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◇◆(side 日向あるひ)
「ナポリタンあがったぞ。あるひ、頼む」
「お姉ちゃん、こっちもおねがーい」
カウンターの向こうから聞こえるのは、還暦を過ぎたマスターの低い声と、女子高生――私の妹である奏(かなで)の涼やかな声。
二人から同時に呼ばれた私は、どちらへともなく「はぁい」と返事をして、目の前のキッチンカウンターに置かれたナポリタンとエスプレッソに手を伸ばした。
あらかじめ用意しておいたトレーを慣れた手つきでくるりと回し、ナポリタンの皿とソーサーごとエスプレッソカップを載せる。
鉄板から立ちのぼる香ばしいケチャップの匂いと、濃いめに落とした珈琲豆の香りが混ざり合う。思わずくんくんと鼻の奥まで吸い込んでしまう、この店の匂いだ。
季節は夏真っ盛りを少し過ぎた八月下旬。
だというのに、外の溶けそうな暑さが窓から差し込んで、店内までじわじわ溶かそうとしてくる勢いだ。
ここは港にもほど近い、JR沿線の高架下にひっそりと佇む純喫茶「霧島珈琲店」。
木目のカウンターに四人がけテーブルが三つ。こぢんまりとした店内には、今日も当たり前みたいな顔でいつもの常連さんたちが腰を落ち着けている。
私たち姉妹が、両親を亡くして途方に暮れていた時、手を差し伸べてくれたのがマスター――霧島省吾さんだった。
住み込みで置いてもらって、もう四年になる。ここが今の私たちにとっての「家」であり、世界の中心だ。
「あるひちゃん。ナポリタンまだぁ?」
「はいはい、いま行きます」
鉄板の熱さに気をつけながらテーブルへと運び、笑顔と一緒に「お待たせしました」とナポリタンとエスプレッソを置く。
「ありがとねえ」「今日も暑いわねえ」なんて声をかけられて、「ほんとですね」なんて返しながら足早にカウンターへ戻ろうとした、そのとき。
背後から、カランコロンと心地よい鈴の音が鳴った。
もはや条件反射になっている「いらっしゃいませー」と少しだけ声を高めて振り向くと、入ってきたのは見慣れた顔。
首にタオルを巻いた、焼き鳥屋の店主である宗田さんだ。
「よっす」
軽く手を挙げた宗田さんは、案内を待つまでもなくいつものカウンター席にどっかと腰を下ろす。
「お水、すぐ出しますね」
私は急ぎ足でカウンターの奥に戻ると、トレーに冷水の入ったコップを一つ乗せ、すぐさま宗田さんの前へコトンと差し出した。
「サンキュー、あるひちゃん。にしてもあっちぃな〜。もう八月も終わりだってのに勘弁してほしいわ」
「ほんとですね。今年は残暑が十月まで長引くなんてニュースもありましたし」
宗田さんが大袈裟に手うちわでぱたぱたと自分をあおぐのを、私は苦笑まじりで眺める。
カウンターの中に視線を戻すと、マスターと奏が、宗田さんの「いつもの」を作り始めているのが見えた。
宗田さんは、この高架下商店街で育った人で、マスターの一人息子である将也(しょうや)さんの幼馴染だ。
今は並びの焼き鳥屋を継いで頑張っている、頼れるお兄さん的な存在でもある。
「おやっさん。将也のやつ、結局今年も帰ってこなかったな。あっちで元気してんのかね?」
コップの水を半分ほど飲んでから、宗田さんがマスターに話題を振る。
将也さん。
その名前が出るたび、私は少しだけ耳をそばだててしまう。
ここに来て四年になるけれど、私はマスターの息子さんに一度も会ったことがない。
東京で会社員をしているらしい、という話くらいしか聞いたことがなくて、そもそもマスターが息子の話題をほとんど出さないのだ。
「さあな。便りがないのが何とやらってやつだろ」
厨房から聞こえた少しぶっきらぼうな声は、けれど、どこか照れくさそうにも感じられた。
「ま、それもそうか。あいつ昔から真面目だからな。東京でバリバリ出世してんじゃねえの」
「ふん。まあ、変な意地張って体を壊してなきゃいいがな」
マスターはそう言いながら、手際よくサイフォンを操っている。
私はカウンターの端でグラスを拭きながら、ぼんやりと想像する。
マスターがあれだけ人格者で、誰にでも優しい人なのだ。
その息子さんである将也さんも、きっと間違いなく素敵な人に決まっている。
宗田さんの話だと「真面目」らしいし、きっとシュッとしたエリートで、大人の余裕がある人なんだろうな。
(一度、会ってみたいなあ……)
私たちを救ってくれたマスターが、大切に思っている息子さん。
いつかお店に来てくれたら、最高のおもてなしでお迎えしなきゃ。
そんなふうに、いつもの平和な時間が流れていくはずだった。
高架の振動と、食器の触れ合う音と、常連さんの笑い声。
狭い店内に、人の気配と、ナポリタンの匂いと、珈琲の香りがぎゅっと詰まっていく。
「あるひちゃん、オーダーお願い」
「あるひ、できたぞ」
「はーい」
テーブルから声がかかれば走り、カウンターから声がかかれば振り向く。
そんなふうに、心地よい忙しさに身を任せていた、そのときだった。
「……っ」
カウンターの奥から、短く息をのむ音が聞こえた。
続いて、ガシャンと何かが崩れ落ちる派手な音。
振り向いた瞬間、マスターが胸のあたりを押さえて、その場によろめくのが見えた。
「マスター!?」
私の悲鳴で、店内の空気が凍りつく。
「おい、おやっさん!? 大丈夫か!」
カウンターを飛び越える勢いで、宗田さんが駆け寄る。
マスターは苦しげに顔を歪めながら、床に膝をついた。
「お姉ちゃん!」
「うん!」
真っ青な顔をした奏の叫び声に押されるように、私は震える指でエプロンのポケットからスマホを取り出し、必死に「119」を押した。
がらんとしたように感じる店内で、救急車を呼ぶ私の声と、宗田さんがマスターを支えて声をかけ続ける怒号と、奏がタオルを持って走る気配が混ざり合う。
ほどなくして、店の外にサイレンの音が近づいてきた。
ストレッチャーに乗せられるマスターのそばで、私は奏と並んで付き添いとして救急隊員に名前を告げる。
扉の外へ運ばれていくストレッチャーの足元を支えながら、私は心臓の鼓動が自分でもうるさいくらい早くなっているのを感じていた。
「あるひちゃん、奏ちゃん、ここは俺が見とく! おやっさんについててやってくれ!」
宗田さんの声が、背中越しに届く。
「はい! お願いします!」
そう返事をして救急車に乗り込んだ瞬間、さっきまで珈琲の香りで満たされていた世界が、無機質なサイレンの音と消毒液の匂いに塗り替えられていくのを、私はただ呆然と感じていた。