• ラブコメ

第1話「僕の妻が可愛いすぎて困る ※ぼくつま」


――


 僕には、ずっと好きな人がいる。

 その人の名前は、仁江《にえ》みゆきさん。二十六歳。
 同じ会社の経理課に所属する、ひとつ年上の先輩だ。

 営業である僕とは部署こそ違うものの、普段から「みゆきさん」と慕っている彼女は清楚で綺麗で、少し面倒くさがりながらも必ず手を差し伸べてくれる――天使みたいな人だ。

 何より、笑った顔がとびきり可愛い。

 入社してからこの四年間、みゆきさんはずっと、僕にとって“手の届かない存在”そのものだった。

 ――なのに、だ。

「ちょっと河合《かわい》くんっ。靴下、また脱ぎっぱなしだったわよ」

 2LDKのマンション。
 リビングに入るなり僕を叱ってくるその人はまぎれもなく“遠くから見る花”――つまり、仁江みゆきさんその人だった。

 そう――

 今僕は、とある事情でその“憧れの先輩”と一緒に暮らしているのだ。



 △▼



 ――遡ること数日前。


 社内フロアの区切られた一室。
 経理課の解放された出入り口前で、僕は入室のタイミングを見計らっていた。

 というのも今、みゆきさんがひとりの男性社員を応対中。
 出張精算の書類を受け取る彼女は相変わらずのにこやかな笑顔で、遠目に見ているだけで癒やされるというものである。

「ありがとうございました」

「いえ。いつもきっちりとまとめてくださるのでこちらもすごく助かってます」

 みゆきさんが柔らかに応じると、浅く一礼したのち早々に踵を返す男性社員。退室する際に僕と目が合い軽く会釈をしていった。

 あの人はたしか、今橋さんがいつも仲良くしている――営業二課の永瀬主任だったか。
 きっちり整えられた黒髪と細身なのにがっちりしたそのスーツ姿は仕事の出来る男感で溢れており、嫌味のない応対が逆に嫌味なくらいだ。

 ――まあそれはさておき。

 僕はみゆきさんがまだカウンターで書類を整理している隙を見計らって入室した。

「あのー、経費の処理をお願いしたいんですが?」

 ひょこっと声をかけ、目が合った瞬間、なぜか早々に軽くため息をつかれてしまう。

 あれ、さっきの永瀬さんに寄せた感じで爽やかに声をかけたつもりだったのに……おかしいな。

 もしかして仕事感が強過ぎたか? そう思い、慌てて言い直すことにする。

「みゆきさん、お疲れさまです。新作の手相占いを仕入れてきました!」

「テイクツーしなくていいから。早く申請書を出して」

 違ったらしい。はいと手を出され、両手を添えてそっと手渡す。

 受け取ったみゆきさんはさっと目を通し、そのまま突き返してきた。

「ここ、間違ってるわよ」

「あれ、おかしいな。どこですか?」

 手元を覗き込もうとすると、さっと書類を引っ込めるみゆきさん。今度はじとっとした目を向けられる。

「あのね、河合《かわい》くん」

「はい、なんでしょう」

「こんなこと言っちゃなんだけど。もしかして、わざと間違えてたりしない?」

「えっ。わざとって……どうしてそう思うんですか?」

「それは……だって、この前に指摘したのと同じ箇所が間違ってるから」

 そう言って、みゆきさんは指で“ここ”と示してくる。
 指摘箇所を見て、うん、間違ってないと安堵する。ただ、間違え間違ってないという意味でだけれど。

 とぼけていると、それ以上追求を強めないのがみゆきさんのみゆきさんたる所以《ゆえん》だ。
 諦めたのか、前回指導してくれたのと同じ内容を丁寧に改めて教えてくれる。
 
 本当に天使のように優しい人である。

 ああ、出来れば開発部に頼んで​1/7スケールの実写フィギュアを作り、部屋で崇めてたいくらいだ。

「あと、この前も言ったと思うけど、低額経費の精算は一週間以内で大丈夫なんだからね?」

「知ってますよ。だからこそこうやってこまめに来てるんじゃないですか。僕忘れやすいんで、期限を過ぎるよりはいいでしょう?」

「……それはそうだけど。あと、河合くんだけよ? 他部署でわたしのことを下の名前で呼ぶの」

「そうなんだ。じゃあ僕が社内でみゆきさんと一番親しいってことですねっ」

「どうしてそうなるのよ……」

 暖簾に腕押しな問答にどこからともなくクスッと笑い声が広がる。と、みゆきさんも軽くため息をついた。

 黄昏れるみゆきさんもやっぱり素敵だ。

「河合にはなに言うても無駄よ。みゆきもいい加減諦めや」

 背後から聞き慣れた関西弁。
 振り向くと、予想通り横やりを入れてきたのは同じく経理の城崎《きざき》主任(女史)だった。
 せっかくこの人がいない時を見計らって来たのに、早くも戻ってきてしまったらしい。

 せっかくのみゆきさんとの癒やしのひと時が。お呼びじゃないラスボスの登場に内心ため息をつく。

「じゃ、みゆきさん。また直して明日にでも持ってきますんで」

「え。ここで直していけばいいじゃない」

「訂正印忘れちゃったんで。城崎さんも失礼します」

「あいよー」

 面白がるようにひらひらと手を振る城崎さん。

 この人がいると必ず関西ノリで茶々が入るからな。

 僕は逃げるように退室した。



▲▽



「みゆきも懐かれて大変やね〜」

「少し困ってるんですから。からかわないでくださいよ」

 面白がるような感じに苦い顔を返すしかない。

「でもそや。この前みゆきが悩んでた件、あの子ならちょうどいいん違うの?」

「それは、そうかもですけど……」

「……って、まあ、あんたにはできんか」

 そう言って城崎さんは一足先に席へ着く。

 彼女の言う通り、河合くんなら多少なりわたしに好意を持ってくれていると思うし、頼めば助けてくれるかもしれない。

 それに期限も近い。

 ――でも、そんな弄ぶようなこと……。

 って、仕事仕事。

 わたしは切り替えるように席についた。


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