――
北海道出身の僕は、関西私大の経済学部を卒業すると、そのまま就職活動を経て大阪で働くことになった。
勤務先はまずまず名の通った老舗の機器メーカー。
梅田や新大阪と並び称されるビジネス街、本町に本社ビルを構えるその建屋は街の喧騒のなかでもどこか落ち着いた風格を放っている。
二階にある経理課での用件を済ませた僕は、三階の営業部フロアへと戻ると、早々に所属する島へと足を向けた。
営業部は全部で四課。
中小型店舗向けのルート営業や新規開拓を担う二課にネット通販や通信販売を扱う三課。あと他社向けのODM・OEM事業を担当する四課と、僕の所属する大型店舗を担当する一課だ。
「おかえり。無事、|仁江ちゃん《お目当て》には会えたんかいな?」
戻るなり声をかけてきたのは、一課のエースを自称する今橋|主任《さん》。
シャープな顔つきに、どこまでもコテコテな関西弁が特徴的な二つ上の先輩だ。
入社当時は手厳しいお目付け役でもあったのだけど、ようやく独り立ちしつつある今では良い先輩後輩関係を築けていると思っている。たぶん。
「僕はただ経費の処理に行っただけで、そんなんじゃありません。……まあ、城崎《きざき》さんの邪魔が入りましたけど」
恨み節を加えると、今橋《いまばし》さんがカカカと笑う。
「せやろな。戻んのがやけに早い思たわ」
「笑ってますけど。今橋さんは城崎さんと仲いいんでしょう? 僕が経理に行くたび毎回ちょっかいかけてくるの、なんとかしてくださいよ」
「しゃあないがな。お前は城崎のお気に入りやからな。貴重やぞ? 他部署との交友関係は」
出た、関西人必殺の「しゃあない」。
これを繰り出すときは改善する気が微塵もないどころか、たいてい面白がってすらいるから困りものだ。
「僕は城崎さんじゃなくて、みゆきさんと仲良くなりたいんですよ」
どうやら社内一顔が広い先輩(女性社員限定、しかも評判が良いとは限らない)からの手厚いサポートは、期待できそうにないらしい。
そんなふうに思っていると、またもや「しゃあないなぁ」と今橋さん。
たしか語尾が伸びるほうの「しゃあない」は、なんとかしてやろう度が関東人でいうところの「しょうがない」より三割増しに跳ねるパターンだったような。
少し期待して顔を上げると、鋭めのジト目が返ってきた。
「お前のそのはっきりした感じ、嫌いちゃうで」
白けた目のまま「これ見てみぃ」と、おもむろにスマホを差し出してくる。
「今しがた、お前が邪魔者扱いしてた城崎からや」
画面を覗き込むと、表示されていたのは駅近くにあるバーの所在地図だった。
「今晩、城崎が仁江ちゃんとここで飲むらしいわ」
「みゆきさんと?」
「ああ。仁江ちゃん、なんや悩みごとがあるらしい。で、城崎がそのバーに誘ったんやと」
「はぁ。……でも、それが僕に何の関係が……?」
いまいち状況が飲み込めない。
相談に乗るのは城崎さんであって僕ではない。なら僕がこの情報を知ったところでどうしようもないのでは。
「まあそう焦んなて。なんや相談内容がちょっと複雑らしくてな。城崎が言うにはあいつではどうにもならんけど、お前やったらなんとかできるかもしれん、言うとんねん」
「えっ、僕なら……?」
まるでミ〇クボーイみたいな問答に目を瞬かせる僕に、今橋さんが嘆息ひとつ、肩をすくめてみせる。
「ほんま他の話にはたいして興味なさそうやのに、仁江ちゃんのことだけはえらい食いつきようやな」
「……仕方ないでしょう。みゆきさんは特別なんですから」
そう、特別。
遠目に見るだけで気持ちが前向きになれるような――
みゆきさんは僕にとってそれくらい大きな存在なのだ。
答えると、今橋さんが「前から思っててんけどな」と真顔で問いかけてくる。
「なんで仁江ちゃんなん? たしかにそうおらんレベルの美人やし、ええ子やとも思う。けど顔だけなら他にもおるやろ?」
視線の先にある二課の島に目を向けると、さっき見かけた永瀬さんの前に座る女子社員に自然と目が行く。
東京から来た新卒ルーキー。一年目からの出向は異例な上にその優れた容姿も相まり、春先には社内でも話題になっていた彼女。
課が違うからほとんど話したことはないけれど、たしかに容姿だけならみゆきさんに負けず劣らないレベルといえる。
「まあそれはそうと、どうする? 乗るんやったら俺から言うとくけど」
「……まだ仕事が残ってるんで。とりあえず、後で顔を出す方向で進めてもらってもいいですか?」
「あいよ。まあ、無理そうなら早めに連絡したってや」
そう言うと、今橋さんが席を立った。
「どこか行くんですか?」
「お前と同じ。終業前の暇つぶしや」
どうやら向かう先は二課の島らしい。
お目当ては永瀬さんか、それとも――あのとびきり目を引く女子社員といったところか。
「一緒にしないでくださいよ。僕のはれっきとした仕事なんですから」
「それなら俺もや。社内営業は社外営業に勝るって言うやろ?」
同じ部内で営業も何もないのでは?
ひらひらと手を振りながら洋々と歩いていく今橋さんの背中に、ツッコミ代わりの視線を送っておく。
……まあ、それはともかく。
あの城崎女史の差し金というのが少し引っかかりはするものの、職場以外でみゆきさんに会えるまたとないチャンスでもある。
だったら。
「行くしかないよな……」
鬼が出るか、蛇が出るか。
そうつぶやいて、僕は早々に残りの仕事へ手をつけることにした。