――
◆◇(side あるひ)
大学からの帰り道。
電車を降りた途端、むわっとした夏の熱気が肌にまとわりつく。
駅を出て高架沿いの細い通りに入ると、焼き鳥屋の前で暖簾を出している宗田さんが気さくに声をかけてくれた。
「よう、あるひちゃん。いま大学の帰りかい?」
「はい。ほんと、暑くて嫌になっちゃいますよね」
日傘をたたみ、はたはたと手うちわで自分を扇ぐ私。宗田さんも「ほんとにな」と額の汗を肩にかけたタオルで拭う。
「そういや省吾さん、調子はどうなんだい?」
「おかげさまでかなり戻ってきました。ただ、まだしばらく入院は続くみたいですけど」
「そっか。じゃあまた伝えといてくれよ。商店街のみんな心配してるって」
「はい。必ずお伝えします」
省吾さんが救急車で運ばれた日、宗田さんたちには本当にお世話になった。
私は会釈して歩き出すと、今は閉店中の喫茶店脇の路地へいつもの足取りで歩みを進めた。
裏手にある玄関を開け、靴を脱ぎ揃えると奥のリビングでバッグを机に置く。
今日は少し早かったこともあり、奏はまだ帰ってないみたいだ。
ふぅと軽くためいき。
最近の奏はどうも元気がない。
省吾さんが入院し、喫茶店が閉じてからというもの、また自分の殻にこもり始めているように見えるのはきっと気の所為じゃないんだと思う。
私たち姉妹にとって、省吾さんに救われたこの場所は世界のすべてだ。
その中心にあった温かい日常が、急に途切れてしまったのだ。不安になるのも当然というもの。
とはいえ、私も大学を休むわけにはいかないし……。
こんな時、息子さんがいてくれたら。
今は閉じている喫茶店を開けて省吾さんを待てるかもしれないのにな――
外の暑さがまだ体に残っていて、汗がじっとりと張りついている。
このまま気分まで沈むのもなんだか癪だ。
ぐずぐず悩む前に、まずはさっぱりしよう。
「……シャワー浴びよっと」
ささっと片づけを済ませると、私は脱衣場へ向かった。
◇◆ (side 将也)
病院を出て長めの坂を下り、電車に揺られること数駅。
地元に降り立つのは本当に久しぶりだ。
夕方なのにまだ日は高く、昔より店の数が減った通りが目に入る。
「……まあ、時代だな」
静かにつぶやいて歩く。
喫茶店兼自宅は駅を降りてすぐ。
居酒屋などが並ぶ高架下沿いにある。
歩いていると、開店準備に勤しむ店主がこちらを見て声を上げた。
「おーい、将也じゃねえか!」
顔を向けると、焼き鳥屋の玄哉(げんや)が手を振っていた。玄哉とは小学校から中学までの腐れ縁だ。
「ひっさしぶりだな〜。東京から帰ってきたのか?」
「まあな。しばらくはこっちにいるつもり。元気そうだな」
「おうよ。つうか帰ってくるなら言えよ、水臭えな」
「わりぃ。急だったもんで」
「それはそうと、親父さん、大変だったな。見舞いに行ってきたんだろ?」
「ああ。思ったより元気そうだったぜ」
「みたいだな。俺もさっきあるひちゃんから聞いた」
「あるひ? 誰だよそれ」
「は? いやいやっ。お前、もしかしてあるひちゃんのこと知らねえの?」
「そりゃそうだろ、初めて聞いた名前なんだから」
同級生にそんな名前のやつはいなかったはずだが……。
俺の反応がしっくりこなかったのか、「まじかよ……」と唸るように顔をしかめる玄哉。そんな顔をされたって知らないもんは知らないわけで、俺だって首を傾げ返すしかない。
「いや、でもお前、さっき省吾さんの見舞いには行ったんだよな?」
「え、ああ。だからなんだよ?」
「そっか……まあ、俺から言うことでもねーわな。わりぃ、今のは忘れてくれ」
「え? なんだよそれ、気になんだろ」
「まあ、いいからいいから。それはそうとしばらくいるなら店に来いよ。ご馳走するからよ」
「おう。今日か明日にでも顔出すわ」
玄哉と別れると目と鼻の先、家へと向かう。
親父が言っていた通り、自宅兼喫茶店兼のシャッターは閉まっていて、『しばらく閉店します』の紙が貼られていた。
外観は昔のままだ。
けど、少しだけ色が褪せて見えた。
その後、裏口から家に入り鍵を開けた瞬間、違和感に気づいた。
「……ん?」
見慣れない……女性ものの靴だ。
「親父、なにも言ってなかったよな」
状況が飲み込めないまま廊下を進むと、脱衣所のほうからシャワーの音が聞こえてくる。
どうにもおかしい。
泥棒にしちゃ行動が大胆過ぎんだろ……。かといって知らない女が家にいる理由もないわけで。
「……誰なんだよ?」
軽く扉に手をかけると鍵がかかっていた。
「鍵? 昔はついてなかったよな」
もちろん押しても開かない。
その後、家の中を見回ると一部の部屋にも鍵がついており閉まっていた。
「なんなんだよ、これ」
リビングも整っていて生活の気配がある。
親父は二週間前から入院しているはずなのに、だ。
よく分かんねえけど、なにかが変わっているらしい。
まさか、親父の入院を期に家を乗っ取られたとか?
