのだろうかと個室の中を窺ってしまった。
グリフィスは正直、アルノーが会いに来てくれたからには、絶対にトロイはもう大丈夫だと思い込んでいたからである。
トロイが現われたとしても元気をすっかり取り戻して、いつもの「アル~!」という太陽みたいにはしゃいだ明るさに戻っていると思っていた為、気掛かりだった。
アーティストにもプライバシーはあるんだぞと思いながらも中を窺って、ロックされていない扉をそろりと開いて、グリフィスはきょとんとした。
やけに静かだと思ったら、中にある大きなソファにトロイとアルノーが寝そべって、まるで雛鳥みたいに身体も顔も寄せ合って、お互いに凭れて熟睡していたのである。
(なんだ)
二人の深く寝入る顔は子供みたいに無防備で、そこには何の不安もない。
ただの寝不足かと心配していただけに、からかわれた気分になって少し腹が立ったので、とりあえずその子供みたいな二人の寝顔は写真に撮っといてやった。
とにかく空港でアルノーを下ろし、なんとか打ち合わせに無事間に合ったことを確認して、グリフィスとトロイは華国にとんぼ返りしたわけである。
その飛行機の帰り道グリフィスは「アルと結婚する」とトロイに打ち明けられた。
もちろん、恋愛が結婚まで昇華した経緯は分からなかったが、では恋愛関係ではなく、イーシャさんと「結婚する」ことを公表していいんですねと確認すると、うんとトロイが頷いたので、彼は「分かりました」と頷いた。
トロイ・メドウは、どうも自分の立場が不安定で不鮮明であることに、非常なストレスを感じる人なのだということが分かったからだ。
例え恋愛関係を公表したって二人に結婚の意志がある以上、それをマスコミに隠せばいずれにせよ同じストレスになることは間違いない。
「イーシャさんもいいと言って下さったんですね」
重ねて聞くと、うん、ともう一度トロイが頷いた。
「良かったですね」
トロイがまだ見えるドイツの夜景を頬杖をついて眺めながら頷いた。
その横顔は優しくて、彼が心の底から安堵していることが伝わってきた。
アルノーはその次の日、ジブリル・フォラントに会い、事務所移籍の最終的な話し合いをしたのだという。
アルノーが出した決断は、保留、だった。
個人的には、ジブリルの事務所に移籍する決断は決まっていたのだが、結婚のことが決まったので先に自分の身辺をきちんとしないと、かえってジブリルの事務所に迷惑を掛けるとの判断だった。
結婚のことは話さなかったようだが、自分の移籍を、自分の会社の企業拡大のついでにはしたくないということを伝え、いい話をいただいたのに申し訳ない、サンアゼール・プロジェクトには他の人を使って下さい、と断ったようだ。
しかしジブリル・フォラントは「断る必要はないよ」と微笑み、例え移籍しなくてもプロジェクトには参加してほしいと改めて依頼をして来てくれたのだという。
アルノーはこれは、感謝しながら受諾した。
「君と一緒に大きな仕事をしてみたいんだよ。だからそれが出来るなら、他は問わない。
勿論、身辺が落ち着いたら、移籍の話はもう一度考えてみてくれ。
それまで待つよ」
彼はさすがの懐の深さで、また北欧に旅立って行ったようだ。
グリフィスの見立てではあまりにいい条件なので、将来的にはアルノーは移籍するのではないかと思っている。
(でももう、そうなっても、トロイさんは大丈夫ですね)
その後、アルノー・イーシャは三日間に渡ってベルリンで開催された『国際カーグラフィックス』という大きな展示会の共同ディレクションの仕事を無事に終え、
「面白くないってなんだよ!」
思わずトロイが怒った。
グリフィスもちょっと驚いた。この人に反対されると思ってなかったからだ。
そもそもバリーは二人の交際を聞いた時もその後も、いつでも好きな時に公表していいぞ~! と一貫して言って来たからだ。
「おまえ、アルとの交際反対したこと無かったくせに!」
「あの、社長……それは、恋愛関係の公表ならいいということですか? 結婚は、良くないとか、そういう……」
折角トロイとアルノーが綺麗にまとまったんだから、あんまり波風立てないでほしい……と思い、グリフィスが恐る恐る口をはさむ。
「まーそうだな。アルノーと恋愛報道なら別にいいぜ。騒ぎになる程度だし。
だが結婚はつまんねえ。一時騒がれても落ち着きゃ終わりだ。次に結婚した二人が話題になるなんて離婚した時くらいしかねーよ。
そんなの面白くねえ」
「俺とアルは離婚なんかしねえ!」
トロイがぷんぷん怒っている。
アルノーは隣で落ち着け、という風に彼の背中を撫でてやっていた。
「俺は騒がれたくなんかこれっぽっちもない! 話題性なんかなくていい。アルと一緒にいたいし、会うことを誰にも邪魔されたくない。それだけだ」
「社長……、トロイさんは本気ですし、この二人は今まで、会社に迷惑を掛けないように、気を遣ってきちんと交際をして来たと思いますよ。
トロイさんはこの会社所属のアーティストですけど、彼の人生です。
結婚のことは、本人が望むなら」
ダン!
