最近、自分の創作思考を整理する中で、ひとつの重要で、そして少し不安を覚える現象に気づいた。
これまで私は、『開放命題』型の作品形式を好んできた。
世界に明確な正解はなく、読者自身が推論を補い、思考に参加してはじめて作品が完成する、という考え方だ。『次は、桜』は、まさにその前提の上に成り立っている。
しかし実際の経験から、ひとつはっきりしたことがある。
多くの読者は、思考に参加したがらない。
理解できないのではなく、最初から「入らない」ことを選んでいる。
そこで私は、逆方向の構造を試すようになった。
新しい創作では、意図的に『高度に封閉された命題』を用いている。
前提は制御され、比較は固定され、結論は命題内部ではほとんど反駁できない。
読者に求められるのは推論ではなく、理解──あるいは単なる『受容』だ。
この構造のほうが、むしろスムーズに機能することに気づいた。
この転換によって、私はある事実を強く意識するようになった。
読者が思考するかどうかは、能力の問題ではなく、そもそも『問い』がどのように設計されているかの問題なのではないか。
ここで、私が最近繰り返し考えている小さな思考実験をひとつ挙げたい。
重要なのは内容そのものではなく、そこに現れる『構造』である。
仮に、『人類の自然生命延続機制』のみを議論対象とする。
すなわち『異性結合・生育・成長』から成る循環である。
さらに、100人の男性と100人の女性からなる、高度に単純化され、制御された小規模社会を仮定し、女性が生育の『黄金期』に少なくとも一度妊娠できるかどうかだけを指標とする。
この意図的に単純化されたモデルにおいて、『男同性関係』と『女同性関係』がこの機制に与える干渉度を比較すると、非常に反論しにくい構造的結論が導かれる。
『男同性関係』は主に男性サブセット内で完結し、女性が生育を完了できるかどうかに直接影響しにくい。
一方、『女同性関係』は女性サブセットに直接作用し、そのうち1〜2人が『黄金期』を逸するだけで、全体の『自然生命延続量』は減少する。
ここで重要なのは立場でも、現実の割合でもない。
重要なのは──命題が十分に『封閉』されているという点である。
この前提を受け入れた瞬間、結論はほぼ固定される。
理性的な反対者ほど、この命題には触れようとしない。賛同するからではなく、議論に入った瞬間、モデルの外に追い出され、『道徳』や『制度』、あるいは『現実の複雑性』に話題を移さざるを得なくなるからだ。結果として、あらかじめ想定された反応経路に落ちてしまう。
この例を通じて、私ははっきりと実感した。
『問いそのものは、設計できてしまう』のだ。
そして、私を本当に不安にさせたのは、この構造が思考実験や創作の中だけに存在するわけではない、という点だった。
もし、小さく可視的なモデルですら、前提の設計によって議論を特定の結論へ自然に収束させられるのだとしたら──現実世界ではどうだろうか。
『包装』され、『脱文脈化』され、『情緒化』され、さらに『時間的圧迫』の中で高速に拡散される情報の中で、どれほど多くのものが、すでに私たちの代わりに『思考』を済ませてしまっているのだろうか。
本当に恐ろしいのは、ある『答え』が正しいかどうかではない。
私たちが気づかぬうちに、他人が設計した『問い』の中で、立場を選ぶ自由しか残されていないことだ。
これこそが、今後の私の創作が向き合い続けるテーマなのだと思う。
読者に何を信じるべきかを教えるのではなく、次のことに気づいてもらうために。
『考え始める前に、問いはすでに決められているかもしれない』という事実に。
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最近、台湾・台北で『無差別殺人事件』が発生した。
場所は人通りが多く、『最も渋谷に似てる』と称される中山駅商圏である。
報道によれば、事件は複数の死傷者を出し、加害者は『表演型犯罪』の特性を持つ人物とされ、逃走中に『畏罪』の末、飛び降り自殺に至ったという。
事件そのものがもたらした悲しみと恐怖に加え、より不安を覚えたのは、その後に生じた『情報の混乱』と『疑点』である。
異なる報道内容、未検証の細部、大量の即時的な転送によって、事件は短時間のうちに輪郭を失った。
ネット上では『陰謀論』が現れ、『幕后共犯』の存在を疑ったり、こうした犯罪事件を何らかの『道具』として捉える言説さえ出始めている。
『実験』では、仮定を置いて結果を観察できる。
『物語』の中では、自由に奇抜な展開を描くこともできる。
しかし『現実』は、それ以上に奇妙でありながら、構造を検証されないまま、容易に『受け取られて』しまう。
私は思う。
『真相』が最終的に何であれ、これはそれ自体が『危険なシグナル』だ。
本当に警戒すべきなのは事件そのものではなく──
高度に『不確定』で、感情が極度に『集中』した状況下で、人々がどのように、すでに設計された『問い』と『物語』の中へ押し込まれていくのか、という点なのだ。
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最後に、少しだけ気持ちを緩める話を。
最近、創作をしていると、時々こんなことを考える。
もし作品が完成する前に、何かの拍子でこの世からいなくなってしまったら、どうなるのだろう、と。
……まあ、他人から見れば、どうでもいい話だろう。
未完成のままでも、完成していても、世の中は特に困らず回っていく。
それでも、この手の問いは不思議と、書いている最中にふっと顔を出す。
深刻というほどでもなく、答えを求めているわけでもない。
ただ、創作の途中で自然に浮かんでくる、ひとつの題材のようなものだ。
たぶん、書いている限りは、こういう余計な考えも含めて、全部まとめて創作なのだろう。
