先ほど、雷に打たれたような感覚があった。
AI が暗喩を理解しにくい理由は、「文章が難しいから」ではなく、
言語そのものと、理解の仕方との間にあるズレにあるのではないか、
そんな考えに至った。
文字、特に漢文系の言語は、AI にとって本来扱いやすいものではない。
技術的に見れば、文字には語調も感情もなく、解析の対象となるのは字面の意味だけだ。
それはまるで化石を掘り出す作業のようで、私たちは結果を見ることはできても、
それが生まれた過程までは捉えきれない。
これは単なる文法や語彙の問題ではなく、
より深い文化的構造の問題なのだと思う。
漢文文化圏は、数えきれないほどの王朝交代を経験してきた。
権力の中心は何度も移り変わり、
正統も繰り返し書き換えられてきた。
そのような歴史の中では、
言葉があまりにも率直で断定的であること自体が、
生き残るうえでのリスクになり得る。
だからこそ、言語は次第に、
留保や転述、借喩や省略を身につけてきた。
本当に重要な意味は、必ずしも文字の表面に書かれるのではなく、
文脈や指示の中に委ねられるようになったのだと思う。
この書記文化が長く担ってきたのは、
感情や思想だけではない。
それは、権力の下で意味を保存し、判断を先延ばしにし、
一度の言葉で断罪されないための、生存の知恵でもあった。
日本文化がしばしば「含み」を重んじると言われるが、
京都の曖昧さもまた、偶然生まれたものではない。
京都はかつて洛都と呼ばれ、
その書き言葉の感覚には、唐代の漢文伝統が色濃く残っている
詩文であれ、策論であれ、官僚的な文章であれ、
そこではもともと、階層性や余白、多義性が重視されてきた。
それらは単なる美的選択ではなく、
長い時間をかけて、
権力構造の中で安全であると確認されてきた表現形式だったのだろう。
あらためて自分が書いている作品を振り返ると、
私が創作し、また自分自身を駆り立てている構造も、
どこかそれに似ているように思える。
直線的に語るのではなく、幾重にも包み込み、
急いで答えを示すのではなく、手がかりを残す。
理解は一度で完結するものではなく、
何度も読み返し、糸をほどくようにして、
少しずつ核心に近づいていくものなのだと思う。
おそらく、それは私自身が好んできた読書体験とも重なっている。
すべてがすぐに理解される必要はない。
意味というものは、再読や回想を経て、
ある時点になってようやく立ち現れることもある。
創作や設計は、
そうした過程の中で、ひときわ魅力的に感じられる。
そして私はただ、
そのことに気づけたこと、
そして今、理解へ向かう道の途中に立っていることを、
素直にありがたく感じている。
