4月が過ぎ、高校生活に慣れてきた頃。アサガオが顔を出す。
今年は猛暑で、春の陽気は一瞬で過ぎた。
学校で、夏。
プール開きの到来だ。
先生は、高校初めてのプールだからと、自由時間にしてくれた。
かわいそうに、男子は校庭で走らされている。
高校生だから、もちろん指定のスクール水着。どこを見ても、絶景だ。
セーラー服よりも恥ずかしいけど、楽しみの方が多いから、意気揚々と着替えた。
自然と吸い寄せられる、視線。
青い空のもと、まだシミのない若い肌が、きらめいている。
一生懸命に遊泳する生徒がいれば、日焼けを気にして影を探している子も見かけた。
私は目立たないように、見つめるだけ。
「恵巳さん」
「うわっ!」
突然、視界に手が入り込んできた。
緑の痣。ナギサちゃんの左手だ。
「恵巳さん、隣、いいですか?」
「友達とはもういいの?」
「はい。最近は逆に、恵巳さんのとこに行かないのって、心配してくれます」
「……なんか公認になってる?」
「ふふふ。みんな、自己紹介のこと、覚えているんですよ」
ナギサちゃんは、クラスメイトとの付き合いを減らしている。
周囲を突き放していないけど、距離をとっている感じ。
その分、2人の時間が増えた。
「それよりも、恵巳さん、あたしのこと見てなかったですよね?」
「そ、そんなことはないけど……」
「目が泳いでますよ」
無意識に、大好きなスクール水着を追いかけていただけだし。
スクール水着が魅力的なのが、わるい。
「恵巳さん」
「はいっ」
徐々に、ナギサちゃんの顔が近づく。迫ってくる。
黒い瞳が視界から入り込んで、私の神経をがんじがらめにして、体を固める。
「恵巳さん、見ていてください」
消毒シャワーみたいに冷たい声とともに、ナギサちゃんは、プールに飛び込んだ。
水面越しに見える、ボディライン。
お風呂で見る姿とは、印象が変わる。
クロール。
息継ぎ。
水しぶきが、お日様を反射して、ナギサちゃんの体を彩る。
プールの青さが、肌の美しさを際立てた。
動きのひとつひとつが、肉体美の別側面を見せ、周囲の|生唾《なまつば》を奪い去っていく。
そっか。
この世界は、額縁だ。
森羅万象は、ナギサちゃんを美しく見せるために、存在してる。
頭の中で甘美な光景を|反芻《はんすう》していると、時間を忘れていた。
まだ水を滴らせているナギサちゃんが、目の前に立っている。
「どうでした?」
「キレイだった。すごく」
「ありがとう、ございます……。もう、他の人は見えませんか?」
「……うん」
ナギサちゃんで、欲の全部が、満たされちゃった。
「恵巳さんの泳ぎも見てみたいです」
「人間は、泳げるようにできていないの」
「ふふふ。そうですか」
軽くあしらわれて、負けた気分。
まあ、ナギサちゃんになら、いくら負けてもいい。
でも、ちょっとイタズラしたくなった。
「いいの? 私、泳いだら注目されちゃうかもよ?」
「……やっぱり、ダメです」
「そっか」
「はい。ダメです」
さっきまでは女神のようだった少女が、頬を膨らませながら、私に身を寄せる。
そっか。
私、また負けた。かわいすぎる。
「残りの時間、プールの端で、泳ぐ練習をしませんか?」
「えー。大変そう」
「あたしが教えたいだけ、なんです」
「好きだよね。教えるの」
「ふたりっきりになれますから。頭の中も」
教えるのは、難しい。教えられる側も、必死になる。両方とも、他の事を考える余裕はない。
本当に、ふたりっきりになれる、魔法のひと時。
それから、泳ぎ方を教えてもらった。
バタ足すらド下手だったけど、ナギサちゃんの教え方が上手だった。
上達すると、自分のように喜んでくれて、尊い。
両手を握って支えられていると、照れくさかった。
甘酸っぱくて、楽しい時間は、ほんの一瞬。
チャイムが鳴った。
急いで着替えないと、次の授業に間に合わない。
クラスメイトたちは、次々と更衣室へ駆け込んでいく。
私も続こうとした瞬間。手を引かれた。
「ちょっとおかしなお願いなんですけど、聞いてくれますか?」
「なに?」
「手を握っていて、ずっと考えていたんです」
恥ずかしそうに顔を赤らめる、ナギサちゃんの顔。
純粋な乙女に見えるのに、ラベルのないペットボトルみたいに危うい。
「あなたの手で、私をプールに沈めてくれませんか?」
濡れた黒髪が艶やかに光り、先から雫が落ちて、プールサイドの色を変える。
塩素の香りが漂う空間。
もう、生徒も教師も残っていない。
口の中が、プールのしょっぱさに染まっていく。
食べ物が通ると思えない、なめらかで繊細な首を凝視しながら、私は自分の手をさすった。