とバリーが執務机に両脚を乗せてふんぞり返った。
「んなこた分かってる。別に結婚のことずっと隠せって言ってるわけじゃねえ。だが世間の反応は見る。
いいかあ、トロイ。お前は人気商売でもあんだから、恋愛も結婚も時期ってもんがあるんだよ分かるか?」
「分かんねーよ! なんで俺が結婚する時期、自由に選べないんだよ。ファンは大切だけどそんなことまで決められたくないし、口出す権利もねえだろ!
俺が結婚して離れて行くファンなんか、ファンじゃねえよ。芸能人だって結婚はする!
普通の人生生きてんだから!」
「アルノーが女なら、中途半端なことはさせねえよ。けどお前ら男同士だし、恋愛で噂にすらなってねえのにいきなり同性婚とかしてダイナマイト落とすな。そういう話題性には持続性がねえんだ」
「お言葉ですが二人は結構恋愛的な噂になってますよ。勿論、勝手に勘ぐってる人たちがいる程度ですけど」
「その指輪貸せ」
バリーが持っていた指輪の箱に、手を差し出したので、思わずトロイが庇うような仕草をした。
バリーが半眼になる。
「別に盗んで食わねえから貸せ!」
「お前が食わなくても側の鳥が食うかもしれねえだろ……」
クワァァッ! と極彩色の大きな鳥が鳴いている。
中の指輪を見てから、バリーはトロイをもう一度見た。
心配そうに指輪が帰って来るのを見ているトロイに、鬱陶しそうに指輪の箱を投げてやった。
手の中に戻った指輪に、トロイが安堵している。
「戻って来た」
隣のアルノーに嬉しそうに笑いかけると、アルノーもその笑顔に微笑ましそうに優しく笑みを返してやっている。
「分かった。トロイ、お前はその指輪つけていいぞ」
「おう。っていうかつけるなって言われても俺はつけたけどな」
「トロイはつけていいが、アルノーは当分指輪はつけるな。トロイの結婚が明るみになっても、相手は当分公表しない」
「俺、嫌だぞそんな思わせぶりなのは! 結婚したなら結婚したっていうし、誰と結婚したかまでちゃんと言う! だってそれを言わないことこそ、ファンに余計な気を使わせるじゃんか。
あと俺はともかくアルに命令すんな! アルはここの会社じゃないんだから!」
「うるせえ‼」
重い殴打音がして、バリーの踵落としが一生懸命喋っていたトロイの脳天に炸裂した。
思わずアルノーとグリフィスが同時に目を瞑る。
「別に死ぬまで黙ってろって言ってるわけじゃねーだろ! アルノーとの結婚のタイミングは俺が見極めて発表時期を決める!
俺様に口答えしたらぶっ飛ばすぞトロイ!」
「……ぶっ飛ばしてから言うなよ……」
しゃがみ込んで激痛の走る頭を押さえているトロイが苦し紛れに言い返した。
「大体の目安の時期はありますか」
アルノーが静かな声で尋ねる。
「来年こいつの十五周年アニバーサリーが始まるからなあ。そのことに集中してえんだよ。
だから今年いっぱいは公表はない。
ツアーが始まっちまえば、その流れに乗って結婚もしたって話には持って行きやすいな」
「確認ですけど、相手が誰かを明確に言わなくていいだけですね。
私とトロイはこれからは普通に会います。
勿論メディアの前で、トロイのファンが不快に思うほどにはイチャつくようなことはしないとお約束しますけど、もうトロイにこれ以上嘘をつかせたり、マスコミの目を盗んで会いに行ったり来てもらったりはしてほしくないんです。
それは、どうかお願いします」
アルノーは深く、バリーに頭を下げた。
グリフィスも慌てて、下げる。
「……。」
バリーは足を下ろして、頬杖をついた。
「トロイ、お前も一緒の気持ちか?」
前かがみに覗き込んで来たバリーの肩に、わしっと大型の鳥が留まった。
「俺もう、アルが好きだってこと一切隠さねーからな……。絶対俺を見てれば誰が好きかなんか分かるぞ……。
だから結婚の相手を隠すことなんか、無意味じゃねーか……」
起き上がろうとしたトロイの頭にもう一回拳骨を打ち下ろす。
「いちいち叩くなよ!」
トロイが思わず痛みに涙目になって、自分の頭を摩りながら立ち上がった。
「それでもだ。実際あの二人が結婚してんのかなーって思うのとこの二人が結婚してます! って言われるのじゃ、楽しみ方が全然違うんだよ。
こんな事故的に発表するのは嫌だね。俺は。
期待させて期待させて、やっぱりそうだったのかーってなった方が大団円じゃねえか」
トロイは瞬きをする。
「……俺別に、ずっとアルとは好き合ってたから今更、事故的なんて思わねーんだけど」
側のアルノーが微笑む。
自分たちと世間には、それくらいの認識のずれがあるということなのだろう。
その認識のずれを逆手にとって、話題性重視で電撃発表する手段はあるが、バリーは社長としての目線で、トロイ・メドウにはそういう発表の仕方は似合わないと判断したに違いなかった。
