忘備録その2です。
『荒魂の旦那様は、最初の妻を離さない』
https://kakuyomu.jp/works/16818792437396083549のヒロイン“りよ”の元許嫁についてです。
以下、ネタバレを含みます。
彼は、優しい初恋の人ではありません。
死んでなお勝ちに来る男です。
作中ではずっと、『中島鉄之介』という名で呼ばれています。
しかし、彼が死んだときの通名は『九郎左衛門』実名は『忠礼(ただのり)』
職位は、『番頭表御用人見習い』 年齢は数えで16歳でした。
歴史に詳しい人なら、この鉄之介の設定に何重にも疑問を抱くはずです。
1、元服したての15~16歳の少年に『九郎左衛門』という通称は重過ぎる。
2、元服したのに、許嫁や母親はずっと幼名の『鉄之介』を使い続けている。
3、そもそも、出仕したてで、『番頭表御用人見習い』という職位は重過ぎる。
これらのことから導き出されるのは――
作中で、薄幸の優しい若武者は――
実は、生きていれば新政府の要人に上り詰めたであろう神童だった。
という事でした。
彼の年表を紐解いてみましょう。
中島忠礼(鉄之介)(1853-1868)(歳は数え)
嘉永6年(1853)1歳 中島 九郎左衛門 忠英の長男として誕生。母は正妻のてい。
中島家は藩主の傍系で、年寄格。
安政2年(1855)3歳 片岡兵十郎 長女りよ誕生。 まもなく婚約。
安政4年(1857)5歳 四書五経を読破。神童と名を馳せ始める。
安政5年(1858)6歳 りよの母みつ死去。
この頃から兵十郎から婚約の見直しを打診される。
安政6年(1859)7歳 藩校で助教を論破。藩主の耳にも届く。
文久2年(1862)10歳 藩主嫡男 中島 忠常(17)の側小姓に取り立てられる。
慶応2年(1866)14歳 忠常、藩主代理として第二次長州征伐へ。鉄之介も同行。
慶応3年(1867)15歳 忠常、家督相続。藩主となる。
慶応4年(1868)16歳 1月元服。烏帽子親は新藩主忠常。通名『数馬』
引き続き 若様側仕えに
4月 城下で戦闘。
6月 非番時、忠常暗殺。父忠英を含む重臣数名も巻き添えに
後継者を指名していなかったため死は隠匿され、翌月発表
7月 家督相続。番頭表御用人見習い。
通名を父と同じ『九郎左衛門』とする。
明治元年(1868)16歳 9月北越戦争へ。 軍監付・補佐として出陣。
9月末 古志国 宵田藩領内にて
差図役として指揮中に狙撃される。
味方側(萩月藩藤波隊)からの誤射によるもの。
日没までに死去。近習が髷を切り国元に持ち帰る。
遺体は行方不明に。討死扱いに。中島家断絶。
11月 『太政官日誌 明治元年158号』にて討死の記事。
明治2年(1869) 宵田で、怪異の噂が広がり始める。
明治5年(1872)9月 元許嫁りよと、その夫の手により消滅。
9月末 母・ていの元へ遺骨が返還される。
ざっとこんな感じでしょうか。
本編では、ふわっとりよに見せていた優しい少年の顔と、死亡時の姿のみが描写されていますが、実は、メチャクチャ出世株でしたwww
あと、本当はすごく腹黒くて、プライドの高い策士でもあります。
しっかり、年寄格の嫡男なんですよね。
『荒魂の旦那様は、最初の妻を離さない』の第十三話で、
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『……そうか。
私は――中島 九郎左衛門 忠礼。静間藩、番頭表御用人見習いを仰せつかっていた。
りよ殿は、いつまでも私を“鉄之介”と呼ぶが……それは、幼名だ』
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と自己紹介していますが、
しっかりと生前の一番高い役職名と、若武者『数馬』ではなく、『九郎左衛門』を名乗っています。
しかも、『りよは鉄之介と呼ぶけど、幼名だ』と、『清孝殿、私は君の知らないりよ殿を知っているのだよ。重ねた年月があるんだよ。』とマウントを取っていますwww
おそらく、生涯のほとんどを『中島家の神童』として過ごし、藩主の覚えもめでたかった鉄之介は、忠常の死、あるいは凶弾に倒れる瞬間まで、挫折ということを知らずに過ごしてきたと思われます。
