民主主義・政党政治の劣化は留まるところを知らないようだ。
この現象を招いた遠因はSNSなのだろうけれど、その責をSNSに負わせるのは正しくない。SNSは、人々の心の底に溜っている澱をかき混ぜ、世の中を濁らせているのだが、あくまでツールでしかない。残念ながらそれが「言論統制されていない自由社会」でマイナスの効果を発揮しているのは事実だが、そういった機能はやがては減速すると僕は思っている。
元通りにはならないだろうが、かき混ぜられた濁りはやがて落ち着いていくだろう。
そしてその頃には逆に「言論統制の社会」で、統制がとれなくなっている可能性は高い。世の中というものは、そういうもので、無理に清浄化された社会では病は劇的になるものである。
しかし、現段階に於いてSNSに毒されたことで多くの民主主義社会は明らかに病にかかっている。アメリカでそれは顕著だが、日本では別の様相を呈している。それは政党政治の「ポピュリズムによる無効化」即ち、政党政治に必須な「論点」の消失という形で現われている。その病は放置していてはおそらくは治癒しない。SNSを軸にした政治はほぼ間違えなく衆愚政治へと堕ちていく。減税ポピュリズムというのもその病の一つである。
減税ポピュリズムを招いたのは、前回の選挙で国民民主党が掲げた「手取りを増やす」というスローガンが「本人達が想定していたより」うけて、党勢が躍進したことに起因している。調子に乗ったせいで、代表が不倫を暴露されたにも拘わらず、なんだか許されたみたいになったのは不思議であった。
まあ、そんな安っぽい不倫などはどうでもいいことなのだが、問題はお陰でどいつもこいつも「減税」に乗っかり始めたことである。どっかのばちもんメーカーが安売りすると、みんなが安売りに走るような物で、「頭の悪い」ことこの上ない。代替財源がない減税には乗れない、などとほざいている与党が一番まともに見えるが、与党がまともな政治をやっているなら誰も困りはしないのだ。怪しげな宗教団体や農業団体に踊らされている政治がそもそもまともなはずもない。まあ、彼らの主張に一理あるとしたら減税というのは原則、行政の質の低下か、国家の財政の悪化という形で国民に竹篦返しが来る物である。だから辞めた方が良いよということであろう。それは「僕たちは無駄に金を使っていました」という告白であり、その上「無駄なところに金は使い続ける」宣告である。
米価を始めとして馬鹿みたいな物価高(物価の上昇を非難しているわけではない。馬鹿みたいな物価高を非難しているのだ)を解消すれば、減税などしなくても結構だし、税金が足りないなら宗教法人に課税すればいいではないか(信教の自由は課税しても守られる)、などという意見を「自分たちが当選するための票田を敵に回せない」から拒否するのならば、減税チームも減税拒否チームも日本の政治の表舞台から消えて欲しいのが本音である。
どこぞの県知事が米価は高騰したままで良いと言っているらしいが、そもそも米価を高騰したままでいいというのは、もちろん農業を守る事でも、農民を守ることでさえなく、自分を守っているだけである。日本の農業の非生産性をそのままにしておいて、中抜きしている者たちを放置する意思表明をするような非常識な政治家が存在すること自体何かが間違っているのだ。本当に日本の農業を守ろうとしたとき、おそらく個別の「農民」とは必ずコンフリクトが起こる。今のまま放置して置いても、また今やっているような米価の維持をしてもおそらく日本の農業は確実に衰退する。むしろ彼らは衰退を促進しているのだ。
SNSに鼻面を引き回されているような政治家も、既存勢力にべったりの政治家もいい加減見飽きた。かといって、最近やたら生えてきているできそこないの雨後の筍のような政党(最近できる政党の特徴は基本的なスタンスを明示せずにどうでもいい現象だけをイシューにする)なら、ほんものの筍の方が数等、マシである。
いよいよ、参議院選挙は白票しか選択肢がなくなってきつつあるようだ。それでも僕は投票所に行くだろう。白票は既存政党へのVETOであり、雨後の筍への嫌悪でもある。