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もし僕が自分をひと言で評するなら、「器用貧乏」という言葉ほどしっくりくるものもないだろう。
頑張らなくてもそこそこできてしまう反面、どれだけ頑張ってもトップにはなれない。
そんな自分だから、入社三年目の頃にはもう、仕事に飽きと限界のようなものを感じ始めていた。
――要するに、やる意味を見失いかけていたのだ。
いっそ辞めて、すっきりするのも悪くないか。
そんなことをぼんやり考えていたある夜のこと。
会社の行事か何かで飲みすぎた僕は、店の外のベンチに腰を下ろし、夜風にあたっていた。
そのとき、ふらりと店を出てきたのが、みゆきさんだった。
「お疲れさまです」
ただ目が合ったから挨拶しただけ。
当時、僕とみゆきさんの接点といえば、経費処理の書類をやり取りする程度。
「経理部の綺麗な女性社員」
それが、僕の彼女に対する印象のすべてだった。
言葉を交わすことなんて滅多になかったし、今こうして顔を合わせたところで、話すこともないはずだった。
けれど、なぜかみゆきさんは僕の隣に腰を下ろした。
「飲みすぎちゃった?」
「……まあ、はい」
なんの気まぐれだよ?
普段から斜に構えていた僕がそう思ったのも、自然なことだったと思う。
会話を続けようという気もなかった。
それでも、みゆきさん――いや、当時でいうところの仁江さんは、話を続けた。
「営業一課の河合くん」
「えっ」
「合ってる?」
「……はい、合ってます」
「良かった。わたし、昔から人の顔と名前を覚えるのだけは得意なの。……って、営業の人に言うことじゃないか」
自嘲めいた笑みを浮かべる彼女に、僕は首を振る。
「いえ、僕は逆に苦手で。名刺の裏に特徴とか書き込んで覚えるようにしてるくらいです」
「うわ、ちゃんとしてる。努力家なんだ」
「そんな大層なもんじゃないですよ。仕事ですし」
「それでも偉いと思うな。あ、話は変わるけど、河合くんってどこ出身?」
「え、急にどうしてですか?」
「いいから。教えてよ」
「……北海道ですけど」
そう答えた瞬間、「やっぱり」と、花が咲くように微笑んだ。
「河合くん、標準語だけどちょっとイントネーションが違う気がしてたんだ」
「へえ、よく気づきましたね」
「じゃあここでクイズ。どうして気づいたでしょう?」
「……知りませんよ。北海道の友達がいるとかですか?」
「ヒントは、私が北海道にすごく近い県の出身だから」
「それ、もう答えじゃないですか。青森ですよね」
「正解。あ……でも、海を挟んでるし、近いって言えないか」
「いや、距離だけなら二十キロも離れてませんし。まあ場所によりますけど、近いといえば近いですよ」
「なるほど。河合くんって、物知りなのね」
そう言ってまた微笑む。
接待でもあるまいし、どうしてそんなにニコニコと。
そう思う反面、この人はいつ会っても笑顔だな、とも思う。
そのとき、ふと顔を上げると、吸い込まれるような澄んだ瞳が僕をまっすぐに捉えていた。
「もしかして河合くん、なにか悩んでるんじゃない?」
「えっ……」
彼女は両手をベンチに添え、少し前のめりになって、僕の奥を覗くように見つめてくる。
もしかしたら最初から、この質問をするタイミングを計っていたのかもしれない。
正直、少し偽善っぽくも見えた。
なにか裏があるんじゃないか、とも思った。
けれど、すでに辞めるつもりでいた僕だ。
まあ、暇つぶしにでも話してみるか。そんな気分になった。
ぽつり、ぽつりと。
誰にも話したことのない本音をこぼすうち、みゆきさんは少しだけ視線を落とし、それから静かに言った。
「わたし思うんだけどね。器用な人ほど、続けるのが下手なんだと思う。だから三年目くらいから、みんなそこそこで流すようになっちゃう。……でも、河合くんはちゃんとやれてると思うな」
「どうしてそんなこと……僕のこと、ほとんど知らないでしょう」
少し意地悪な質問だったと思う。
けれど彼女はなんでもないように微笑んで、こう言った。
「なんとなく、かな」
「なんとなく?」
「うん。なんとなく」
そのなんとなくという言葉が、やけに胸に残った。
「……あ、でもね。わたしの勘ってけっこう当たるのよ? 経理にいると、人と会う数だけは無駄に多いから」
いや、人に会う数と見る目は比例しないだろう。
そんなふうに考える僕をよそに、みゆきさんは企画部の誰々がどうのこうのと、軽やかに話を続けていく。
延々とその話を聞かされて、気づけば時間はすっかり過ぎていた。
けれど不思議なことに、みゆきさんが席を立つ頃には、胸の中が妙にすっきりしていて。
それが、きっかけだったのかもしれない。
もう少しだけ続けてみようかと思えるようになったのは。
そして、その時からだ。
みゆきさんに会うことが、この会社にいる理由になっていったのは。