更に、
『りよ殿……今は、幸せか?』
と、彼女の夫の前でわざわざたずね、
『斎部殿……りよ殿は、私の大切な女でございました。
不遇な生い立ちでありますが……どうか――末永く、大切にしてやってください』
と現夫の清孝に釘を刺す。
一見すると、死者の未練に見えますが、
鉄之介の真意は、りよへの猛烈な執着と無念。
現夫への嫉妬と一矢報いて一生忘れえぬ傷を作る。
という攻撃力の高い行いです。
この一連のやり取りで、
りよの心には優しく幸薄かった鉄之介の美しい思い出だけが残り続け、
清孝には、「死者には勝てないよ?」というマウントの置き土産をする。
あのいまわの際に瞬時に計算して、やらかす鉄之介はさわやか腹黒策士なのです。
まあ当然でしょう……藩主に若くから認められ、若干16歳で藩の重席に着いた彼が、ピュアな少年の訳がないのです。
けれど、きっと生前の鉄之介は、母のていと、許嫁のりよの前では、ただの優しい少年として過ごすことができた――、だからきっとあの二人は、死後も呼び名れた『鉄之介』という名で呼び続けたのだと思います。
では、最後に――
なぜ、そんなさわやか腹黒策士の鉄之介が、
味方の誤射などという不名誉な死を遂げなければならなかったか、です。
そもそも、彼がこれだけ異彩を放っていたのは、中島家に伝わる荒魂『皆武知さま』といういにしえの武神によるものでした。
第十四話で、ていが割れた翡翠の勾玉の破片を受け取った際に語っています。
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この玉に封じられていたのは、“皆武知さま”。
中島家が、まだ波多野氏と名乗っていた頃――領していた荘園を荒らすいにしえの荒魂を封じ、やがて神として祀り上げたのが、その始まりです
中略
武家として身を立てた中島家にとって、“皆武知さま”は戦の神となり、多くの武功をもたらしてくれました。
天正年間、先祖が挙げた数々の武勲にも、この神威が少なからず関わっていたことでしょう。
ご存じのとおり、我が中島家は静間藩主・中島家の傍系にあたります。
江戸の太平の世となってからは、“皆武知さま”の封印と管理を、大名家より密命として仰せつかっておりました。
この秘密は、代々の当主とその妻だけに受け継がれ……鉄之介が、最後の持ち主となったのです。
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そして、ていは、鉄之介がその力を十分に受けられなかったのは、まだ嫁を迎えていなかったからだ、と言っています。
つまり、鉄之介は、体裁など気にせず、さっさとりよを迎えていれば、死ななかったのです。
でも、彼の立場を思えば、慶應4年1月の元服も、7月の家督相続も、9月の出陣も、避けることも時期をずらすこともできず、全てがりよとの縁談を先延ばしにせざるを得ない理由でした。
もし彼がもっと不誠実で、去り際の一夜、強引にりよを奪ってから戦地へ向かっていれば、彼は「新政府の要人」として生き残っていたかもしれない。
彼の「潔癖なエリート意識」こそが、自身の命運を分けたとも言えます。
さて、こうして、りよの心に生涯忘れえぬ美しい思い出を
清孝の心に焦燥を植え付け、勝利したかに見えた鉄之介ですが……
一つだけ、清孝が勝ち得たものがあります。
鉄之介とりよは、生涯清い関係でした。
(なお、
当時りよは13歳。
満年齢だと12歳。
しかも虐待を受けていて、おそらく発育も悪かった。
そんな幼いりよを手籠めになんて、夢にも思わなかったのでした。)
そうです! 鉄之助はりよの肌を知らない。
そして、清孝とりよはひとり息子の清至をもうけています。
……清孝くん、勝てたものがあってよかったね……
追伸
あ゛-------------------っっっっ
気が付いちゃった。
なんで、年若い鉄之介が、番頭表御用人見習い。
軍監付・補佐
差図役
なんて重役を負わせられたか。
藩主は知っていたんだよ。
鉄之介が、皆武知さまを継承した『軍神』であるはずだって