「そうだよ。おめーらはよく我慢してちまちま付き合ったよ。おかげでファンは勘ぐっても、お前らが恋愛関係にある! って確信持ててるファンはさほどいねーんだよ。
こっちの美人はジブリル・フォラントと付き合ってると思ってる奴だって大勢いるくらいなんだから」
「おれの‼」
トロイが怒ってアルノーの手を握り締めた。
「今結婚発表したら大爆発じゃねえか。それはお前のカラーに合わねえって言ってんだよ。
アルノーとは番組も再開すんだろ。
一緒の姿を見せて、もっとファンを慣らせ。
まだ七割方アルノーはジブリルの恋人だと思われてるハナタレの分際で俺に意見すんじゃねえ」
「俺は最初からアルノーともっとはっきり付き合いたかった! そう思われてたとしても俺のせいじゃねえ!」
「トロイ、落ち着け。みんな分かってるよ」
アルノーが怒り心頭になっているトロイの頭を撫でた。
「君はこれからは、なにも我慢しなくていいから、結婚の公表の時期については事務所の社長であるバリーさんに任せよう。
彼も反対しているわけじゃないし、君はブランドのイメージモデルとしても何社も契約してる。
色々と結婚には準備がいるんだろうことは、私にも何となく分かるよ」
「……おれは! ……お前もまた、言えないのにマスコミに追われて、嫌な気持ちになるかなって思うから」
「私は大丈夫だ。芸能人じゃないからね。自分の仕事をするだけだ」
「そうかな~。非公式のお前のファンクラブが出来てるって
お前も一般人っていうよりは、もはや俺たち寄りだと思うぞ……」
アルノーは笑った。
「私は平気だ。それに何の問題も無く君と会えるようになるなら、他はどうでもいい」
惚れ惚れするほど落ち着いてアルノーがそう言って笑いかけると、怒っていたトロイの気配が変わった。
「……まあ俺も……究極に言えば、そうだけど……」
「うん」
「うん。……へへ……」
「はは……」
顔を見合わせて嬉しそうに笑い合う二人を、バリーは呆れたように半眼で見遣った。
「グリフィス。こいつらいつもこんなか?」
「そうですね……まあ……大体は……」
グリフィスも笑ってしまう。
「そんな何年間も秘密にしておけって社長も言ってるわけじゃないですから。
結婚したことは指輪で、公にしてもいいと言っていますし、相手がイーシャさんだと明確に言わなければ、彼かな、と思われることもいいんですし。
少しの間だけ、公表は我慢してください、トロイさん」
「……。わかったよ……。ちぇ。……俺もアルに早く指輪あげたかったのに」
唇を尖らせたトロイに、アルノーはそんな可愛いことを考えて拗ねていたのか、と気づいて笑ってしまった。
「少しの間だけだよ。結婚が正式に公表出来るようになったら、私も指輪つけてあげるからな、トロイ」
優しく、握られたトロイの手を揺らしてやる。
ぱああっ、と音がするほど分かりやすくトロイの表情が輝いて、彼はアルノーの首に飛びついて来た。
「アル! 大好きだ‼」
「トロイ! 社長の前で遠慮なく全力でイチャつくんじゃねえ!」
「うるせー! バリー! 今回は従ってやるけど、もしダラダラ公表延期しやがったら俺はお前に対して反乱を起こすからな!」
「うるせぇお前こそそんなくだらねえ心配してんならそこの美人に愛想尽かされないように努力してろ。
おまえそんな大口叩いてアルノーと離婚しやがったらクビにすっからな」
「いいよ。ここクビになったら俺はアルの事務所に移籍するから」
「このクソガキ!」
バリーが立ち上がって、腕を振ると、大型の鳥が羽を広げ、トロイに向かって飛びかかって来たが、ひょいっ、とトロイは身軽にそれを避けると、アルノーの手を引っ張って部屋を飛び出していく。
「うっせー! バリー! 次に生まれ変わったら俺は絶対お前の上司になって今度はお前をこき使ってやるからな!」
ばーかばーか、と子供みたいな悪態をついて去って行ったが、トロイのいつもの明るさが完全に戻って来ていた。
「ったく、あのやろ~」
バリーが溜息をついて、どっかりと椅子に腰かけた。
「グリフィス。笑ってねえでちゃんとあの腕白小僧の面倒見とけよ」
「はい……」
笑ってしまった口許を隠して、グリフィスは頷く。
「でも……。社長も二人の結婚には賛成なんでしょう」
「当たり前だ。あのヤンチャ小僧の面倒なんざアルノー以外に安心して任せられるか」
呆れるように言ったバリー・ゴールドに、グリフィスはもう一度吹き出した。
【終】
FINAL DIPA 七海ポルカ @reeeeeen13
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます