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ハレとケの細動


 外出先で祭り囃子が聞こえてきた。近くで地元の祭典が行われているらしい。
 はしゃぐ人もいたが、それなりの人物が写真撮影ではなくスマホをのぞき込んでいるのも見えた。

 祭りに愛着を覚えなくなったのは、早い話祭り以上の非日常が簡単に手に入るようになったからなんじゃないかと思っている。

 刺激とは落差であり、相対的なものである。
 簡単に手に入るものに愛着を感じることはできない。
 その内容がいかに良質で、実際に価値あるものだったとしても、簡単に手に入ったもの、言い換えるなら落差のないものに刺激を覚えることはない。

 タイパやコスパに優れた生活は、毎日をハレにした。しかし、毎日が非日常ならば、それはすでに日常である。日常は落差がないからこそ日常たり得る。仮に落差まみれなら遠からずその人は精神を病むだろう。


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 どこかのインタビューで、タモリがビールを美味しく飲む方法として、一連の行動を「儀式化する」というやり方を教えたことがある。

 プロセスを用意することで、日常よりも手間をかけた環境を作る。プレミアムを演出する。落差がないなら、自分で穴を掘ればいいという考え方だ。

 現代においてハレとケは分かちがたく融合(往復)しているような状態であるが、人はどこかで純粋な、混じりっけなしのハレを求めている節がある。

 刺激は相対的なものであるから、自ら継続的な不便に落ちればかなりの確率で享受はできるだろうが、そんな風変わりな選択が出来る物好きはそうはいない。

 どこかで、精神的、時間的な何かを以て……ハレへの奉納をしなければいけないのだろうなとは思うのだ。

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