つうか、さっき玄哉のやつが言ってたのと関係があるのかも……
一応の注意を払いつつ、俺は脱衣場の前でシャワーの主を待つしかなかった。
◆◇
それから十分ほど経っただろうか。
水音が止まり、ドライヤーの音が聞こえ、やがてそれも止んだ。
カチャリ、と内鍵の外れる音がする。
相手が何者であれ、まずは話を聞かないと始まらない。
逃げられないように俺は身構え、少し扉に近づいた。
その瞬間だった。
バンッ!!
目の前で、扉が爆発したかのような勢いで開かれ……?!
うそ、だろ!?
「――ぶっ」
避ける暇などなかった。
外開きだった木製扉の縁が俺の額にめり込むと、鈍い音とともに視界に火花が散る。
「ぐ、ぁああ……っ!」
あまりの衝撃に、声にならない悲鳴が漏れてた。
鼻の奥がツーンと痺れ、涙が勝手に滲んでくる。
俺はその場に崩れ落ちるようにして、顔を押さえてうずくまるしかなかった。
「……あれ? なにか当たった?」
頭上から、すっとんきょうな声が降ってくる。
痛む額を押さえながら、おそるおそる顔を上げると、涙で滲んだ視界に映ったのは、湯上がりで上気した白い肌だった。
バスタオルを胸元で押さえたその女性は、目を丸くして、足元にうずくまる俺(涙目)を見下ろしている。
濡れたままの黒髪から、滴が鎖骨を伝って落ちていくのがスローモーションのように見えた。
「だ、大丈夫ですか? って、あなた……」
彼女は俺の顔を覗き込むと、さらに目を大きく見開いた。
「え……まさか、将也さん……?」
「は? え、ああ……そうだけど」
ズキズキと脈打つ額の痛みに耐えながら答える。
なんで俺の名前を知ってんだ、なんて聞き返す余裕もなかった。
俺が肯定した瞬間、彼女の表情がパッと輝いたからだ。
まるで、待ち焦がれた救世主でも見つけたみたいに。
「やっぱり! よかった、やっと会えた……っ!」
「え、ちょっ、あんた誰――」
「将也さん! 私、お願いがあるんですっ!」
彼女は俺がうずくまっていることなどお構いなしに、バスタオル一枚の姿で身を乗り出してきた。
甘いシャンプーの香りと、むわっとした熱気が一気に押し寄せる。
その瞳は必死そのもので、羞恥心よりも何よりも、伝えたいことがあるという熱に満ちていた。
「いや、お願いよりとりあえず服をだな――」
「聞いてください! お店のことなんですけどっ――」
彼女がさらに一歩、俺に詰め寄ろうとしたその時だった。
――ピィーーーーーーーーーッ!!
台所の奥から、やかましく鳴り響くやかんの笛の音。
「あわっ。そうだっ、お湯止めなきゃ!」
どうやら勢いよくドアを開けたのは湯を沸かしっぱなしだったかららしい。けたたましい音に驚いた彼女が、ビクリと肩を跳ねさせる。
その拍子だった。
彼女が胸元で握りしめていた手が、わちゃわちゃと宙を泳ぎ――。
ハラリ、と。
唯一の守り手だったバスタオルが、重力に従って床へと落ちた。
「――――」
見上げている俺の視界がいっぱいになった肌色に、思考がホワイトアウトする。
時が止まったかのような静寂。
そんななか、やかんの音だけが、やけに遠くで鳴り響いている。
そこへ、玄関扉の開く音が重なった。
「あ、良かったお姉ちゃんっ。省吾さんが息子さんに私たちのこと言い忘れたっ、て……」
現れたのは、病院ですれ違ったあの女子高生だった。
冷静な中に、わずかな焦りの滲む口調。
彼女はおそらく急いで帰ってきたのだ。俺たちが鉢合わせるという「最悪の事態」を避けるために。
だが、その努力が徒労に終わったことを知ると、彼女の視線がこの場の惨状を射抜く。
額を押さえて這いつくばる俺に全裸で硬直する姉。
そしてけたたましく鳴り続けるやかん。
数秒の沈黙のあと、彼女は表情一つ変えず、ゆっくりとスマホを取り出すと、冷徹な声で告げた。
「……通報していい?」