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精神的サポーター限定-眠ってたエッセイ初期の下書き

 恐ろしい。とても恐い。
 随筆・随想を書く人と言うのは、なんて強いんだろう。

 そう感じながら、今キーを叩いている。ボクは今まで、エッセイと明記したものも、〝掌編集でありネタ帳〟と、銘打ったショーケースに並べてきた。別に他意はない。
 何も思いつかなかっただけだ。

 わざわざ小説の設定して、銘を切って公開するほどのものじゃない。そう判断した掌編も、気ままに綴った随想も、同じハコにぶち込んで来た。
 そもそも、いちいち小説設定してキャッチコピーつけるの……面倒くさかった。正直、必要のないコピーと解説書くの、面倒この上ないと思う。それなりの想いが要る。ササっとで、良いと思う。よそ様の短いのを読んで、
「これ公開するだけのために、よくこんな大仰な手間をかけられるな」
 と感じることがある。傲慢ながらムダと思う事すらある。
 あっ。今ギクッとした方がいたら、あなたの作品はそれに当てはまらない。

 だってほら、なんだ。……良し悪し以前の問題ってあるだろ。
 タマゴに付箋で「タマゴです」って書いて貼ってても、しょうがないだろう。
 空しいだろう。

 読者が知りたいのは生卵か茹で卵か、新鮮か古いか、1パック何円なのか……とかとか。とにかくタイトル以上の、付加情報じゃないか。
 キャッチコピーや作品解説ってのはそういうものだ。《《そのもの》》ではない。タマゴの美味しさ、そのものではない。けども必要で大事な情報だ。そりゃあった方がいい。見栄えも大事だ。
 でもその匙加減ってので、自分をがどんな人間か晒している訳だ。著者ページは、その文章以上に雄弁に彼の主人を語る。ギクッとかする人はもうすでに気を遣ってる人なわけであるから、誰にもなんにも思われて無いと思う。
 あるいは、一定水準である、と自信をもって世に送り出しているんだ。
 そういう人の文章も、誰にもそんなこと思われない。「タマゴだよ」って強調されるべきタマゴ、ってコトだ。

 いかんいかん、話を戻そう。
 今さら――本当に今さら――なんでエッセイを始めるのか?
 理由は二つある。

 ひとつ。あまりにネタ帳が雑多になってきたこと。

『すごいハナシ盛って、めちゃくちゃ濃ゆく味付けしてあるが、ノンフィクション』
 なのか?

『とても正直にリアルな自分を投影してあるが、フィクション』
 なのか?

 書いた本人だから、僕には明白に区別がつく。
 しかしもう項を連ねすぎて、次にページをめくると出るのはフィクションなのかノンフィクションなのか、どちらでもないのか。並んでいるどのタイトルが創作で、ドレが誇張やストーリー仕立てにされた随想で、ドレが実験物なのか? ……さすがにもうヤバイ。臨界点だ。
 ちなみにこの臨界点ってのは、ボクが自分で読み返して不愉快になったからだ。
 じゃあもう明確に臨界点なんだ。
 書いた本人がそう思うのだから。

(ほう、このバカもついに読者の視線なぞ考えるようになったか)

 とか、もし思ってくれたらその親心が嬉しくて、あたたかくて涙が出てくる。いやそれもある。もちろんあるよ!
 でもそのくらいか。その証拠に現状、ネタ帳の方をいじる気がない。だってコメントとか頂いてる奴もあるし。自分用の記録としてはこのままがいいし。一応、展開可能なネタの種でもあるし。

 でもこれから、ネタ帳に収められるのは基本的にフィクションだ。エッセイはココに置かれるから、これからはどうしたってそうなる。悪い事じゃないと思う。

 あんな雑多な物入れでも、僕なりに出来の良し悪しを感じている。そりゃ書いた本人だから。そりゃまあ一応ある。わりといいんじゃないかなー、って思うのもあるし、応援とコメントなきゃ消してるな、ぐらい眉をひそめているのもある。
 それでもアレはアレで続けて行こうと思う。

 さて、ひとつめの理由は説明し終わった。一言にすると、すさまじくシンプルになったので書かない。だって、何のために千文字費やしたの俺ってなるじゃん。
 悪癖が衆目にさらされて悲しいじゃん。
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断片はここで途切れている。

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