第15話【空を越えて】②



 かたんと音がして、自宅の庭の桟橋に寝そべって、星の空を見上げていたトロイは、寝たままに少しそちらに視線をやった。

 見ると、自宅で飼っている黒猫が悠々と明けはなった扉から中に入って行くのが見えた。

 小さく息をついて、視線を戻した。

 イーシャさんと話して下さいとグリフィスは言っていた。勿論トロイもそのつもりだったが、その前にきちんと自分でももう一度考えたかった。

 父への嫉妬とか、対抗心でなかったことを、自分の心を見つめて問い質したいのだ。

 そんなことが理由で恋愛関係にあることを公表しようとしてるなら、自分は独占欲ばかりに塗れて、本当にどうしようもないと思ったからだ。

 あれからずっと、考えた。


(ちがう、はずだ)


 何度考えても、父親とアルノーが今より親密に仕事をすることになるのが嫌だとか、そんなじゃない。

 それにサンアゼール・プロジェクトの話を聞いた時も「面白そうだ」と言ってアルノーの背中を押したのは、その場限りの気持ちなんかじゃなかった。

 でもジブリル・フォラントの世界ツアーの時、およそ一年、本当にほぼアルノーには会えなくて、会える機会でも彼はツアーを離れて、ツアー地からも離れてパパラッチがいないことを考えながら短い時間を過ごさなくてはならなかった。

 その分アルノーとは毎晩のように電話で話したし、絆も強くなった。悪いことばかりでは、きっとない。

 でもまた同じ状況になると思った時、無性に嫌でたまらなくなった。

 アルノーは確かに公表するもしないも、トロイが決めていいといつも言ってくれている。

 ただ、つい昨夜まで何の躊躇いも無く背中を押していただけに、突然どうしたんだと思うかもしれない。

 それに、アルノーは今新しい事務所に移籍するかどうかの時なのだ。

 新しい事務所の社長はジブリル・フォラントになり、トロイとの関係がマスコミに露呈すると、迷惑がかかる人たちがいるかもしれない。

 今は時期的に悪いかもしれない。


(でも)


 トロイは小さく息をついてから、自分の顔を両手で押さえた。

「……とにかく数日の間には、……アルと話さないとなぁ……」

 はぁ……、とゆっくり、その手をもう一度放した時だった。


 少し微笑んだ顔が、見下ろしている。

 一瞬トロイは、よく意味が分からなかった。



「いいんだぞ。別に今話してくれたって」



 幻かな……なんて思いかけたが、幻が喋った。


「おああああああああああっ⁉」


 トロイは飛び起きた。

 その様子を見て、アルノーが笑っている。

「な、ななななんでお前が……きのうドイツにいるって言ってたじゃん……」

 アルノーは何も言わず、笑んだままだ。

 帽子に夏用の薄手の上着。

 まさに今、戻って来たという格好の意味するところは……。

 数秒後トロイは起こした身を蹲らせて、頭を抱えた。



「――グリフィス!」



 あれほど言うなと言ったのに。

 でもアルノーがここにいる理由なんてそれ以外に考えられない。


「アル、ごめん!」


 アルノーが何かを言う前に、トロイは自分から切り出していた。


「グフィになんか聞いたと思うけど、ほんとは、俺からちゃんと話したかったんだ!

 おれ……、何度も考えたけど、お前が、親父の事務所移ることが嫌だとか、反対してるとか、そういうんじゃねえんだ!

 絶対に、そりゃ親父がお前に好きだとか言ったり触るのは嫌だけど! でもそれとこれは関係ない!

 仕事は、関係ない。

 俺は今でも親父のことなんかちっとも分かんねえけど、でも、お前が撮る親父を見てると、いいなって思うこともたくさんあるんだ。

 訳わかんなかった、俺たちの関係を……お前が変えてくれたって、ある意味で、繋いでくれたって、俺はそう、思ってる……。

 だから、嫉妬だとか、独占欲とかで反対してるとかそんな風には絶対思われたくなくて、

 ……思われたくなくて、言わずにいたけど、俺がお前の仕事、邪魔する気がないことは分かって欲しいんだ。

 お前が今は、騒ぎは困るって言うなら俺は待つし!

