職場の玄関、そこには案内係として立つ彼女の姿があった。
かつての二人なら、ひと目も憚らずカウンターへ歩み寄り、冗談を交わし、笑い合っていたはずの場所。
しかし、今の彼は違う。彼女からもらったお気に入りの品々はすべて箱にしまい、自分で選んだ新しい装いに身を包んでいる。
玄関のドアの前で、彼は自分を律するように深く息を吸い込んだ。
「元気か?」「調子はどうだ?」
喉まで出かかったその言葉を、彼は飲み込んだ。揺れる心をねじ伏せ、短い会釈ひとつ、ごくろうさまという視線だけで、ただ黙って彼女の前を通り過ぎた。
それは、拒絶というよりも、彼が自分自身のプライドを守るために引いた、最後の一線だった。
通り過ぎた背中に感じる、冷たい風。
「話をするいい機会だったのかもしれない」という未練と、「彼女は何も感じていないだろう」という冷徹な推測が、頭の中で激しく交差する。
しかし、その葛藤の果てに彼が辿り着いたのは、彼女への怒りではなく、もっと深く、根源的な絶望だった。
「ああ、自分は今、人間不信の中にいるのだ」
六十七年の人生。これまで何度も、信頼していた者に裏切られてきた。
そのたびに彼は「裏切るより、裏切られる方がいい」と自分に言い聞かせ、自分だけは誠実であろうと努めてきた。
二十年続く冷え切った再婚生活。その乾いた日々に光を灯したのが、この四年間だったはずだった。
彼女こそは信頼に値すると信じ、正面から愛した。だが、その結末は、四年間などなかったかのような、唐突で冷酷な断絶だった。
この「揺れ」は、単なる失恋の余震ではない。
信じることを、愛することを、何度も踏みにじられてきた魂が上げる、悲鳴なのだ。
もう自分は若くない。
この年齢での裏切り、人間不信はきつすぎると思えた。
この深い不信の沼から、再び立ち上がれる日が来るのだろうか。
これほどまでに裏切られ続ける自分は、誰かを愛することのできない「欠陥商品」なのではないか――。
冬の朝、新しいコートの襟を立てながら、彼は独り、その問いを噛み締める。
だが、その「人間不信」こそが、彼がこれまで一度も誰かを「適当に」愛してこなかった何よりの証拠でもあったのかも知れないと少し思った。
ーーーーこれは答えではなく、
失恋の余震の中で自分を保つために書いたメモです。
作品を書く人間として、
感情がどこまで揺れるのかを確かめた記録でもあります。