「人を人たらしめる最小単位とは何か」 この問いに、貴方はどう答える?
- ★★★ Excellent!!!
ある方が、その答えを「骨」――特に「頭蓋骨」だと述べておられました。
その発想はとてもユニークで、私は読むうちに、ふたつの視点からこの問いを考えている自分に気づきました。
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ひとつめは、"「他者から見たとき、人として認識されるかどうか」"という視点です。
これは外見や形状に基づいた認知の問題です。
たとえば、精巧な人形やロボットを一瞬「人間」と見間違えることがありますよね。
つまり、その瞬間、その人は“人形”を“人間”として認識してしまっているわけです。
この点から考えると、「形態の欠損によって人間らしさを定義する」アプローチには、やや限界があるように思います。
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もうひとつは、"「自己から見て、自分を人間だとどう認識しているか」"という視点です。
こちらの方が、私はとても興味を惹かれました。
脳を一部摘出して自己認識が曖昧になったら、それは「自分ではない」のか?
酩酊状態で自分を制御できないとき、それは「別人」と呼べるのか?
事故で走れなくなった元アスリートは、自分を“かつての自分”とは異なる存在と感じるのでは?
――とても鋭い問いだと思います。
でも私はこうも思いました。
自己認識は、変わるものではないでしょうか?
変化を「喪失」や「断絶」だと捉えるよりも、
「成長」「適応」「羽化」といった、より生き物らしい変容として受け入れる方が、自然な気がします。
形が変わっても、能力が変わっても。
人が「人であること」
すなわち「実存」は――失われない。
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ですから、「骨が人間の最小単位」という結論は、やはり少し違うのではないか、と私は思います。
骨格標本を見ても「人間の骨だ」とは思えても、「この人には意志がある」とは感じません。
それに、おそらく…ですが、骨は自分自身を認識できないのです。
(まあ、骨だけになった経験はないので、あくまで想像ですが…)
だから私は、やはり「意志」こそが、人間の最小単位ではないかと考えています。
考え、迷い、選び取ろうとするその瞬間に、私たちの“人間らしさ”は宿るのではないかと。
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こんなふうに考える機会をくださって、ありがとうございました。
とても楽しかったです。
そして、よろしければあなたの答えも、聞かせてくださいね?