 どれだけでも、……」


 言ってる間に、上手く言葉がまとまらなくなって来た。

 どれだけでも待つ気があるのは事実だ。

 それでも、それが心からの本音なら、こんな騒ぎを起こさなくたっていい。

 どれだけでもアルノーを応援したい気持ちと、自分の中にある、無性に何かを嫌だと思っている、この気持ち。


「おれは、」


「トロイ」


 ぽん、と頭を撫でられて、トロイはまるで怒られたみたいな反応で思わず顔を上げていた。

 アルノーはしゃがんだ姿で、トロイの顔を覗き込んで来てくれる。


「分かってる。君が私の仕事を心から応援してくれてるのは、ちゃんと伝わってるから大丈夫だよ。

 多分君が嫌なのは、恋愛関係を隠しながら付き合って行くことなんだ。

 君の踊りも、歌も、ライブもこうやって一人で桟橋で考え事してる姿も、全部間違いなく君らしい。

 でもただ一つ君らしくないのが、私との付き合い方だった。

 一緒の番組をやることで少しずつ、会うことが普通になればいいな、って私は思っていたけど……」


 星の瞬きのように、刹那、トロイの目に不安が過ったのが分かった。

 不安げなこの光をどうにかして取り除いてやりたい、と無性にアルノーは思ったから、出来る限り明るく呼んだ。


「トロイ!」


 勢いよく呼ばれて、明るい気配で、立つことを促されて思わずアルノーと一緒に立ち上がっていた。


「ア、」


 にこっ、とアルノーが子供みたいな顔で笑った。

 次の瞬間――、

 突然アルノーが身体を横に倒すようにして桟橋から身を投げ出した。

 がっちりと腕を掴まれていたトロイは、勿論、落下に巻き込まれた。


「えっ、おあああああっ⁉」


 数秒後、どぼーん! と一つの大きな水柱が立った。

 自分が何をされたのか、真っ逆さまに下の海に落ちたトロイは一瞬訳が分からなくなったが、すぐに海面にぷはっ! と顔を出すと、アルノーはすでに顔を出していて、呆然とした顔のトロイを見て、彼はおかしそうに笑っていた。

「初めてこの家にお邪魔した時に、君に同じことをされたから。いつかお返し、したかったんだよな……」

 笑っている。

 頭からずぶ濡れで、足は何とかついたが、胸元まで海の中である。

 ぽかんとしていたトロイは自分がしてやられたことに気付き、見る見る赤くなった。


「アル! だからって今何も仕返ししなくてもいいだろうがあ‼」


 アルノーに掴みかかって彼の頭を押さえ、水の中に沈めようとしながら笑っていると、その手を逆に掴まれた。



「結婚しようか」



 アルノーの琥珀色の瞳が夏の夜、月影を弾く水を映して輝いて見えた。

「……へっ? ……」

 おかしな声が出た。

 でもアルノーは何も変なことは言っていないという自信に満ちた顔で、トロイに笑い掛けて来る。

「勿論、君が構わないならだけど」

 そう言って、まだ呆然とするトロイを引っ張って、白浜まで上がって行く。

 濡れてしまった上着を脱いで、そのポケットを少し探って何かを取り出すと、アルノーは用の無くなった上着は遠くに軽く放って、緩く三つに編んで、今はずぶ濡れになってしまった髪を軽く絞って肩から後ろへと整えてから、まるで映画のワンシーンみたいな美しい所作で片膝をついて、トロイの手の甲に唇を軽く触れさせたあと、その同じ場所に、取り出した指輪を乗せた。


「結婚しよう」


 微笑んでアルノー・イーシャは言った。

 額を濡れた雫が通って子供みたいな顔で笑ったが、全身ずぶ濡れでもやはり美しい男だった。

「トロイ?」

 思考が停止していた。

 そんなトロイの反応すら、アルノーは想定内だったようで、楽しそうに見ているのが分かる。

「返事くれないのか?」

 小首を傾げた。

 へんじ、ともう一度乞う仕草が可愛いくて、トロイはハッとした。


「ちょっと待て! なんで俺がプロポーズされてんだ!」


「なんでって?」

 アルノーが笑いながら立ち上がる。


「だって、こういうことは、やっぱり、男の方が、いや確かに、お前も男だけど、でも、なんていうか……そうじゃねーよ!

