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◇◆(side 将也)
病院の自動ドアが開いた瞬間、冷たい空気と共に消毒液の匂いが鼻をついた。
入口に足を入れただけで、背筋が勝手に伸びる感覚がある。
昔からこの独特の空気はどうにも好きになれない。
昨日、親父――霧島省吾から、突然入院しているとの連絡がきた。
つうか、倒れて病院に運ばれたのは二週間も前のことらしい。
まあ、あの親父のことだ。
自分のことより俺の仕事を優先して、黙っていたに決まっている。
そして、連絡がきたということは「もう心配ない」という合図なんだろう。
「ったく……」
こちらの行動はすべてお見通しと言わんばかり。
俺がどう動くかなど、親父には手に取るように分かっているのだ。
本人曰く、医者の話では命に別状はないらしい。とはいえ、治療にはまずまずの期間を要するのだという。
「……まあ、焦る必要はなかったんだろうけどな」
受付脇を通りながら、独り言のようにこぼす。
エレベーターの鏡に映し出された自分が、やけに疲れて見えた。
東京での日々。
満員電車に揺られ、終わりのないタスクに追われる毎日。
気がつけば、自分の心が摩耗していく音すら聞こえなくなっていた。
潮時だったのかもな。
一度立ち止まって、人生を考え直したいとも思ってた。だからというわけでもなかったのだが……辞表を出したのが先週のことだ。
髪を軽く整えてから、小さく息を吐く。
いろいろと御託や言い訳を並べてみたところで、結局のところ、俺はただこの場所に戻りたかっただけなのかもしれない。
俺にとっての「家」は、世界でただ一つ。あの場所だけだからだ。
「さて、親父のほうはどんなもんだか」
◆◇
ナースステーションで病室を尋ねると、看護師が丁寧に場所を教えてくれた。
「大部屋ですので、お静かにお願いしますね」
「分かりました」
軽く返事をして廊下を進む。
白い床に靴音だけが響く奥の病室、窓際のベッドに親父はいた。
俺がカーテンの隙間から顔を覗かせた瞬間、本を読んでいた親父が顔を上げ、さも当然のように言った。
「おう。来たか」
まるで、コンビニに行っていた息子が帰ってきただけのような、平熱の声。
四年ぶりの再会だというのに、湿っぽい挨拶も、驚く素振りもない。
ただ、その瞳だけが穏やかに笑っている。
「へえ、思ったよりピンピンしてんじゃねえか」
俺もまた、昨日も会っていたかのように軽口で返す。
「まあな。俺を誰だと思っとる?」
「ただの喫茶店マスター、だろ?」
「はは、ちげーねえ」
そう言うと、親父は嬉しそうに喉を鳴らした。
「にしても、少し痩せたか? 将也(しょうや)」
「……四年も会ってないのに分かるのかよ?」
「当たり前だ。お前の顔色は、俺が一番よく知ってる」
ドキっとした。
鏡で見た自分ですら気づかないような変化を、この人は一瞬で見抜く。
言葉にしなくても通じ合う空気。
まるで俺たちの間に「久しぶり」という埋めるべき溝なんて存在しなかったように。最初から、カチリとパズルのピースがハマるような心地よさがある。
しばらく話したあと、俺はパイプ椅子を引き寄せ、腰を下ろすと同時に話を切り出した。
「あのさ、親父。……俺、こっちに戻ってくることにしたわ」
親父は一瞬だけページを繰る手を止め、すぐにまた動かした。
俺が会社を辞めた理由なんて、聞いてくる気配もない。
「そうか」
それだけ。
拒絶ではない。俺が自分で考え、自分で決めたことなら、それが正解だと信じているのだ。
この絶対的な信頼が、今の俺には何よりの救いだった。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「……大学の時、教員免許取ったろ? あれ、もう一回ちゃんと目指してみようかと思ってる」
喫茶店を継ぐ気はない。
その意思表示も込めて伝えると、親父は本を閉じて、まっすぐに俺を見た。
「いいじゃないか。お前には向いとるよ」
「そうか?」
「ああ。お前は昔から、損得よりも『正しさ』や『人』を大事にする。……俺に似て、不器用だからな」
自分で言っておきながら笑い出した親父に釣られ、くくっ、と二人して笑い合う。
ああ、やっぱ敵わねーって思う。この人の前では、俺はどこまでいっても子供のままだ。
「……よく帰ってきたな、将也」
「ああ。……ただいま、親父」
その短いやり取りだけで、胸の奥の澱がすうっと溶けていくのを感じた。
◇◆
ひと通り話を終えると、親父に聞いてみる。
「……そういや、店は閉めてあるんだよな?」
「まあな。俺がいないんだから当然だ」
「だよな」
「そっちのことはお前が気にするこっちゃない。お前は勉強なり就活なり、好きにやれ」
「言われなくてもそうするよ。俺には俺のやりたいことがあるしな」
言葉の裏にある「俺の店のことより、お前の人生を生きろ」というメッセージを、俺は正確に受け取る。
昔からそうだ。この人はいつだって、自分のことよりも俺の未来を優先してくれる。
その後、少し話してから「また来る」とだけ告げて病室を出る。
扉が閉まると、廊下の静けさに呼吸が戻った。
と、目の前に誰かが立っていることに気づく。
紺のブレザーにプリーツスカートの、女子高生……?
肩に落ちる黒髪は丁寧にそろえられ、肌の白さがやけに際立つ。
静かというより、近寄りがたい凛とした雰囲気をまとった子だった。
一瞬だけ目が合うも、黒い瞳は静かでまるで揺れがない。
なんかつかめねえ子だな。
俺がすぐに視線をそらすと、あっちも歩幅を変えることもなく、音もなく病室に入っていった。
軽く振り返りつつ。
ま、相部屋だし誰かの見舞いだろ。
つうか、親父にあんな若い知り合いがいるなんて聞いたことねえし。
ともかく、親父の顔色が思ったより良かったこともあり、なんというか肩透かしをくらったような気分だ。
だからだろう。エレベーターへ向かう足取りも自然と軽く感じた。
◆◇(side 霧島省吾)
将也が出ていき扉が閉まったあと、すぐにまた一人、今度は可愛い見舞客が姿を見せた。
「奏、今日も来てくれたのか」
「今日もって。毎日来てるじゃない」
「ああ、そうだったな」
「ねえ、さっき出ていった人ってもしかして……」
「おお。奏には分かったか?」
「まあ、なんとなくだけど」
と、そこで奏は不思議そうに首を傾げた。
「なんか……省吾さんと空気が似てたから」
「そうか? 俺はあんな優男じゃないがな」
憎まれ口を叩きながらも、頬が緩むのを止められない。
自慢の息子だ。誰に出しても恥ずかしくない。
「そういや、あいつに大事なことを言い忘れとったな……」
本当なら最初に伝えておくべき大切な話だが、久しぶりに顔を見たら、嬉しさですっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
あいつと話していると、どうも時間の感覚がおかしくなる。
とりあえず、奏には今から説明をするからいいとして……。
「まあ……あるひのことだ。なんとかしよるだろ」
ひとりつぶやくと、要領を得ない奏は不思議そうに首を傾げた。