早くも、
『偽神の子』の前日譚『次は、桜』物語を書き始めた初期の段階で、
私はある感覚に引っかかっていました。
ある高技術分野のリーダーの姿を見ていて、
強く引っかかる感覚がありました。
彼は、世界の誰よりも早く未来の輪郭を掴んでしまった。
その結果、社会から向けられる問いは、
しばしば極端に単純な形になります。
「それは危険なのか」
「人類を脅かす存在ではないのか」
けれど本来、
その段階で問われるべきなのは、
善か悪かという結論ではありません。
どの条件で、誰が、どのように扱い、
責任をどこに帰属させるのか。
議論すべきなのは、構造のはずです。
しかし社会は、
理解が追いつく前に恐怖へ傾き、
恐怖のまま判断を急いでしまう。
説明しようとすればするほど、
かえって誤解が増えていく場面すら生まれる。
それは言葉が足りないからではありません。
受け取る側が、
まだ同じ地点まで歩いてきていないだけです。
だから彼は、
世界が追いついてくるのを待つしかない。
そこにあるのは感情の孤独ではなく、
『判断の速度が世界と合わないことによって生じる孤独』だと感じました。
***
人類は、
未知のものに直面したとき、
驚くほど似た行動を取ります。
知らない。
だから恐れる。
恐れた対象を単純化し、
単純化したものを排除する。
かつて人類は、
ホオジロザメを
「無差別に人を襲う危険な存在」と決めつけ、
恐怖の象徴として大量に駆除しました。
後になって、
それが誤った理解であり、
生態系に深刻な歪みを残したことを知る。
恐怖が先に立ち、
考える前に行動した結果でした。
これは特別な悪意ではありません。
無知と焦りが生み出す、
ごく普通の人間の反応です。
技術に対する恐怖も、
同じ構造を辿りかねないと、私は思っています。
***
こうした感覚が、
間森という人物の設計につながっています。
間森は、
英雄でも預言者でもありません。
未来を導く象徴でも、
正解を知る存在でもない。
彼は、
すでに見えてしまった結果と、
まだその言葉を持たない世界のあいだに
立たされる人間です。
それでも、
彼は判断を引き受けなければならなかった。
そして、
その判断は終点ではありません。
一人の人間が、
もっとも困難な決断を下す。
しかしその決断を支持し、
表には出ずとも、
相応の行動を引き受ける者がいる。
重要なのは、
その判断が、
彼一人の意志として
完結していないという点です。
同じ前提に辿り着き、
同じ結論を共有しながら、
異なる役割を選ぶ立場が存在する。
私は、
この「決断と支持、表と裏」という構造を、
あえて説明せず、
物語の内部に組み込みました。
それは偶然ではなく、
意図的な設計です。
善悪を即断しないこと。
恐怖を結論にしないこと。
問いを急がず、
判断の責任を曖昧にしないこと。
それが、
間森というキャラクターに託した理念であり、
彼が背負う孤独の正体です。
そのために、
私は多くの小さな出来事を意図的に配置し、
少しずつこの人物の存在感を積み上げていきました。
結果として、
彼は設定ではなく、
物語の中で確かに「生きる」存在になった。
それを確認できたことが、
今の私にとって、何よりも嬉しいことです。
(ジェンセンの初期イメージは『グレート・ギャツビー』のギャツビーを参考にしています)