 結婚する時は絶対俺からお前にプロポーズしようと思ってたのに‼」


「別にどっちからなんて、どうでもいいと思うなあ」


 アルノーはトロイの身体を抱きしめて来た。

「どうでも良くはないと思うぞ、おれは、絶対……」

 手の中の指輪を見る。

「おまえ、……どーしたんだよこれ。なんかの小道具か?」

「本物だよ。ひどいな」

「いや、分かってるけど、いつ用意したんだこんなもん……」

「去年の秋くらいかな。番組再開の話が来てから、また会える機会が増えるかもしれないって思ったから。丁度、ヴェネツィアのファッションウィークの取材に行った時に、ジュエリーデザイナーの人と知り合って。フォラントさんの世界ツアーで顔見知りになってたんだけど再会して、私の写真のファンになってくれたそうなんだ。

 それで、ぜひ自分のブランドの宝石を贈りたいって言ってくれたから、君に贈る指輪作ってもらったんだ。大まかなデザインの希望も全部聞いてもらったんだよ。

 君と私のサイズは違うから、彼は誰かに贈るんだって気づいてたかもしれないね」

「去年の秋って」


「君は私との関係を、いつだって公表してもいいって前から言ってくれてただろ。私もそう言ってたよね。いつでも構わないって。

 だから、いつか君がそうしたいって言ってきた時に、私は指輪を渡したいってずっと思ってたんだ。本当に、いつでも構わないって思ってること、君に知って欲しかったし。

 君に言われた時に、狼狽えるんじゃなくて、全部受け止められたら……ちょっとカッコイイかなって思ったからね。

 指輪を用意してる、っていうのは心構えはしてたよって一つ伝えられる道具になってくれるかなと思って」


「ちょっとカッコイイかなってお前なー……」

 トロイは脱力する。

 そうなのだ。


 アルノーは本当に黙ってそこに置いておけばそこらの女も逃げてくような美人だが、性格は非常に男らしいのだ。

 器が大きくて、包容力があって、穏やかで、とにかくやることなすこと男前であることをすっかり忘れていた。


「おまえ、ドイツで仕事があるんじゃないのかよ……」

 抱きしめながらアルノーの肩に、顔を伏せる。

「あるよ」

 それでも、グリフィスから自分の話を聞いてやって来たのか。



「王子さまかよ……」



 すっかり脱力してそう言ったトロイに、アルノーが吹き出した。

「結婚って、なんだよ……なんで結婚、なんだ……? お前がそんなこと言うの、初めてだよな」

「そんなに難しく考えないでいいよ。君が不安定な私たちの関係にストレスを感じるなら、確かな約束を作ろうと思ったんだ。

 この前……『離れ難い』って君も言っただろ。あんなことを言うのは初めてだったから。

 でも結婚すれば、どこか別々の所に行ったって、同じところに帰れる。

 久しぶりじゃない。

 おかえり、って一言で全てが済むようになるだろ。

 だから結婚しよう。

 そうしたらきっと離れても、次にいつ会えるのか心配なんてしなくて良くなるだろ。

 ……わたしは君のものだし、君も私のものだ。

 ずっと一緒にいても、誰にも反対されなくなる。

 君が私と、ずーっと飽きるほどいてもいいって思ってくれるならね」

 トロイは目を閉じた。

 自分が何を迷ってたんじゃなくて、

 何を欲しがっていたかが、その時すぐに分かった。


(どうしてこいつは、いつも俺の一番欲しい言葉がわかるんだ)


 アルノーの身体を抱きしめる。

 離れても、いつでも繋がっているという約束。

 十年後も、

 二十年後も。


(お前が側にいてくれるなら俺は……)


「で、返事は?」


 額を寄せて来る。

 鼻先に見上げると、アルノーは聞いては来ているが、断られることなんて少しも考えてない、期待に満ちた顔で、少しだけ高い所からトロイを見下ろして来ている。

 自分がこんなに確かなものを、いつのまにアルノーに与えられていたのか、何の自覚も無い。

 それでも、アルノーの表情で、それは信じれた。


「断るわけねーだろ! ばか!」


 悔し紛れにアルノーの鼻を思い切り摘まんでやった。


「プロポーズを受け入れといて『ばか』は無いと思うぞ……」


 鼻を押さえながらも、おかしそうにくすくすと笑っているアルノーに、「うるせー!」と悪態をつき、それから彼の両頬を押さえて、唇を奪った。

 少しだけ高いアルノー・イーシャの身長が、口付けを受ける間にいとも容易く、トロイの目線の下になった。

 トロイは口付けをしながら、アルノーの頬、額に、手の平を這わせた。


「……おまえ、……絶対あとで俺にもプロポーズさせろよ。そういうのは、ずーっと男の沽券に関わるんだからな」


 アルノーは笑っただけで相手にしなかった。


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